頼まれごと
15日締めの請求に追われ、経理部の空気が張り詰めていた。請求書を作成するパソコンのキーボードを叩く音が響く中、一本の電話が鳴り響いた。この時期特に電話がなる度に、社員全員が請求書の催促ではないかと、ドキリと焦りを感じていた。取り次いだ電話を受けていた経理部長が、保留ボタンを押し受話器を持ったまま、一番奥でデスクを構えているかおりの方を見た。
「結城さん! グリーンリーフさんの請求書できてる?」
部長に言われ、デスク上の書類の束を慌てて確認すると、席を立ち窓越しにデスクのある部長のほうを向いて
「すみません。まだです……」
恐る恐る報告した。すると、部長はスッと席を立った。黒のシックなワンピースに赤い縁のメガネが際立って鮮やかに見えた。
「今、何処やってるの?」
「今……ヤスナガコーポレーションを……」
かおりが報告し終える隙間もなく、
「それ、後でいいから。今すぐグリーンリーフさんの仕上げて!」
部長がビシッとかおりにそう伝えると、かおりは“はい”と返事をして開いていた画面を保存し、指示された会社の請求画面を開いて作業に取り掛かった。部長は保留にしていた電話にでると、掌を返したような余所行きの声で“大変お待たせしました。申し訳ございません。ただ今、処理をしておりますので出来上がり次第お送りいたします”と話していたのを耳にして、かおりに見えないプレッシャーが圧し掛かっていた。
それからしばらく、かおりが請求書の処理に追われていると、再び電話が鳴り響いた。すぐさま受話器を取ったかおりは、電話の応対をし始めると、受話器の向こうの相手が突然
「あ、もしやその声は、ゆーきちゃんだね?」
うっすらと聞き覚えのある声が、かおりに話しかけていた。
「はい……? 恐れ入りますが、どちら様でしょうか……?」
かおりはその声の主との接点を、必死に思い出そうしていたが、相手の方から
「忘れちゃったかー。俺、大宮営業所の加治。ほら、こないだ事務所で名刺渡したでしょう?」
あっけらかんとした雰囲気が漂うなか、かおりはラガーマンのような風体とブルガリの香水の匂い、チャラそうな人という印象を思い出した。
「はい……。あの、何か?」
かおりは周りの殺気だった雰囲気に肩をすくめて小声で話しかけた。
「請求で忙しいよね。きっと経理部は今、近寄り難い雰囲気だよなぁ」
『分かってるなら、なんでこんなときに電話してくるのよー!?』
かおりは困った顔をしながら、心の中でそう叫んだ。かおりが黙っていると、加治はごめんと謝り話をし始めた。
「あのさ、仕事とは別件なんだけど。ゆーきちゃんと是非お近づきになりたいヤツがいるから、こないだ渡した俺の名刺にあるメール、俺の営業用の携帯だからさ。ゆーきちゃんの携帯メール、空メールでいいから送ってね!」
「あのっ……ちょっとそれは」
「頼むっ! 1回会ってやってくれる? 俺のためにも。じゃ、メール待ってるね。おつかれさ~ん」
かおりの返事を待たずに、一方的に切ってしまった加治からの電話にかおりは複雑な思いでいた。
『あの人、なんなのよ~。よくわかんないけど、こういうの公私混同って言うんじゃない? 空メールってショップサイトの申し込みとかじゃないんだから……。それに、お近づきになりたい人って、たぶんこないだの子だろうなぁ……』
かおりは山崎を思い出し、
『先輩に頼むなんて、ちょっとどうかと思うなぁ……。どうしよう。困ったなぁ』
デスクトップを見つめ、仕事を処理しながらずっと悩んでいた。
次々に追われる請求書を、残業してやっつけ仕事のように片付けた。会社を出る前に思い出したかのようにデスクの引き出しを探し、奥のほうに仕舞っておいた加治の名刺を鞄の中に入れた。
美由希に相談しようと思ったが、仕事を仕上げ先に帰ってしまったため、相談しそびれてしまったかおりは、電車の座席に座ると鞄から名刺を取り出し、しばらくそれを手にしたまま考え込んでいた。名刺を持つ親指に視線を移すと、爪の根元が伸びて塗ったジェルネイルの下から爪が見えていた。それをもう片方の親指でなぞり、かおりはぼんやりとそれを見つめていた。
電車が停車し、ドアが開くと湿った雨の空気が入り込んできた。かおりは目を閉じ、現実逃避するかのようにイヤフォンから流れるストレイテナーの曲に耳を傾けた。新たな変化と抱えている傷、けれど前向きに前進していく軽快な歌に、かおりは自分を重ね少し背中を押された気持ちになれた。目を開けて鞄からスマートフォンを取り出すと、加治の名刺を照らし合わせながら空メールではなくメールを送った。
“お疲れ様です。横浜営業所 経理部の結城 かおりです。お話下さった件ですが、山崎君の事でしたら、私そういう気持ちはないので、大変申し訳ないのですが、加治さんのお願いを叶えられないと思います。すみません。”
送信すると、胸がスーッとして清々しい気持ちになった。電車を降り、腕時計を見るとバスの最終の時間が迫っていた。
『運転手さん、昨日も違う人だったけど、今日は会えるかな?』
渡しそびれている高杉のハンカチが、かおりの鞄の中でラッピングされた状態で入りっぱなしになっていた。傘をさし、桜台駅からバスターミナルまで歩いていると、鞄から振動が伝わるのを感じて歩きながらかおりはスマートフォンを取り出した。
着信は、加治からのメールだった。
『あれ? まだお仕事してるのかな? 返信早いなぁ……』
バス停の列はかおりと先に並んでいたサラリーマンの2人だった。ターミナルの屋根で雨宿りが出来たため、傘をたたんでスマートフォンの画面をスクロールした。
“ゆーきちゃん、お疲れさん。メールありがとう! なにやらキミは勘違いしているよ。俺がお願いしているのは、山崎じゃないんだ。俺としては、そいつに1度でいいから会って欲しい。でもって、仲良くなってくれたら俺は嬉しいんだ。ホント、頼む! いい返事を待ってるからね~”
文章の最後にはチューをしている動く絵文字が添えられているのを見て、かおりは呆れた。
画面をスクロールすると、更に文章が残っていた。
“追伸! そいつは高杉っていう俺一押しのヤツだから。よろしくね”
『山崎君じゃないんだ? 高杉って、誰だろう? 営業部の人かなぁ……』
バスを待ちながらかおりは返事の途中まで、メールを打っていた。
“まだ、お仕事でしたか? お疲れ様です。勝手に山崎君だと勘違いして、スミマセンでした”
かおりはスマートフォンの画面を見つめた。
『お母さんも、おばあちゃんも……みんな運命の人と出会って靴擦れが解けたけど……私もちゃんと解けるのかなぁ。それまで、何回も繰り返すのかなぁ……。もし、そんな人なんていなかったら……』
暗雲がかおりの胸の中にひろがり、スマートフォンを持つ手を下ろした。隣の停留所から通り過ぎるバスのヘッドライトに降り続く小雨が見えていた。
かおりは、深く溜息を吐いた。目を伏せると履いていたヒールのない、ぺたんとしたパンプスが少し小雨に濡れていた。 頭の中で悲観的な考えが大きく膨らむと胸の中が苦しくなり、かおりは滲んできた涙を堪えるように、瞼をぎゅうっとつむった。前にも後ろにも動けない状態の答えのまま、最終のバスがやってきた。
「桜中学校前行き、最終です」
聞き覚えのあるバスのアナウンスに、かおりはハッとした。手にしていたスマートフォンを一度鞄にしまい、サラリーマンの後に続いてバスに乗り込むと、かおりはすぐに運転手の顔を確認した。
「あっ! こんばんはっ」
かおりはかけていたイヤフォンを外し、高杉に挨拶をした。その顔からは自然と笑みがこぼれた。
「こんばんは」
高杉もかおりを見て挨拶を返したが、どことなくぎこちない笑顔だったことに、かおりは気が付かなかった。いつものように、最後尾の席に座り再びイヤフォンをかけるとかおりは小さく深呼吸をした。
『よかった。やっと渡せる』
かおりがふいに視線に気がつき、ルームミラーに視線を移すと高杉が一瞬かおりを見ていたことに気がついた。
『今、私のこと見てた? また、寝ないか心配してるのかしら? それともこの間私が話した秘密を……』
かおりは、ハッとしてある決断をした。
終点に到着すると、サラリーマンが降りるのを確認してかおりは意を決してゆっくり運転席に近づいた。
「あの、運転手さん……」
かおりが恐る恐る話しかけると、高杉はバスのエンジンを止めた。ハザードのカチカチと鳴る音がバスの中に聞こえていた。高杉が席を離れる前にかおりが運転席にたどり着き、座ったままの高杉の前にかおりは立っていた。
「今日は、起きてましたね」
高杉が静かに笑ってそういうと、かおりは苦笑いして口を尖らせた。
「そう、いつも寝ません。あ、あの……これ」
鞄の中からラッピングされたハンカチと同じような大きさのブルーの包装紙を取り出し、それを高杉に差し出した。
「……?」
高杉は差し出されたそれと、かおりの顔を交互に見た。
「この間、ハンカチ貸してくださったの、洗って……それと、これはお礼です。ずっと持っていたんだけど、運転手さんこのところ見かけなかったから、渡しそびれてて。はい。ありがとうございました」
頭を深く下げるとかおりの一つに束ねた髪が、肩からさらりと落ちた。
「え……あ、ありがとう。いいのかな。なんか、俺たいしたことしてないけれど」
高杉がそれを受け取ると、かおりは顔を上げて真剣な顔で高杉を見た。
「あの……。この間、私が話したことって……」
「……覚えてますよ。傷だらけの足が魔法みたいに一瞬で綺麗に治ったこととか、運命の人捜しをしてることとか」
『やっぱり、覚えてた……』
かおりは高杉の顔色を伺っていた。小さく息を吸う音が聞こえ、高杉が口を開いた。
「けど、誰にも話していないし、それはそれで、事実だったんだなってのはなんとなく……理解っていうのはおかしいのかな? 信じるようにしてみたよ」
高杉は帽子を外し、短い黒髪をくしゃくしゃとかいた。
「ほんとですか?」
かおりは目を丸くして高杉を見た。すると、さらに高杉は髪をくしゃくしゃにかきながら、
「ホントです。なんて言えばいいのか……。見つかるといいですね」
少しさみしげな表情をしてかおりにそう言った。
「…………」
かおりは黙り込み、顔を曇らせた。しんとした車内に、ハザードの音が響いていた。
「どうか、しましたか?」
高杉は、静かに尋ねた。
「……私、このままずっと靴擦れ繰り返して、人と出会って別れて……それで結局、ほんとうはそんな人なんていないんじゃないかなって……それに、もしその人が……」
かおりの目には薄く涙が溜まっていた。高杉はかおりの話を黙って聞いていた。
「その人が、自分の好きな人じゃなくて。だけど、これが解けて靴擦れがでなくなったら……いろいろ考えて不安になったんです。運転手さん、私の話を信じてくれたから。こんな話、他にできる人いなくって……」
かおりは、溜まっていた不安を吐き出したかのように、その後口をつむったまま黙ってしまった。涙を必死に堪えると、喉の奥が苦しくなり重い痛みを感じた。
沈黙はそう長く続かず、高杉が静かに
「先が見えないのは不安だけど、だから面白い。結城さんの運命が靴擦れで縛られてしまうなら、それはそれだけど。人生なんて、なにが起きるかわかんないし。運命を自分自身で変えることがもしかしたら、出来るのかもしれない」
「ほんと……? どうやってですか?」
かおりは高杉の顔を覗き込み少し近づいて、夢中で聞いた。高杉は少し顔を赤らめ、かおりと近距離になった身体を、ほんの少し後ろにずらして一呼吸おいた。そうして、少しかおりから視線を離し、うつむいたりかおりをみたりしていた。
「それは、不確かだけど……。俺が初めて結城さんを見かけたとき、傷だらけの足でもずっとヒールの靴を履いてた。もしかして、ほんとうに結城さんが好きになった人と出逢えたら、たとえ靴擦れになっても運命に逆らって、前に進んだっていいんじゃないのかな? 大事なのは、結城さんの気持ちだと思う」
高杉の言葉に、かおりは少しずつ笑顔を見せていた。ピンクのグロスを塗った口元が上がり胸の中に抱えた不安が消えかけていた。
「すみません……俺、なんかでしゃばったこと言ったね」
小さく笑いながら、高杉は髪をくしゃくしゃとかいた。
「そんなことないです。……なんか、胸がスーッとしました。ありがとうございます……!!」
かおりは高杉の胸に付けていた名札に目を止め、驚いた。
「高杉さんっ! 運転手さん、高杉さん!」
「え? そう。俺、高杉です」
「…………」
かおりは突然名前を呼んでしまった自分に我に返って、一瞬考え込んだ。
『まさか、こんな奇遇なことないよね? だいいち、加治さんと運転手さんが知り合いなんて』
かおりは、確認したい気持ちを堪えた。
『突然、名前連呼しておかしな子だと思ったかな……恥ずかしいから、聞くのやめよう……』
「あの……」
高杉が言いかけると、かおりは赤い顔をして大きく頭を下げ、
「すみません! なんでもないです。私、人の名前覚えるの苦手で。確認しただけです! ……あの、ありがとうございました!」
勢いよく話しをして、高杉の顔を見ずにバスから降りて去っていった。
「あ……行っちゃった。加治のヤツ、俺の事なんていったんだろ? 結城さん、俺だって知ってんのかなぁ……」
ポツリと高杉は、かおりが出て行ったバスの出入り口を見てつぶやいた。
「けど、なんか元気出たみたいでよかった」
高杉は小さく溜息を吐きながらも、顔は笑顔だった。
次回はクライマックスです。
二人はどうなるのか? かおりの血筋で受け継いだ靴擦れの結末は?
ゆるくご期待いただければ、幸いです……。
読者の方。ここまで読んでくださって、ありがとうございますm(__)m
最終話までもう少し、お付き合い下さい。:)