ぎこちないピンヒール
高杉 亮(たかすぎ りょう)は、4月から営業所の異動となった。それまで勤務していた緑ヶ丘営業所のルートは、新人運転手が運転しやすバスのルートとの事で、今年の新卒採用を配属させるため、勤務8年目の高杉が目に留まりスライド的に桜台営業所への異動となり、辞令を受けた。
「お、兄ちゃんこれから?」
事務所のパソコンで交通費情報を確認していると、 勤務を終えた年配の男性社員に声をかけられた。高杉自身、赴任してきてまだ3日のため、声をかけた年配社員の顔と名前が一致しなかった。
「お疲れ様です。はい、そうです。前の営業所では始発からだったので、夜間勤務の生活サイクルに身体が慣れなくて…」
「まぁ、慣れだなぁ。酔っ払いにからまれんよーに、頑張れよー」
「はい……ありがとうございます」
高杉は、パソコンの中の交通情報を再確認したあと、車両の点検をするため席を立った。
運転するルートは、営業所から桜台駅を経由し、更にその先の森崎中央駅までの往復をする。高杉は、午後から最終までを担当する事になった。乗客の中には酒に酔い、寝過ごしてしまう人も稀にいると言う。実際はまだそれを目の当たりにしてはいないのだが、着任初日に同僚から話を聞いた時、高杉の気がドスンと重く憂鬱になった。淡々と仕事をこなしたい高杉にとっては、勤務中のアクシデントや歓迎会、会社のイベントなどは出来ることなら避けて通りたい思いだった。しかし、そんな心配はなかったかのように、23時過ぎる頃には乗客がまるでなく、無人のまま営業所まで戻った事もあった。ルートの中に駅が経由地で有るのだが、幸いなことかその駅は最終でも23時45分だったため、終電で帰宅する人達にはタクシーが最終手段になる。
酔っ払いに手を焼く場面に出会うこともないまま1ヶ月が経過していた。運転する住宅街の桜並木はすっかり葉桜が生い茂り、新緑が街灯に照らされていた。高杉は、乗客が乗車しないバスを走らせるこの勤務が快適に思えてきていたのもつかの間、残業や飲み会などの会社帰りのサラリーマンやOLがちらちらと最終のバスに乗車するようになってきた。
最終の車内には、次の停留所を知らせる録音のアナウンスが流れ終わると、再び車内の中は静かになった。しかし、今日はその静けさの中、イヤフォンから音漏れしているように微かにメロディーが流れているのが、高杉の耳に届いていた。更にその音に耳を澄ませると、男性ヴォーカルのロックのようで、リピートされるフレーズとメロディーが耳に残り、高杉の胸を微かに締めつけた。
高杉は、どこから聞こえているのかルームミラーをちらちら見ながら捜したが、すぐには見つからなかった。
『次は、桜中学校前。終点です』
アナウンスと同時に最後部座席から降車ボタンを押す1人の女性の姿が見えた。黒く長い髪を耳の下で一つに結わいたOLのような女性の耳にはイヤフォンがかけられ、A4サイズの書類が入りそうなカバンを持っていた。
停留所に着くと 立ち上がり車内を歩く女性の姿を高杉はルームミラー越しに見ていた。よく見ると顔が何処かあどけない。新社会人なのだろうか。ネイビーカラーのフレアスカートと白のブラウスは爽やかだったが、履いているピンヒールのパンプスがやけに大人びていて、浮いているように感じられた。歩き方もぎこちなさが男性の高杉でさえ感じていた。コツコツと音を立てて歩く女性は、高杉を見ることもなく開いた中央の扉からバスを降りて行った。
停留所を後に営業所に向かう中、さっき聞こえたメロディーが耳に残り、うる覚えのまま高杉は鼻歌を歌っていた。運転席の窓を薄く開けると、清々しい夜風が入り込んだ。なぜだか、今日は気分が良かった。
「高杉は、生真面目だなぁ。いつも出勤1時間前には来ているだろ? 俺も見習いたいもんだ」
タイムカードを打刻して、デスクに腰をかけた高杉の下に現れた所長が感心していた。
「ありがとうございます。ゆとりをもって仕事したいんで。それに、今日雨ですからね」
「これから梅雨に入るから、夜間の運転は十分に注意するように」
「はい」
外は本降りの雨で、バスのフロントガラスはジャブジャブとそれをシャワーのように浴びているため、速度を速めたワイパーでそれを拭いの繰り返しだった。普段に比べると、雨のせいなのか23時を過ぎても桜台駅から乗車する客の数は多かった。
最終の運転をスタートすると、高杉の気持ちが弾んできていた。心なしか口元が微かに上がり、停留所毎に乗車する客に対して自然な笑顔で受け入れられていた。高杉は仕事を生活するためと割り切り、向上心や野心は持たず、当たり障らずの平々凡々な社員でいることを維持し、これまで一度たりとも楽しさを感じることはなかったが、大学を卒業してから勤めて8年目で、ようやく仕事が楽しいと感じてきていた。
最終の時間になり、桜台駅に停車すると3人乗客が並んでいた。
「桜中学校前行き、最終です」
マイク越しに高杉は扉が開くと同時にアナウンスした。
先頭に立っていた女性を見ると、高杉の表情は更に明るくなっていた。2ヶ月ほど前から最終のバスにほぼ毎日のように乗車している、ピンヒールのパンプスを履いたあどけない顔をした女性だった。彼女は、今日も耳にイヤフォンをかけ微かに音漏れがしていた。一瞬の事だが高杉は耳を澄ませて、その音をキャッチすると聞こえてきた音楽は、どうやらいつも同じバンドのようだった。足元はピンヒールをいつも履いていて、ぎこちない歩き方は相変わらずのように思えた。
終点の二つ手前の停留所で既に彼女以外の乗客が下りてしまい、しばらくは二人きりになっていた。雨は更に激しく降り、視界が悪い。運転に注意を払いながらも、密やかな楽しみになっていた彼女のイヤフォンから音漏れして微かに聞こえる音楽は、雨にかき消されてしまっていたため少し残念な気分だった。彼女は、いつも最後部座席の端に座る。ルームミラー越しにその姿を捜し見つけると、一つ前の座席に姿が隠れ、彼女の頭部がわずかに見えるだけだった。
つかの間の時間が終わりを告げるかのように、車内に終点の録音アナウンスが流れた。しかし彼女が動く姿が見えず、もう一度今度は高杉自ら、
「桜中学校前、終点です。…お客さん、終点ですよ」
マイク越しに高杉が彼女に声を掛け、ルームミラー越しに見守っていた。彼女は一向に席を立つ様子がなく、高杉はエンジンを切り、運転席を離れた。土砂降りの雨がバスを叩きつける音は、他の音をかき消してしまうほど激しかった。おそるおそる高杉は彼女の元へ向かい様子を伺うと、窓に身を寄せもたれかかったまま寝息をたてていた。自然で薄いメイクのようだが、頬には涙の後があり、一筋の線が両頬にできていた。左の耳元で一つに結わいた長く黒い髪は少しほつれ、微かに彼女の顔にかかっている。よく見ると、陶器のような白い肌をしていて、髪の黒さとが互いを引き立たせているかのように綺麗だった。イヤフォン越しの音楽は、激しい雨音でほとんど聞こえなかった。
今の 彼女を起こすことは、酔っ払いの客を相手にするより困難だと、高杉は思っていた
。涙の原因は不明だが、丁重に扱わないといけない気がして、対応に頭を抱えそうだった。とはいえ、ずっとこのままの状況はいけないと我に返り、意を決して声をかけた。
「…お客さん、起きてください。終点です」
「……」
激しい雨とイヤフォンの双方の音で、優しく声をかけた高杉の声は彼女の耳には届いておらず、今度は彼女の肩に手をかけ軽く叩いて声をかけた。
「お客さん、起きてください。お客さん」
この後、高杉とOL女性の2人の視点でお話が展開していきます。
至らない表現や文章など多々あるかと思いますが、どうぞ温かい目で見ていていただけると嬉しいです。