紫陽花と向日葵
梅雨合間に晴れた日。澄んだ青空を、高杉は運転席から眺めていた。始発の桜中学校前の停留所で、出発時間を待つ。中学校前の停留所だが、学校自体はそこから歩いて3分ほど先だった。風に乗って、音楽の授業なのか合唱している声が小さく聞こえていた。男女の声のハーモニーに耳を傾けていると、近くでコツコツとする足音が高杉の気を逸らさせた。足音がバスの開いた扉の前で止り、高杉はそれを見つけた。
「----!!」
黒いピンヒールのサンダルに、花模様に描かれ綺麗に塗られたペディキュアが目に付いた。はっとした高杉はすぐさま顔を上げた。
「高杉くん?」
入り口前に立っていた女性は、高杉の名をおずおずと聞いていた。黒のノースリーブのワンピースにグレーのストールを首に巻いた女性の顔を見ると、高杉は驚いた。
「雨宮!? えっ? どうして?」
「久しぶりね。運転手してるっては聞いていたけど、偶然ね。どうしてって? 私、今日近くの中学校で研修発表に来たの。これでも、一応教師ですから」
雨宮 陽子(あめみや ようこ)とは大学時代のサークル仲間で、卒業してからは会うことはなかったが、以前と変わらない長身の痩せたスタイルと、一重で涼しげな顔をしていた。
「それに、もう雨宮じゃないけど、旧姓で呼ばれるの懐かしいからいっか」
「お前、結婚したの?」
「そうよ。もう、5年になるかな。そうだ……」
雨宮は鞄の中からペンとケースを取り出し、更に名刺に何かを書き加えていた。
「はい。今度、お茶でもしましょ。連絡頂戴ね」
フレンチネイルで綺麗に整った爪と、細く長い指から差し出された名刺を、反射的に高杉は手を差し出し受け取った。そこには、市内の学校名と吉永 陽子と書かれ、裏に携帯のアドレスが書かれていた。
「おいおい、お前、既婚者だろうが」
「相変わらず、高杉くんは堅物ね。不倫するわけじゃないんだから」
高杉は雨宮の言葉に面食らった。車内に客が居なかったことを幸いと胸をなでおろす思いだった。
「当たり前だろ」
「ふふ。高杉くんは、結婚したの?」
雨宮は呆れた高杉を見て笑い、ICカードを通した後最前列に座った。
「いや。まだ」
「そうなんだ?」
それから少し間が空いた。再び遠くから合唱している歌が聞こえていた。高杉は雨宮の顔を見ていた。痩せこけた頬と高い鼻、前髪も含めた髪をすべて後ろでくるりと丸めまとめていた。
「雨宮は、子供とかいるの?」
「いるよ。4歳の男の子がひとり」
「へー。お母さんなんだな」
「そうよ。仕事で中学生相手にしているから、自分の子が可愛すぎて」
雨宮はくすくすと笑い窓の外を眺めた。
「そういえば、高杉くんって私の事好きだったんだってね?」
「-----!! なっ!? お前、それどうしてっ? 誰に?」
「やっぱり、そうだったんだ。えー。エリとか今野くんとかから聞いたの」
「あの、おしゃべりカップルか……」
高杉は帽子を外し、髪をくしゃくしゃして頭を軽くかいた。
「今でも好きかしら?」
可愛らしげに首をかしげ、わざとらしく雨宮が上目使いで尋ねた。
「なに言ってんだよ。当時だよ。とーじ! まぁ、いまでも綺麗だなぁっては思ったけどさ」
高杉はさらに髪をくしゃくしゃにして、雨宮から視線を逸らした。
「ふふふ。ありがとう。高杉くんって、照れるとき、髪くしゃくしゃにするでしょう? ごめんね。からかっちゃって」
「まったく。急にそんなこと言うから、変な汗でてきた……」
ズボンのポケットからタオル生地のハンカチを取り出し、高杉は顔の汗を拭いた。時間が出発時刻を刻んでいたため、高杉は気を取り直してバスのエンジンをかけた。
「運転するから、もうおかしなこと言うなよな」
「ふふ。わかりました」
バスを走らせると次の停留所から新に客が乗り込み、雨宮との会話は途絶えた。桜台駅で雨宮は降りる前に
「じゃぁね」
と、小さく声を掛け手を振り去っていった。雨宮が座っていた場所からは、つけていたイヴサンローランの微かに甘い残り香がふんわりと漂っていた。雨宮を想っていた当時も、香水の香りのように品のある高嶺の花のような存在で、到底自分とは不釣合いだと分かりきっていた。雨宮を想う気持ちは、停留所で扉が開くたびかき消されていく香水の残り香のように、消え去っていった。
営業所の戻り休憩のトイレから出た後、ズボンのポケットに入っていた雨宮の名刺に気がつき、高杉はそれを取り出して少しの間見つめると両手で半分に裂き、更にもう一度裂いてゴミ箱へ捨てた。
日曜の運転は、日中は道が混み外出で使用する乗客もいるため夕方くらいまでは混雑していた。
高杉は、結城 かおりはどうしているのだろうかと、連日のように考えていた。あの雨の日依頼、1週間が過ぎるが、かおりの姿を見かけることはなかった。
日曜日は休日運転で平日に比べ最終の時間が更に早い。22時5分には桜台の駅を出て終点の桜中学校前まで向かう。混雑していた夕方の時間が過ぎると、乗客がぽつぽつと居るだけになっていた。今週末も梅雨の合間の晴れ間だったためか、外出する人が多く見られていた。日中は午後の日差しが真夏並みの暑さで、車内はエアコンを効かせていたが、信号のたびにアイドリングストップをするため、高杉は半そでのワイシャツの袖を捲り上げたいくらいだった。
桜台駅の停留所で出発時間まで3分ほど停車する。日中に比べると暑さは落ち着いていたが、外から入り込むぬるい風に、高杉は微かな汗をかいてしまう。ズボンのポケットからタオル生地のハンカチを取り出し、軽く顔の汗を拭いた。
このまま、無人のまま終点までだろうかと、高杉は思っていたがその矢先に乗客が近づきバスに乗り込んできた。
目の前に立っていたのは、かおりだった。
「あ……」
かおりが高杉の顔を見ると、はっとして声を出した。そうしてかけていたイヤフォンを外し小さく頭を下げた。手元からは、音漏れしている音楽が弱弱しく聞こえていた。ヴォリュームと聴いていた音楽は相変わらずだったが、かおりの足元はヒールのない、ペタンとしたカジュアルなサンダルに変わっていた。足の爪には元気そうなオレンジ色のペディキュアが塗られていた。
高杉は、かける言葉を一瞬考えた。話しかけたいことは、あった。あれから、ストレイテナーの曲を聴いてみたこと。最初に会ったときに聴こえたフレーズの曲が気に入っていること。今、履いているサンダルの方が断然似合っていると感じたこと。かけたい言葉は膨らんだのだが、とっさに出てきた
「こんばんは」
の挨拶しか言えずにいた。
『そりゃ、そうだよな……。いきなり、会話なんて変だよなぁ』
そう思い、胸の中で苦笑した。
黒く長い髪をポニーテールし、半袖Tシャツにフルーツ柄をした膝丈のフレアスカート姿は、普段見慣れない休日のスタイルのようで、高杉には新鮮に映っていた。
かおりは再び頭を下げ高杉の前を通り過ぎると、微かに甘いアルコールの匂いがした。そうして、いつもと同じ最後尾の席に座ると、高杉はルームミラー越しにかおりを盗み見た。かおりは、イヤフォンを耳にかけ直し、スマートフォンを操作し始めていた。
さっきまでの暑さがどこかへ吹き飛んでしまったのは、ルームミラーから見えるかおりに気が集中しているからだった。
それからしばらくして、乗客が数名乗り込みバスは桜台駅を出発した。駅から乗った乗客の一人が、かおりの前の席に座ってしまい、ルームミラー越しにかおりの姿は見えなくなってしまっていた。終点の桜中学校前に到着するまで、その乗客も降りずにいたために高杉は少し残念な気持ちで沈みかけていた。
車両の中央のドアから乗客が降りるのを確認したが、かおりの姿が見えなかった。まさかと思い、高杉はすぐ席を立ち最後尾の座席へ近づいた。
あどけない表情で、寝息を立てているかおりを見て高杉はつい、気が抜けて微笑んでしまっていた。ほんの少し、その顔を眺めていたが我に返り、かおりに声を掛けた。あの雨の日のようにかおりはなかなか起きる気配がなかったため、高杉は軽くかおりの肩に手を掛けて身体を少し揺すった。
「お客さん、おきてください。終点です」
「ん……はい……」
かおりが眠ってしまったのは、酒に酔っているのではないかと感じ取った高杉に微かな不安が過ぎった。
「大丈夫ですか? 気分、悪いとか?」
「少し……。けど、へーきです」
二重の瞼をゆっくりと開けたが、かおりの表情は少し苦しそうだったのを見て高杉は、
「ビニール袋持って来ますからっ!」
運転席へ戻ろうとしたが、かおりの言葉に呼び止められてしまった。
「ほんと、だいじょうぶ……です」
「動けます? 家まで歩けそうですか?」
「はい……。けど、もうちょっと座っていてもいいですか?」
かおりは顔を徐に上げて高杉を見た。
「いいですよ。このまま降りてもらって女の子、外のベンチに一人で置いていけないですから」
「すみません……。ありがとう、ございます」
高杉は斜め前の座席に腰掛、かおりの様子を黙って伺っていた。短い沈黙を終わらせたのはかおりだった。
「またかぁ……」
溜息混じりにかおりが小さくつぶやいた。その目には、じんわりと涙が溜まっていた。
「お客さん? 気持ち悪い?」
すぐさま高杉が言葉をかけるが、かおりはそれを振りほどいて話し出した。
「私の足、見てください」
かおりは自分の足を指差した。高杉が足に目を落とすと、かおりの足は靴擦れだらけで痛々しそうだった。
「履きなれていたサンダルとか、靴を履いていても運命の人ではない人と付き合っているとこうなるんです」
高杉は何も言わずにそのまま、かおりの話に耳を傾けていた。かおりの目からは、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
「おかしな話ですが、ほんとうなんです。今も……ほら」
高杉は、目を疑った。かおりが酔って訳のわからない事を悲観的になって話しているのだろうと、話に付き合っていたが、目を離した一瞬の間にかおりの足がきれに傷一つなくなっていた。
「さっき、お別れのメールもらったんです。付き合うちょっと手前だったんですけど。やっぱり、無理だって……」
かおりは鼻をすすりながら、静かに泣いていた。高杉はそっと、ズボンのポケットからタオル生地のハンカチをかおりに差し出した。
「汗とか拭いているから、綺麗じゃないけど……ごめんね」
「……ありがとうございます」
かおりはそれを受け取り、涙を拭った。
「けど、どうして僕に話してくれたの?」
かおりは泣くのを堪えて口を開いた。
「運転手さん、テナーの曲いい感じだねって。そう言ってくれてたから」
「そんなことで?」
「そんなことじゃないですよ。共感してくれるだけでも、ちょっと嬉しかったんです。そういう小さなことが、なんか胸がぽかぽかしたんです。今日、一緒に居た男の人は、一緒に見た映画に共感しようとしたら、『原作も知らないくせに、なんで面白かったの?』って、ばっさりと否定されちゃったんです。ほんとうに面白いと思ったからそういったのに。哀しかったなぁ……」
かおりと高杉の間には、重たい空気が漂っていた。
「けど、なんていうか、足のことだけど。不思議な秘密みたいだけど、そういうのすぐ話して安易に人を信用しちゃだめだからね。世の中悪いやつだって居るんだから」
高杉は心配そうにかおりに伝えた。かおりは、クスクスと笑い頭を下げた。
「すみません。運転手さんは、真面目そうな人だから私、話せたのかもしれない。気をつけます」
かおりはそう言うと、鞄を手に取り立ち上がった。
「大丈夫?」
「はい。少し休めたし、愚痴吐いたらスッキリしました。バス停めてしまってすみませんでした。これ、お洗濯して返します」
かおりは高杉から借りたハンカチを握り締めていた。口元を上げた表情には、元気になりかけている様子が伺えた。
「いいですよ。そんな」
「いいえ。2度も寝入ってしまって、お話まで聞いてお付き合いしてもらったのに、せめてこれくらいは」
高杉は、ぎゅっと握り締めていたハンカチを取り返すのを諦めた。
「では、お言葉に甘えます。よければ……」
高杉は、思い切ってかおりに尋ねかけた。
「はい?」
「名前、聞いてもいいですか?」
緊張を隠し平然を装いながら、高杉はかおりの言葉を待っていた。ほんの短い間だったが、高杉にとってはとても長く感じた。
「結城 かおりです。運転手さんは…高杉 亮さんですね?」
かおりは、高杉の胸ポケットに付けていた名札に視線をあて、名前を読み上げた。
「そうです。結城さんですね。ありがとうございます」
「でも、どうして名前を?」
何気なくかおりが聞いた質問に、高杉は少し焦ってしまった。興味があってとは言えず、
「また、もし今日みたいに寝入ってしまっていたら、今度は名前を呼んで起こせますから。お客さんっていうより、起きるには効果的かな……と」
帽子を外し、髪をくしゃくしゃにかき、苦しい言い逃れで言葉を濁した。
「そっかぁ。って。私、いつも寝てる人みたいじゃないですか」
かおりは声を上げて笑った。その笑顔が夜の闇を照らしてくれているかのようだった。
今回のサブタイトルは、登場人物を表現してみています。
作品をご覧くださいまして、ありがとうございます。
まだ、続きますので、よかったらお暇なときに少しお時間を潰してみて下さい。
よろしくお願いします。