2.
定住を求めぬ遊牧民でも、厳しい冬の間耕作地に留まり春を待つ年もある。
あたしが4歳のこの冬は耕作地で過ごす。
というのも今年夏の前に、我が家に双子が誕生したからだ。標高の高いこの国において、冬の寒さから子供を守るための手段の一つが、この国唯一の都市である皇都の周囲にある耕作地なのだ。
都市で過ごすという方法もなくはないのだが、都市に入ってしまっては家畜の世話などはできなくなるため、家畜を育て共に生きる遊牧の民はこの方法は取らない。
そもそもこの国には、都市と呼べるようなものは皇都以外には存在しないのだけれど。
この耕作地には遊牧することをやめた人々が定住し、農作業に従事し、この国の食糧自給を支えている。
トウカン家は冬営地にて冬を乗り切る際、皇都の耕作地帯タクバク家という家に身を寄せる。
タクバク家は農耕灌漑地帯のある一区画の長の家で、あたしの父でありトウカン家の現当主のジルバの二代前、つまりあたしの曾祖母の縁で交流が続いている。
要はあたしの曾祖母のアニスばあさまとタクバク家の人が仲の良い友人同士であるということらしい。
また現タクバク家当主のルスティムという人と父は年も近いことから幼い頃から仲が良く、さらに互いの子供の年齢が近いこともあり、定期的な連絡も取りあい、両家の関係は良好であるという。
そのため双子の妹が生まれたこの年の冬、事前の連絡の後にトウカン家はタクバク家に身を寄せることになったのだ。
「もうそろそろだぞー」
馬に乗り先頭を行く父が後ろを行くあたしたちに声を掛ける。
初めての冬営地というものに、あたしは興奮を隠せないでいた。遊牧民として生まれ、移動が当たり前の生活の中では都市に行く機会は殆どと言っていいほどない。
「アシュリー、あなた冬営地は二度目よぉ」
「え?」
「あなたが生まれた年の冬もタクバクさん家にお世話になったのよぉ」
見た目のほんわかした雰囲気同様に、なんとも間伸びした話し方をする曾祖母。
それにしても二度目だったとは。覚えていないとはいえ、先ほどの興奮が徐々に冷めていく気がした。
馬の引く荷車に荷物の見張りとして乗っていたあたしと曾祖母。そのすぐ後ろにいて、馬に乗り家畜を先導する祖母のトゥリンにもこの会話が聞こえたらしい。
「タクバクさんとこの子供たちも大きくなっているんでしょうね」
「そうねぇ。たしか、ナンサと同い年の子もいたわねぇ」
「今年の冬入りにもお子さんが生まれたみたいで」
「おめでたいわぁ。チャナーとチャウラと同い年なのねぇ」
曾祖母と祖母の会話を聞きながしながら、あたしはナンサのところへ行きたくてソワソワしていた。
あたしが生まれた年にも冬営地で過ごしたなら、ナンサはその時4歳。その時のことをナンサに聞きたくて仕方がなかった。
父を先頭に母と妹二人が乗る荷車、あたしと曾祖母の乗る荷車、祖母、家畜、その周りに曾祖父とナンサ、そして最後尾に 祖父がいる。
ナンサは曾祖父と共に家畜たちがこの列を外れないように見張っているため、声をかけて、長々と会話できる状況ではない。せっかくいろいろ聞きたかったのになぁ。
「見えたぞお」
姉と話すタイミングをはかっていたら、目的地へとついてしまったようだ。
出発してから七日目。
もうすぐ日が完全に落ちてしまいそうな時間にようやく目的地へと到着した。
広く整備された畑が視界を埋める。年越しを目前にした今だが、青々とした緑の小さな芽が等間隔に並んでいるのが、茶色い地面によく映える。
きちんと区画された畑の間には馬が引く荷車も通れるくらい広く、踏み固められたような道があった。その道の先に住居らしきものが見える。
このまま進むのかと思えば、父は畑の道に入る手前で止まる。
「ちょっと待っててくれ。
今、ルスティムを呼んでくる」
父は一人馬に乗って住居の方へと行こうとしていた。
隣にいた曾祖母の袖を少し引くと、あたしの意図したことがわかったらしい。
「この子たちを今すぐこの奥へは連れて行けないでしょう?」
羊の群れを見ながら曾祖母は教えてくれた。曾祖母は察しが良い人で聞く手間が省ける。
畑の道を目的なくぞろぞろとこの羊の群れを連れていくのは迷惑だろう。
「でもその必要もないみたいねぇ」
曾祖母にならい今度は道の方を見れば、奥に見える住居の方からこちらに何かが向かって来るのが見えた。
馬に乗っているらしく、見えた、と思ったらこちらに着くのはあっという間だった。
「ルスティム!」
父にそう呼ばれた人は、ひょいっと軽く馬から降りて父の方へと向かって来て、その父もすでに馬から降りていた。
「久しぶりだなぁ、ジルバ」
二人はまるで子供のような笑顔で握手を交わす。
この人がルスティムか、と不躾ながら父の友人をじろじろと観察すれば、父と似たような身長で、歳も近いのか親しい間柄であることがありありと分かる。
「羊たちはこの辺りでもいいけど、ここだと家からは遠いから、休耕地を使いなよ。
馬やラクダは家の脇に小屋があるからそこを使って」
「…いいのか?」
聞き返し父が妙に戦々恐々として、真剣な顔をしていた。そんな父にルスティムさんは苦笑して答える。
「ばばさまがいいって言ったからね。大丈夫だよ」
「よかったぁ。助かる」
あからさまにほっとした様子を見せる父。
一体何があったんだろうか。
「うん。じゃあ、案内するよ」
父の友人のルスティムさんと合流後、二手に分かれて作業は進む。
父と馬と荷車は住居の方へ。
ルスティムさんと羊とその誘導役は休耕地の方へ。
羊たちの囲いを作る必要があるため、馬を一先ず小屋にて休ませる手筈を整えた後は、荷車に乗ったままのあたしも手伝いに向かわなくてはならない。
住居の方に着くと、今度は小柄なおばあさんが出迎えてくれた。しゃんとしたおばあさんで、つり目できつそうな印象を受けたが、黒目部分が大きくまるで猫のような警戒ぶり。
そんな猫みたいなおばあさんは、明らかにこちらをというか父を睨みつけている。猫が逆毛を立てているみたいに。
「お、お久しぶりです。
本日から、ふっ、冬の長い間、お世話になりますっ」
噛み噛みだ。いつものおちゃらけた雰囲気はなりを潜めた父。小柄なのに威圧感たっぷりのおばあさん相手に完全に萎縮している。
「ツェツェグー、久しぶりぃ!
もうそれぐらいにしてあげてねぇ。これからもまだやることがあるのに、ジルバが使い物にならなくなっちゃう」
「アニス。久しぶり。相変わらずだね、その間延びした喋り方は」
さすが曾祖母。助け舟ならぬ泥舟を差し出した。父はフォローされたようでいて、曾祖母からの言葉は悪意がないだけに胸に突き刺さることだろう。
「さて、小屋はこっち。とりあえず荷車とか荷物はここに置いて行って、早く馬を休ませておやり。
あと、ジルバはさっさと羊の方を手伝いに行きな。ほらルスが帰ってきたから、案内してもらいな」
「はいっ! アニスばあさま、パドマ、シュリー、こっちは任せた」
「頼んだわよぅ」
父に手を振り、残ったあたしたちは荷車や積荷を馬から外しはじめた。
すると、母に抱えられおぶられていた妹たちの目が覚めたようで、二人は同時に泣き出した。
「あらぁ、もうちょっと寝ててくれたらよかったのにねぇ」
そんな曾祖母のもっともな言葉も二人の赤ん坊の騒音によってかき消える。
よしよし、とあやす母は作業をする手を止めざるを得ず、その分も頑張ろうとあたしは黙々と馬から鞍や積荷を降ろす。早く休みたい一心で。
「どれ、あたしも手伝おうか」
「ありがとぉ、ツェツェグ」
「ありがとうございます」
あたしの外していた方を手伝いに来てくれた猫のおばあさんにお礼を言えば、少し驚いた表情を見せたものの、すぐにその顔は引っ込め、どう致しまして、と言いながらはにかんだ笑顔を見せてくれた。
あたしに気づいていなかったのかな。
「よしよし、いい子だね」
「ありがとぉ。こんなにいいところ、冬の間借りっぱなしでいいのぉ?」
「いいの。この前新しいのを建てて、我が家の馬は皆そっちにいるから」
「本当に助かるわぁ」
馬の荷物を外して案内された馬小屋は、なかなか立派なもので少し古いが十分好待遇といえた。
馬の餌やりまで終えると、曾祖母たちは馬小屋の前で立ち話をはじめた。
「そういえばぁ、さっきの方がルスティムのお嫁さんなのよねぇ?」
「そう。エステル」
「美人ねぇ」
「そうだね」
「子供はぁ、何人いたんだっけ?」
「五人」
他愛もない話のようだが、これも立派な情報交換だ。
それより、あたしはここにいていいのだろうか。積荷の整理は、話題に上ったエステルさんという女性と母に任せて来てしまったし、羊の囲い作りの手伝いに行く機会を逃してしまった。
エステルという人は、どうやらルスティムさんの奥さんらしい。チャナーとチャウラの泣き声が聞こえたからなのか、後から外に出てきた女性は確かに美人だった。
農作業に携わる人とは思えないほどの白い肌、黒々とした艶やかで真っ直ぐな髪。そして、薄緑色のまるで宝石のような瞳。
造形の良さがパーツの持つ美しさを引き立てている。
眦のつり上がった目によるキツそうな印象も、ふわりと微笑んだ笑顔を見ればかき消える。
うん、眼福。あたしの知る限り一番の美人だ。
そんなことを考えて意識を飛ばしていた。ハッとして曾祖母たちを見れば、積もる話はまだ山のようにあるらしい。さっきから一歩も動いていない。置いて行かれずに済んでほっとしつつ、どうしたものかと改めて考えようとした時、ふと視線を感じた。
家の方から歩いてくる少年が、立ち止まってこちらを凝視している。
目が合った。
そらせない。
まるで穴が空くのでは、と思う位互いを見ていた。
その時間は、長いようで短くて。
そのたった一瞬のうちに、あたしは記憶の波に押し流され、立っているのもやっとなほどの頭痛に襲われた。
その痛みに堪らず目を逸らす。少年が視界から消えると、言いようもない不安が胸に広がり始める。焦って顔を上げ、再び視線が合えば、今度はなんとも言えない安心感が胸を占め、あたしはそのまま前のめりに倒れた。
遠のく意識の中で、曾祖母のあたしを呼ぶ声と共に懐かしい名前を呼ばれたような気がした。