7.
湊に悔いはない。
いや、正確には死というものを受け入れている。
改めて考えてみると、湊としての一生が終わったことに対して、特に湧き上がる思いはない。そしてそのことにあたしは違和感を感じたりもしていない。
死、という存在の近さを身に沁みて知るあたしだが、越前が亡くなった時には死への恐怖に身体を震わせた。
しかし、自らの目の前に死が落ちてきた時、あたしはそれを何も疑うことなく受け止めていた。
生物として生まれた瞬間から、死というものが自らの最も近くで常に鎌首をもたげ、いつか必ずそれが振り下ろされることを知っていて、その最後の瞬間に自分がそれに抗う術を持たないことも知っているのかもしれない。
…そうして生物の性を受け入れ、人生の幕引きを迎えたあたしが、今こうしてここで生きている。
1歳を過ぎた辺りから、湊の記憶が少しずつあたしと一つになっていくのを感じていた。
それが、先のウルとの出会いをきっかけに大半の湊の記憶を思い出した。今も大量の記憶の波に飲まれたまま、足元が覚束ないままに漂っているものの、“アシュリル”と“湊”はあたしであることに違和感はない。
これに関しては、決して揺らぎようのない事実だ。多分、ウルも。
だからこそ、形容し難くどこか掴み所のない感情が胸に燻っていることに不安を感じる。一体この感情は何なのだろうか。
しかし今のあたしには、自らの感情ながらもそれを知る術はない。それが、ひたすらもどかしい。
こんな風に考えても埒が明かないことに思いを馳せるのをやめ、あたしは今を考えたい。
湊の知識や興味が、今まで目にも留めていなかったこの日常に溢れる諸々にあたしを駆り立てる。
まず服装。
この国に関しては、地球で言うところの所謂アジアの民族衣装に似ている。上は日本の着物や浴衣のように前合わせのもので、同じく右前になるよう着て、腰の辺りを紐で結んで縛る。丈はお尻が隠れるくらいで、上着という感じだ。
襟と袖口の部分にはそれぞれの家にある家紋のような模様の刺繍を施す。各々の刺繍模様はどこか中華的なものを彷彿とさせるが、風習自体から見ると中央ユーラシアの人々が思い起こされる。
下は元々が騎馬民族である故か、股下で二つに分かれたズボン状で、そしてその裾をブーツに入れ、馬に乗りやすいようになっている。
この様な服装が必ずしも一般なわけではなくて、ワイシャツ等簡単な洋装や、旺盛絶頂期のヨーロッパを連想させる様な多少装飾に力を入れたドレスを主に着ている国もある。
今居るイファー皇国はあたしたちが現在着ている服装が一般的である。
多少あたしたち遊牧民とウルたち定住民では異なる点もあるが、大部分は同じ様式である。
特に各地を点々とする遊牧民は、その特性故かある程度形はあるものの、様々な国の服装が入り乱れているのも珍しくない。
今のあたしはワンピースの様な前合わせの服の中にワイシャツのようなボタンのついた服を着ている。ワンピースといえど、襟には刺繍が入っているのだから、色々と混ざっているのがよくわかる。
我が家の家族も皆が同じ形のものではないが似たようなものを着ている。
外套はポンチョのような形のもので、首の下あたりの紐で止める。淵には毛皮、裾近くには上衣同様各々の家の刺繍が施されていて、この刺繍は子供であればより多く様々な模様が描かれる。
母曰く、体調を崩しやすい子どもや病気がちの人には、その健康を願って多くの刺繍を入れるのだそうだ。現代人のあたしとしては刺繍と健康になんの因果関係があるのかと考えてしまうが、そういう問題でないことも分かっている。ようは心の持ちようである。
地球の遊牧民もこんな感じだったのかな、と教科書で学んだ程度しか知らないシルクロードや草原の騎馬遊牧民等を思い出してみたものの、正確な知識はなくここで頭打ちであるのが少し残念だ。
「アッシュ、起きてる?」
「…ん?」
いきなり聞こえたウルの声によって、徐々に奥底に潜り込んでいた意識が浮上してくる。あたしは返事とも言えないような声を返すが、振り返りはせずに体も動かしはしなかった。体の鈍さを実感しつつも話の続きを促す。
「これから、どうする?」
「んー…」
意識が戻り切らずふわふわと宙に浮いているようで、考えが何一つまとまらず、生返事を返すのに精一杯である。
「おれさ」
そこで言葉を切ったウル。
表情が見えないため何を考えているのか分からないが、ふざけた話でないことは声の調子から読み取れる。でも、どうも物凄く真剣な話という雰囲気は感じられない。
「おれさ、3才すぎたころから、色々思い出してたんだ。いっぱいじゃないけど。
それでさ、エチゼンハルカとしての人生が18才でおわったってことに気づいたときから、おれはぜったい長生きするぞって思ってたんだ」
淡々と話すウル。その言葉から、後悔や悲しみは読み取れない。
あたしは相槌を返すことなく、ただただ話を聞くことに専念していた。特にウルも何も言ってきたりはしない。
「だから、さっきのばばさまのはなしをきいてさ、思ったんだよ。
まほうがつかえるのも、いいことばかりじゃないんだな、って。
まほうがつかえるってわかったとき、すげーこうふんしたんだ。ファンタジーだし。さいのうも、あるって言われたし。なにより、これでじぶんでじぶんをまもれる、って思ったんだ」
トラックに轢かれないですむくらいには、なんて笑いながら言ってるがこれは自虐ネタ過ぎるのではないか。というか、この世界でトラックはまだ見たことがないし、いくら魔法でもトラックの突進には敵わないような気がする。
そうは思っても、話に水を差すようで口に出したりはしない。
「でも、さっきのばばさまのはなしだと、まほうの力が高いと、めんどうごとにまきこまれそうだし。そうなると、長生きするっていうおれの目ひょうのじゃまになりそうだな、と思って。だから、オマエは、これからどうすんのかな、って思ってきいてみたわけよ」
ウルの言葉をそのまま聞いていただけで、あたしの中でそれを上手く咀嚼できていなかった。
唯一分かったのは、ウルはすでに前を見て歩き出そうとしている、ということ。
あたしは単に立ち止まっているだけでなく、どうやらまだ後ろを見ていたらしいということに気づいてしまった。
ウルはどうやって自分の中で消化したのだろう。あたしの中には、形容し難いどろどろとした感情が時折ふと顔を覗かせるというのに。
「かんがえ、てない」
ありのままをなんでもないことのように告げた。しかし体は心に素直なようで、あたしの口からは風邪を引いたようなかすれた声が出る。
「そっか。まぁ、学校に入るまでまだじかんはあるからな。おれも今後の身のふりかた、考えなきゃなぁ」
「ん」
とりあえずゆっくり考えていこう、とあたしを一人に突き放すような言い方ではなく、二人でというところにウルの優しさを垣間見た気がする。
さらに、なんとなくわかったことがある。こいつは置いていかれた経験がないのでは、と。
あたしはこいつを見送ったし、その上で友人たちに送らせてしまった。
しかしこいつは一足先にみんなを置いて二度と帰ることのない旅に出てしまったからこそ、死の恐怖や生きることの大切さが分かっていながらも、生と死の重さを知らないのかもしれない。
本当は、それぐらいが丁度良いのだと思う。
あたしには湊の生も死も、アシュリルの今もいつか来る終わりも只々重くて。一人で背負うだけで精一杯で、今は前を向く気力も、まして前へ進む勇気もない。
時がいつか解決してくれるだろう、と自分での解決を諦め、曖昧なまま、なあなあにしてしまいたくなる。
そうして、今だけ、今だけ、と自らに言い聞かせ、心のモヤモヤに反応してしまったのか少し早くなった鼓動を感じながら、目を瞑り眠りの世界へと逃げ込もうとした。
徐々に落ち着いていく心臓の音と共に、あたしの体を包む倦怠感と、あたしを覆う安心感の後押しで、あたしは微睡みの緩やかな流れに身を任せた。
「…ちょっとぉ、大丈夫?」
「え」
目の前にはあたしに声を掛けてきたのであろう少女がいて、心配そうなでもどこか訝しげな顔をしてこちらを見ている。
視線を下に下げれば見慣れた机。そしてもう一度視線を上げれば、懐かしい制服を着た少女と目が合う。
「湊? なにぼーっとしてんの?
ほら、早くお昼食べよ」
ガタガタと音を立てて後ろのあたしの机に机を合わせ向かい合わせになる。早速弁当と水筒を取り出し、なんとも嬉しそうな顔で弁当を広げていく。
そうだ、ご飯が大好きな子だった。
中学校も同じで、あまりあたしには美味しいと感じられなかった給食を美味しそうに食べていた素敵な姿が目に浮かぶ。
そういえば、彼女とは大学も同じでよく一緒にお昼を食べていた。本当にいつでも美味しそうにご飯を食べる子だった。
今も嬉々とした目で弁当を見つめ、すでに右手には箸が握られている。
あたしも机の右側に掛けたカバンから弁当と水筒を取り出し、机に広げる。
二人のいただきます、の声は昼休みの賑やかな雰囲気に溶けていき、弁当を食べはじめる。
「あーうま。
で、どうなの? 具合悪いの?」
「いやいや、そんなことないよ。
ぼーっと別のこと考えてたら、授業終わってた」
笑ってそう言えば、心配させないでよ、と笑顔が返ってくる。調子を聞く際には何も口に入れていなかったようだ。手に持っていた箸は今卵焼きを掴み、彼女の幸せそうな表情に一役買っている。
なんの変哲もない学校での昼食を終え、高校生らしくどうでもいいような話に花を咲かせた。そろそろ次の授業の準備をしようと教科書を廊下のロッカーに取りに行ってみれば、中にお目当ての教科書はなかった。
「あれ、ないなー」
「忘れたの?」
「机の中かも」
「あんたの机、きったないもんね」
「うるさい」
…机が汚いのは事実である。
しかし、図星を指されると人はついつい反論したくなる。もう不可抗力である。
「とりあえず、机の中を探してみる」
「ん、私トイレ行ってくるね」
「いってらっしゃい」
彼女が立ち去ればあたしも教室に引き返す。
あたしの席は廊下側から二列目の後ろからニ番目。もうすぐ夏休みを迎える頃なのに、未だ席替えが行われていないため、最初の出席番号順のままの席順になっている。
あたしは自分の席に戻ると、机の中のものを全て出し、その上に乗せ、乗り切らない分は椅子の上にも乗せてお目当ての教科書を探す。
ガサガサとプリントを掻き分けながら探していると、隣から声をかけられた。
「おまえ、なにしてんの?」