大宮フレッシュマン
先週末から晴れ間が続き、空は青く澄み、白い半月が薄っすらと姿をあらわしていた。
「やっと、休憩だねー……」
かおりは会社の外に出ると、大きく両手を上に伸ばして言った。顔を上げると、青空の中高くに白い半月を見つけた。詳しく興味はないが、かおりは月を眺めるのが好きだった。それは、昼の白い月も同じように。数日前まで梅雨で月どころか青空も見られず、かおりは久しぶりに見た白い月を少し見つめていた。
「ほーんと。午前中が長く感じたぁ。それに、月曜日ってニガテ。先週たくさん遊んだから、疲れ抜けなくって。 私、午前中すっごく眠かったもん。あやうく打ち込んでた伝票のケタ、3つ多くって焦って直したけど。先輩に見てもらう前で、セーフだったよ」
美由希は大きな欠伸を掌で覆いながら話し続け、
「あー。お昼食べたら、さらに眠くなりそう。だけど、おなかすいたぁー」
気の抜けるような声を出していた。
「ちょっと歩くけど、感じのよさ気なイタリアンのお店見つけたよ。行って見る?」
かおりの提案に、美由希は大きく頷いて賛成した。会社の裏通りの小さな繁華街を通り抜けると、一つ細い路地に店はあった。階段を上り2階にあったその店はこじんまりとしていて、ランチをしている会社員や女性客で賑わっていた。
「よかったねー。すぐ座れて。さっ、なに食べよーかなぁ」
美由希はメニューを広げ、楽しそうにそれを眺めていた。ランチタイムはピザかパスタを選び、さらに3種類からのセットメニューになっていた。他の時間は、家庭料理やコース料理などもある様子で、カウンターの上の黒板に書かれたメニューを、かおりはぼんやり眺めていたが、メニューではなくただただ文字の形を目に映し上の空だった。
「結城さん、決まった?」
「えっ? あ、ごめん。まだ。美由希ちゃんはもう、決まったの?」
「私はねぇ……マルゲリータも捨てがたいんだけど、海老とトマトのジェノベーゼもおいしそう……うーん」
メニューとしっかり向き合って悩んでいる美由希を見て、かおりは小さく笑ってしまった。
「じゃぁ、私がどちらか頼むから、シェアしようか?」
「ほんとっ!? いいねっ! そーしよう」
美由希はパッとメニューを下げ、快活な笑顔をかおりに見せた。注文を依頼して待っている間、先に出てきたセットのサラダを口にしながら、先週の話をしていた。
「遊びすぎたよねー。仕事終わって、合コンしたり、カラオケしたり、関東エリアの同期たちと飲み会してオールしたしねぇ。私もだけど、結城さんも毎朝死にそうだったよねー」
「……そうだったね。学生の頃はオールで遊んでも平気だったけど。まだいけるって思ってたけど、年取ったんだね。私たちも」
かおりは肩をすくめ小さく苦笑した。
「どーかんっ! けど結城さん、それココでだから言えるんだよ。会社で話してたらきっと先輩たちに、にらまれちゃうよ。 "気を抜いてない? まだ若いんだから、もう少ししゃんとしなさい”って。先週の金曜はさすがにオール明けで、疲れて仕事ミスったら、先輩に言われちゃったもん」
「それ言ったの私たちの教育係の松下さんでしょ? 私、まったく、おんなじこと今日言われた」
「えー。結城さんも? あのアラフォー女子! あれ、先輩の口癖かもねぇ……。けど、ホント今朝は瀕死状態だったよね? どうしたの?」
美由希に話しかけられると、かおりはコップに入った冷水を飲み干していた。
「二日酔いみたいで……。ずっと頭痛くて。ようやく落ち着いてきたみたいなの。出来ることなら、休みたかったけど。はやく、有給使えるようにならないかなぁ……。ホント、死んじゃうよ」
「日曜日も遊んでたの? あ。もしかして、合コンのイシイ君って人?」
テーブルに両肘を着き、かおりは両手を互いのこめかみに当て、うなだれたまま2回頷いて返事をした。
『そういえば、そんな名字だったっけ……』
うっすらとイシイがかけていたクロブチメガネや、その奥にに見えた冷淡な瞳と、淡々と説明するような一方的な会話たち、単純に感じた気持ちでさえもばっさり否定されてしまった記憶が蘇りかけたが、思い出すのも嫌気が差していたため、かおりはそれを頭の中ですぐにかき消した。
「そうなんだぁ。うまく行きそうなの?」
「ううん。ダメだったの。映画観て、夜ご飯食べて、お酒飲んだんだけど、お互いなんか、違うなぁーって」
「それで?」
「それっきり。おしまい」
かおりは完結に言葉をとめた。
「美由希ちゃんは、どうだったの? あの……隣の席に居た男の子と? えーっと。何君だったけ?」
「えへへー。トオル君だよ。んー。連絡先交換して、今週の土曜日遊ぶ約束したよ」
「よかったじゃん。楽しみだね? 仲良くなるといいね」
かおりは小さく笑って美由希を見た。前髪をカチューシャで上げ、広く形の整ったおでこが目に付いたが、美由希の顔は何かを企んでいるような、にや付いた笑みをしていた。
「なに? 美由希ちゃん……」
「結城さん、人の名前覚えるの苦手でしょう?」
「う……ん。そのとおりだけど」
「じゃぁ、言ってもわかんないだろうけどさ」
美由希は話をとめて、ためてみせていた。
「……なに?」
聞き込むかおりを、変わらない表情で見たまま
「こないだの、同期の飲み会で大宮営業所の山崎君って人がねー。って言っても顔わかんないかぁ」
「もー。美由希ちゃん、もったいぶらないで教えて。……けど、認めるわ。山崎君って顔と名前一致しないもん」
「あはは。認めたねー。あのね、こないだの同期の飲み会で山崎君が、結城さんのコト『いいな』って言ってたの、耳にしたの。いいねぇ。モテますなぁ」
「もー。からかわないでよぉ。けど、ホント、顔わかんない……」
「だいじょーぶ。心配しなくても、午後営業所の先輩と、お客さんの打ち合わせでうちの横浜営業所寄るらしいから。さっき、うちの営業の人が松下さんに言ってたの聞こえたの」
「えっ!?」
かおりは、声を大きくして驚き周りの客がそれに気づき、視線が集中していた。かおりは小さく頭を下げ、肩身を狭くしてしまった。
「結城さん、反応したね? こりゃ、楽しみ。楽しみ」
美由希に反論する気力もなくなったかおりには、複雑な気持ちが過ぎっていた。しばらく、たて続きに出逢ったり付き合った惨敗の結果を目の当たりにしたことが、かおりの気持ちをしり込みさせていたからだった。前向きに恋愛することや出逢うことで、再び靴擦れができることが目に見えていそうだと、悲観的になりかけていた。
浮かない顔をしているかおりに、美由希は声を落ち着かせ
「悪乗りしちゃってごめんね。私も、山崎君のことどんな人かあんまり知らないし、もう、無理に盛り上げたりしないから。けど、この後会社来るみたいだから。それだけ、頭の片隅においといてみたら?」
小さく微笑んでいた。
「うん……」
かおりは、後ろ向きな気持ちを美由希に伏せた。
ランチ料理は味が良く、デザートとドリンク付きで800円を互いに支払った後、“たくさん遊んだし、給料日前だから、1コインであればなおいいねー”と二人で話し店を出た。財布を鞄にしまいながら、かおりはラッピングされたモスグリーンの包装用の袋に目を止めた。中には、高杉から借りたハンカチが洗濯されて入っていた。
『何か、買って添えて渡そうかなぁ……』
かおりは酒に酔っていたとはいえ、自分の秘密を話してしまったことは覚えていた。高杉は、それをどうとらえていただろうか、酒に酔っておかしなことを言っていると思われているならと、願いたかったが、どこかで、事実を受け止めていて欲しい気持ちも抱いていた。得体のしらない複雑な思いは、かおりの胸の中にもやをかけていた。
午後になると15日の請求締めの処理が少しずつ押し寄せ、かおりのデスクに山積になりかけていた。週明けから、残業は避けたいのと今日の帰りに高杉にハンカチを返そうと思っていたかおりは、できるだけ最終のバスに乗れるまでに仕事を終わらせたい思いで、必死だった。
かおりの勤める会社の営業所は、隣の敷地がキッチンのショールームになっており、一般客から商品を扱う客まで様々な人たちが出入りしていた。広く大きなガラス越しに、商談用の席があり丁度、山崎達と取引先の客が商談を終えて挨拶をしていた。
「納期に関しては、今一度会社戻りまして、ご連絡差し上げます」
客が手帳を鞄に仕舞い、山崎達の顔をしっかりと見て話していた。
「ご連絡、お待ちしております。今日は、どうもありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします」
山崎を連れてきた大宮営業所の先輩が、客に頭を下げたのを見て山崎も慌てて
「よろしくお願いいたします」
言葉と共に頭を下げた。
客が去った後、山崎は先輩の後について隣にある営業所へ向かった。表へ出るとじんわりとくる暑さに、下ろしていた長袖のワイシャツの袖を捲り上げた。
「山崎、さっきもらった見積書、それここの営業所の経理に渡してきてくれる? 俺、営業部に顔出してくるから」
先輩は、がっちりした体格とは反対に、薄っぺらい鞄の中からさっき商談で受け取った見積書の入ったクリアファイルを手渡した。
「それ、1部コピーしてもらって、写しはこっちで預かるから、原本は経理に渡してな」
山崎は首をかしげ、おずおずと先輩に質問した。
「あ、でもなんでここの経理に渡すんですか?」
「今回の客は、ここのエリアだから。ほんとは、向こうで受けかけた会社と折り合わなくなって、顔つなぎでうちを紹介してくれたって訳。ま、俺たちは更に、お客さんと横浜の営業所を取り持ってやったってことになる。分かったか?」
「はい……。でも、それなら、ここの営業の人にお願いすれば……」
「だから、顔だよ。かお! さっきの客と折り合わなくなった会社とはうちの営業所が取引先でもあったから、引き受けたんだ。それを、そのままじゃぁ、横浜の営業所のほうでって、なったら、たらい回しされたみたいで、どちらにも悪いだろ」
「……はぁ」
先輩の話を理解しきれていない様子の山崎を見て、その肩を軽く叩いた。
「山崎。お前、純朴そうだから、街歩いていても絶対悪いやつには引っかかるなよ」
「はい……?」
「……つーか、悪いやつが識別できないか」
先輩はボソッと付け足したが、山崎の耳には届いていない様子だった。
「ま、とりあえず、経理に渡して、写しもらってこい」
「はい」
経理部の扉をノックする音が聞こえ、扉がゆっくり開いてそーっと中を覗くかのように山崎は中へ入っていった。経理部は全て女性社員で埋め尽くされていた。カタカタとパソコンのキーボードを叩く音しか聞こえず、請求書の処理に追われ殺伐とした空気が漂っていたが、山崎にそれは気づけなかった。山崎の近くでコピーをとっていた松下に、
「すみません……僕、大宮営業所から来たんですが、これをお渡しして、写しが欲しいのですが……」
おっとりした口調で声を掛けるが、松下は眉間に皺を寄せてあからさまに睨み付けた。
「ったく……。最近の新人は、なに言ってんのか、訳わかんないわ」
山崎が差し出した書類を受け取らず、松下は首をくるりとかおりに向けた。
「結城さん、それ、処理してやってちょうだい。同じ新人同士だろうから、言葉通じるでしょう?」
くるくるに巻いた髪をふわっと揺らし、松下は嫌味を言って処理をかおりに押し付けた。
「はい……」
『なんか、松下さんいつにもまして殺気立ってる……』
かおりは松下に返事をすると席を立ち、ドア付近にいた山崎に声を掛けた。
「えっと……? 見積りみたいですけど。どうすればいいんですか?」
山崎が手にしていた書類を手に取り、かおりは山崎の顔を見た。
『この人が、美由希ちゃんが言ってた人? なんか、随分と素朴な感じがする』
太い眉に円らな瞳に短髪で、頬にはニキビがぷつぷつと出ていた。
『……ネクタイ締めてるけど、童顔なのかな? なんか浮いて見える。学生服着ても違和感なさそう』
「あっ。結城 かおりさんだっ……」
「……? はい? なにか?」
山崎は顔を赤くして緊張している様子が、挙動不審でかおりは少し顔を曇らせた。
「あのー……この書類どうすれば?」
かおりが質問を繰り返すと、山崎はあたふたした口調で口をパクパクさせながら
「えっと……顔つなぎで横浜営業所へお願いすることになって、写しをとってもらえますか?」
必死に伝えようとしている様子は分かるが、かおりには話が全く見えていなかった。
『困ったなぁ……訳わかんない。そりゃ松下さんも機嫌悪くなるよね。けど、さすがに私もわかんないよう……松下さんにヘルプ出せないし……あー。どうしよう……』
経理部のデスクに身体を向けて、きょろきょろしながらヘルプを求めるが、皆デスクトップと向き合って仕事に集中していた。かおりが困り果てていると、丁度部署の出入り口の扉が開いた。
「お疲れさん! ……あー。やっぱり、通じなかった感じだな?」
現れた山崎の先輩は、呆然と立っていたかおりを見て苦笑いした。
「心配で、一応来てみたんだけど。キミ、山崎の言っていること分かった?」
かおりは首を横に振り、ほっとした顔でその男性社員を見上げた。ラガーマンにようにがっちりとした体格に180cmくらいの長身をしていた男性社員は、少し身体を屈めて顔をかおりに合わせ、
「やっぱり……。それね、うちのお客さんの見積りなんだけど、こっちの営業に仕事つないだから、処理頼むね。部長にはOKもらって営業の大木にお願いしておいたから。写し1部取って、僕にくれるかな?」
優しい口調でかおりに話した。かおりは、
「はい」
と、ひとつ返事をしてすぐコピーを取ると、クリアファイルに写しを入れて男性社員に渡した。
「サンキュ。助かったよ。キミ、新人?」
男性社員は、書類を薄っぺらい鞄に入れながらかおりに話しかけた。色黒い肌に茶色い髪をヘアワックスで無造作に仕上げ、ほのかにブルガリの香水の匂いがしていた。
「はい。結城といいます。」
「ゆーきちゃん? 名前のほうかな?」
「あ、いいえ。名字です」
「ゆーきちゃん、頑張ってね。じゃぁ、はいこれ」
男性社員は鞄から名刺を取り出し、かおりにそれを渡した。
「あ……えっと……これ……」
かおりは名刺を持ったまま困った顔をするが、男性社員は何も言わず笑顔で頷いていた。
「じゃぁ。お疲れ様です。お邪魔しましたー!」
デスクの経理部に向けて帰り際、男性社員は張りのある声で挨拶すると、
「お疲れ様です」
経理部の数名が手を止め、ドアの前に立っていた先輩に小さく頭を下げて返事をしていた。
山崎は、かおりの顔をみながら小さくお辞儀をして去ったが、かおりは返事をしていたデスクのほうに気を取られ、それに気が付かず顔を戻すと扉は既に閉まっていた。
かおりはもらった名刺に一瞬目を止めた。
加治 葵(かじ あおい)と書かれた名刺には営業所の連絡先と、営業用の個人の携帯電話、Eメールのアドレスが記載されていた。
『30歳くらいかなぁ……。優しそうな人だったけど。ちょっとチャラい感じがしたなぁ。けど、同じ会社の人なのに、名刺渡されても……』
処理に困ったかおりは、デスクに戻りそれを引き出しの奥にしまった。
美由希に言われた山崎のことは、頭の片隅からも消えてしまい、ぼんやりと名刺の名前とブルガリの香水の匂いがかおりの中に残っていた。
仕事が定時で上がると、かおりは駅中の雑貨屋で高杉に渡すお返しをあれこれ見ていたが、結局それと似たようなタオル生地のハンカチを選んでラッピングしてもらい、桜台駅でバスを待っていた。退勤時間帯のせいか、列に並んでいるのはサラリーマンやOLが多く最終に比べると人の数も多く、10人程並んでいた。
バスが到着し、列に続いてかおりはバスに乗り込んだ。不安な思いを抱きつつ、ゆっくりと顔を上げて運転席を見た。しかし、運転手が高杉ではなく別の男性だったのを確認すると、かおりは小さく溜息を吐いていた。
『運転手さん、今日は、お休みかな……明日は、会えるかなぁ』
座席は既に乗客で埋め尽くされ、かおりは立っている人と人の間をすり抜け空いているつり革に手をかけた。窓の外からは半月が、夜空を照らしているのに気が付いた。かおりは月を眺めながら、明日の帰りに高杉に会えることを願いつつ、イヤフォンから聴こえる音楽に耳を傾けていた。
しかし、それから3日経過してもかおりは、高杉に会うことがなかった。
フレッシュマンを描くのに『あー、こういう子いるなぁ……』と、思い出したので、書きやすかったです。
新に登場した加治は、この後も登場予定です。
作品に目を通してくださって、ありがとうございます。