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千人からの

作者: moomoo



誤字脱字はみのがしてください




数段先の彼は足下のエスカレーターとほぼ同じ速度感で言った。


「君を見かけた瞬間僕はとても救われた気持ちになった。愛はここにあるんだ、って感じた」


私は彼がなにを言っているのか解らなかった。勿論、彼の言葉の意味だ。彼の声は淡々としていた。


エスカレーターは機械とは思えない滑らかな動きで私達を運ぶ。通話が切れた際の「つー、つー」という音と似た単調さでこの動く階段は私達をじょじょに、ゆっくりと上に向かわせる。私はなんだか苛ついた。


「あそこで君を見逃したら永遠に愛はやってこないんだ、って考えたら、足が勝手に動いてたんだ。全くの他人のなんの変哲も無い君になぜこういった感情を抱いたのかは不思議だけど、ともかく君を見逃してはいけないということは判ったんだ」


私はエスカレーターに平行して張り巡らされた鏡に目を移す。映ったのは気だるそうな自分。そんな自分を見て更に気だるくなる。私は綺麗じゃない。


左右若干大きさが異なっている目、もう少し高くてもいいのにと嘆きたくなる鼻、いつか知らない初老の男性に連れられて入っていった小汚いバーで頼んだウーロンハイぐらい薄い唇。町中のマネキンは女の敵だ。


「だから僕は声をかけた。勇気を出して。あの時は申し訳ないと思っているよ。声が大きすぎた。でもあれくらい大きくないと雑踏に掻き消されるじゃんか」


私は鏡から数段先の彼の背に目線を戻し、こう言い放った。「初めまして、お食事でもいかがですか?でしょ」


そう、それだ、と彼は返す。


「初めまして、お食事でもいかがですか?なんて台詞、初めて言ったよ。二度と言うことはないだろうな」


「私もその台詞をこれから二度と聞くことはないと思う」


私は彼のエスカレーターのような一定調子の話し方にうんざりしながら、自分の耳たぶの感触を確かめた。これは私のどうしようもない癖だった。本当に幼いときからこの癖はあった気がする。


「断らないでくれてありがとう、僕もわからないんだけど、声をかけろって誰かに言われた気がして」彼は言った。


「漫画のキャラクターでもそんな口説きしないよ」


私がこの男の誘いを受け入れたのは、この男のTシャツから抜き出ていた二本の腕がとても綺麗だったことと、待ち合わせていた友人が急に来れなくなったからである。それ以外の理由はない。男が女をデートに誘い、女が男の誘いにのっただけのことだ。それだけだ。


腕が綺麗だな、とぼんやりしながら眺めていると彼の名前が気になった。お互いまだ名乗っていない。彼は名前を聞いてこない。不思議な男だった。彼が聞いてこないなら、私も聞くまい。自分から男との距離を詰める行為はなんとなく癪だ。


「ところで、なんでさっきから少し遠くにいるの」私はエスカレーター三段先の彼に質問を投げかける。


私と彼の間には三段の距離がある。これでは他人と同じだ。この距離はエスカレーターで他人にとる距離だ。曲がりなりにもデートなのに。不思議だった。


「デートなのに遠い気がする。いままでの私の経験上」


彼は少し間を空けて言った。「距離がとても重要だから、気を遣っているんだ」


「え?」


彼はとても大事なことを口に出すように言う。「君との距離がとても大事なことなんだよ。これは間違いないことだ」


「距離って、センチとかメートルとか?」


「センチとかメートルとか、だよ」


彼は続けた。


「素敵な言葉遣いや知的な行動、紳士の振る舞い、抜群な服のセンス、たまに見せる可愛げは男が備えておくべき大事なことだと思う。でも僕が23年生きてきた経験の積み重ねによって導かれた真に重要なポイントは『適度な距離』なんだよ」


彼が23歳だということがわかった。だが肝心の疑問は未解決だった。


「適度な距離?じゃあこの妙な間は君と私の一番良い距離ってこと?」


「そうだよ」しっかりしているとも真抜けているとも捉えられる返事をした。


これ以上聞いてもなにもならないと考え、適度な距離についてはもうやめておいた。しかし私の感情を司っている部分にエスカレーター三段分のしこりができた。


彼の考えていることがわからなかった。いきなり声をかけられることが経験がないわけではないが、こんなズレた男に声をかけられることは初めてだった。服装も色褪せているし、靴は履き古したのだろうか酷く汚れている。


私はなんだかどうでもよくなり家に帰りたいような帰りたくないような気持ちになった。


「実はずーっと前から狙ってた物があるんだけど、それがちょうど五階にあるから、見ていってもいいかな」


私はこのビルの五階のある店のショーケース内で煌めく素敵なネックレスを思い浮かべた。私はそれを見たくなった。言うならば、彼が『声をかけろって言われた気がして』と同じように、私も『ネックレスを見ろと言われた気がし』たのかもしれない。


それは純真で汚れのない輝きのネックレスだ。形状に特別な魅力があるわけでもないし、どこぞの整った顔を売りにしている人間が贔屓して着用しているわけでもない。ただ、そのネックレスだけは、真っ直ぐにこちらを向いて、真理のようなものを発信しているような、でもっていかなる莫大なエネルギーをも受け取ることができる余裕を醸し出している、ような気がした。気がするだけだ。


私のような人間が感じる「奥」はたぶん方向違いで、ドロッとした不潔な流動体が溢れかえっている。だが私はここから回れ右なんて出来ない。


「いいよ、みにいこうよ」彼は足下のエレベーターと全く同じ速度感で振り向いて優しく言った。私は彼のことを変な人間だと思ったが、気持ち悪い人間ではないと感じた。


エスカレーターを降り五階をある程度進んでお目当ての店を見つけた。ネックレスはすぐに見つけることができた。綺麗なネックレス以外のアクセサリーは全て綺麗ではなかったからだ。


私は当たり前のように彼にネックレスをせがみ、彼は当たり前のように私にネックレスをプレゼントした。私は喜んで見せた。


彼は距離がどうのこうの言っていたが最後には「とても良いネックレスを選んだね」と褒めた。私は買って欲しい雰囲気を自然に出すことも「買ってあげる」と言わせることも得意だ。特技ともいえた。


五階から更に上がって七階にある洋食屋の奥の席でハンバーグを半分ほど食べた彼は一度手を止めて私の薄い唇と真っ白な皿の間に位置するパスタを何秒か眺めると「連絡先を交換しよう」と言った。


いいよ、と私は答えた。彼に連絡先を教えるのはやはり不思議と不快感がなかった。


「でも、いつでも連絡をとれるようにしちゃうとあなたが言っていた『距離』が一気に近づいちゃうんじゃない?」


そう言いながら私はまたフォークの先をくるくると回してパスタを巻きつけた。それを見て私は太った男を連想した。それをぱくりと食べると、気持ちが悪いような、征服感を感じるような、妙な気持ちがした。


「僕の話をひとつ聞いてくれるかい?」太った男が私の口の中で完全に咀嚼されたことを彼は確認すると、ゆっくりと言った。


いいよ、と私は答えた。美味しいパスタを食べて少し苛々が収まったようだった。彼の話を聞いても良いと思った。どうやら私はお腹が膨れて落ち着いたようだ。


私はいつもこうして自分のメニュー画面をひらいて自分の気持ちのステータスを確認するのだ。そうしなければなにを感じているのかわからないからだ。美味しいパスタを食べることで苛々が収まる、そういう技を覚えたということを念仏みたいに唱えて身体に染み込ませていく。


彼は話し出す。


「僕はこれまで悲惨な人生を送ってきた。素敵なことなんてひとつもなかった。本当に良い事は誰に対しても一切起きない。本当に悪い事もひとつもこの世界では起こっていやしない」


彼は続ける。


「問題は僕達にある。僕はそれに気付いたとき、何かを求めることをやめた。やめざるをえなかった。そこからまた自分を保って進むには僕は汚れすぎていたから。自滅だよ」


彼は私の理解を追い付かない速度でどんどん話した。


「僕は泥が付いたまま前に進むことを恥じた。誰もその汚れに気付かないしもし気付いたとしてもその1秒後には既に忘れているのさ」


私はよくわからなかったが、聞いている風を出す為に質問をする。「その汚れっていうのは、具体的にどういうもの?」


「心の複雑化」彼は真っ直ぐ私を見てそう言ったが、彼の目がみていたものは私の瞳に写る彼自身なのではないかと私は思った。


「成長っていうのは悲惨性だと僕は思う。なにかを学んでいく度に、心の皮が厚くなっていく。皮は層という層を重ねてやがては完全に固まる。確立するわけだ。おびただしい量の層は心の動きを完全に吸収して分散させる。平和なんだ、成長することによって平和を手に入れる」


「あなたが言っていること、全然わからないんだけど」


私は本当にわからなかった。呪文のような早口で聞き取り辛く、迫真的で彼が少し怖いとも思った。悲惨性とか平和とか、さっぱりだった。


「ごめん、言い直すよ、つまり簡単に言っちゃえば」


私は彼がとんでもないことを言うんじゃないかと予想した。


「言っちゃえば?」


彼は初めて笑顔をみせて言った。彼がいままで一度も笑顔を見せていないということに気づき驚いた。


「死んでしまいたい」


言い放った。


私はとても面倒くさい男だと嫌になったが、彼の「今ではないどこか」を見ている目をなんだか切なくなってしまったのち、彼を愛おしく思いはじめる。


生きたくないんだよ、と言うと彼はとても申しわけなさそうな顔した。


「まあ、死にたくなる人っていっぱいいるし、大丈夫だよ」


慰めの言葉にもならない馬鹿みたいなことを私は言う。なんの心もこもっていなくて私は苦笑した。



彼はそれに応えず、いままでのエスカレーターのような寸分狂わずの一定した話し方を初めて崩し、人間味らしい不定さ、1+1が2ではない話し方で語り始めた。


「僕を好きになってくれる人もいたけど、歯車があわないっていうか、綺麗な凹凸にならない感じで」


その時から私に異変が起き始めた。


私は待ち合わせていた友人のことをふいに思い出した。私の友人はリストカットの経験があり、一度病院に運ばれたことがある。彼女の気丈な振る舞いはいつも痛々しい。だが私はそんな友人とランチすることが好きだ。


さらに友人の顔の他にもいままで付き合ってきた男、一度しかあったことのない男の顔を連続して思い出した。私はどんどん思い出した。


「僕が凄く好きだった人もいた。その人も僕のことを凄く好きだったけれど、やっぱりわかるんだよ、僕とその子の延長線は気付かないほど少しずつミクロの世界って言ってもいいぐらいに少しずつ距離が離れていってて、どんなに時間が経とうとも二つの線は合致することはないってさ」


なにかがおかしくなってきていた。


なぜそうなるのか皆目検討がつかないが、私はいままで出会った人間の顔を次々に思い出していた。それは不思議な感覚だった。その懐かしい顔やお馴染みの顔がパラパラ漫画みたいに現れては次の顔がすかさず現れるのだった。


私はこの奇妙な体験をぼぅっとしながら、彼ではないどこか遠くを眺めていた。彼は荒々しく不安定に続けた。


「僕はそのとき本当に駄目な人になった。誰とも最高の距離を見つけ出だすことができないんだって考えるとこのまま消えてしまいたいって思った。一センチでも一ミリでも離れてもズレてもいけないなんて不可能だから、やってられないっておもった。ほかの皆は馬鹿だ。第三者の僕がみても明らかに最適な距離の相手じゃないのに、無理に合わせようとして自滅しているから。だけど、僕も結果自滅しているから、それを考えたら僕は余計に駄目な人間だった。悲惨だった」


「僕の成長した汚い心はシンプルさからかけ離れて、もう手を着けることができない混沌だ。皮はどんどん厚くなってしまった。成長するにつれて心の形は複雑化して、当てはまる対と巡り会う確立は分母の肥大化、交わらない両端、どうすればいい」


思い出のパラパラ漫画は途絶えない。私はただそれを映画をみるように眺めるだけだ。


彼は半分になったハンバーグにフォークを無邪気なこどものように突き刺したのち、言った。


「僕と君はたぶん、たぶんだけど」


彼は言葉をつっかえさせながら話す。


「最後には一緒に死ぬことになる」


私はふいにネックレスを眺めたくなる。


「もし僕が交通事故で死んだら、君は大きな大きなトラックの前へ飛び込むだろう」


丁寧にしまっておいたネックレスを手探った。私は目は彼から離れなかった。


「もし君がビルから飛び降りたら、僕もそのビルから飛び降りるだろう」


彼は続けた。


「僕は何度も何度も君と死ぬだろう。時間や場所が違っても、最後に僕と君がたどり着くのはそこなんだ。何度もだ。永遠だ。僕にはそれがわかるんだ。予め彫り込んであった溝を辿っていく。そんな感じなんだ。僕はいままでの23年間、現在位置も目的地もわからないままやってきた。ふわふわしていてとてもじゃない、とてもじゃなかった。でも君を見つけたあの瞬間、そう、ついさっきだ。その瞬間、一本の長くて途方もない線の小さな小さな線の両端がピタリと重なったんだ。円、円になった。輪だ。繋がる、廻る、輪、回、これだ。」


私はハンバーグに突き刺さったフォークから白い揺らぎを些細に感じる。それはティッシュを広げて真ん中へ滴を垂らしたように人間的にじわりと周りをむしばむ。


視界がぐらつく。


「僕らの延長線は合致する」


私はあのネックレスをはじめてみたときのような真っ白な自分を思い出す。彼の言葉は私に新鮮なネックレスを見せる。私はとても不思議な気持ちになった。心地の良い不思議だ。


彼は突然騒ぎ始めた。


「あ、あ、あ、うん。それで、そうなんだ、うん」


彼は椅子をガタリと鳴らし両手で頭をかきむしる。とても苦しんでいる様子だ。彼は私がいくら声をかけてもこれっぽちの助けに入らないほど苦しそうにした。


私自身もやはりなにかがおかしかった。思い出の連続は止まらずカメラのピントが合っていないみたいに各部の輪郭は危うい。


「ううぅ、ううぅ、あっ、ああ」彼は呻く。


白いもやがかかった視界の端をちらちらと動くのは訝しげにこちらを窺う他のテーブル客だった。


私は視線を嫌だと感じたが、それどころではなかった。彼は苦しそうだし、私はどんどんと視界がかすれていく。引っ張られている気がする。


私はどうにか持ちこたえようとして気を紛れさそうとするが、どうにも彼の言葉が気になってしょうがない。その間にも「顔」達はめまぐるしく現れ消える。


彼の言っていることはとても理解ができない。突飛的に話すし象徴的な言葉ばかり使っていてどうにも駄目だ。ぐらぐらと視界が揺れるので私はもっていたフォークを落としてしまった。


「ちょっとまって、いま凄いんだ、起こってるんだ」


フォークについていたパスタソースがテーブルに汚くひっついた。私は彼の突然の混乱の理由も話す内容の意味もわからない。だけど、あの綺麗なネックレスのように私だけに真理のようなものを音も色もなく感覚的に伝えてくれているような気がするのだった。気がするだけだ。


私はパスタソースの風味にとても惹かれテーブルに汚くひっついたソースを指でぬぐい取り舐めた。


「君は僕に声をかけられる前、耳たぶを触っていた、それなんだよ、僕が僕である前、もう一つ前の僕はそれを目印として死んでいった」


私はさっきからほぼ無意識下で探していたネックレスをバッグから探り当てて自分の目の前へ持ってきた。


「いままでの幾千の僕は探し続けた。延長線の合致する相手を。枯渇感に耐えられなかったいままでの幾千の僕は今の僕にキーワードを残してカラカラに死んでいった。無念は晴れない」


彼は頭部を押さえていた手を私に乱暴に向けた。


私は目の前のネックレスを潰れるほど握りしめた。


「綺麗すぎるよ」


いままで高速で流れていった顔の連続はついに止まった。安心したが、どうしてもどうしても流れていった顔を二度と思い返すことは出来なかった。


「千人の僕から告白だ」


ネックレスの鋭利によって血はどろりと流れるが、彼は何も言わず卓上のグラスを翻し洗い落とした。冷水で薄まった血は握られたネックレスを透き通る綺麗さで写した。


「君が永遠の合致」









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