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本日発売!
【野球部練習試合 惜敗&快勝】さっさとわたくしを甲子園に連れていきなさい!
一部五十円!
キーッとヒステリックに叫んで、手に持っていたノートを床に叩きつけた。イスを蹴飛ばし、テーブルをバシバシ殴りつける。
「まったく、何様のつもりかしら! 『名スポ』が取材したら幸運が逃げるって、それなら『名東新聞』が取材したら悪運に取り憑かれるに決まってるわよ」
怒り狂っているのは、もちろん八剣編集長。
しかし、今日は俺もかなり腹を立てている。甲子園にいくどころか、予選大会で一勝すらできない初戦敗退の常連校に、なぜか全国大会でベスト八の豪腕ピッチャーが入学してきて野球部へ――もちろん中学のときの成績がそのまま高校野球で通用すると決まっているわけではないが、活躍を期待するなというほうが無理だろう。教職員も、生徒たちも、みんなが野球部を応援している。
どこの野球部からも『安全牌』と呼ばれ、本戦でぜひ戦いたい大人気チームだったりする屈辱の日々にグットバイできちゃう十年に一度、ひょっとすると百年に一度のチャンスなのだ。
その期待の星である鈴堂と中学のときからの友達である俺は、あいつが入部した直後から野球部の取材をしてきたのだ。ところが、もうすぐ予選大会がはじまろうというときになって取材できなくなった。
たまたま八剣編集長が部室にくる途中で生徒会長に会って「ちょうどいいところにいた」とかなんとか言いながら取材を自粛するよう申し渡してきたという。その理由というのが練習の邪魔だし、『名スポ』がかかわると幸運が逃げるから。
しかも、生徒会が中止しろと命じたのではなく、野球部のほうから生徒会を通じて取材自粛のお願いをしてきたという形をとっている。
そんなのどうせ生徒会が圧力をかけたに決まっているし、いままでの取材だって練習の邪魔にならないようにやってきた。これは八剣編集長でなくても頭から湯気をたてながら怒鳴りつけてもいい場面だ。
しかも、学校新聞が全面的に取材できないのかというと、そういうわけではなく『名東新聞』は独占取材を許されるのだから、どうせ校長と、生徒会長と、新聞部部長がタッグを組んで『名スポ』に嫌がらせを仕掛けてきたのだろう。
これが陰謀でなくて、なにが陰謀かという、すごくわかりやすい構図である。
念のため、鈴堂にメールを送って野球部の部長に確認してもらえないか頼んだら、どうやら部費のことで圧力をかけられたようだという返事だった。
スポーツ新聞部は生徒会から部の運営費をまともに支給されていないが、自分たちで作った新聞を売ればいい。一部たった五十円だとしても百部で五千円になる。まさか海外まで取材にいくわけでもないし、基本的に校内でネタを集めるのだから製作費はほとんどゼロで、用紙とインク代さえ稼ぐことができれば次の号は出せる――稼ぐことができなければ部員が小遣いを持ち寄ってもいいし。
だが、野球部は売れるものがない。練習試合で入場料を取ろうとしても、そんなチケットを買う人はいないだろう。
その一方でボールにしてもバットにしても消耗品だし、練習試合をするにしても交通費くらいは必要だ。その金額が具体的にいくらなのか俺にはわからないが、まさか高校生の小遣いでやりくりできるとは思えない。
練習しようと思えば思うほど金がかかるわけで、そんなときに生徒会から部費について圧力をくわえられたら跳ね返すのは難しいだろう。
「八剣編集長、なにか取引できるネタとかないんですか?」
「あ、生徒会長と新聞部の部長だったら、私が持ってる」
俺の質問に答えたのは上社副部長だった。
「小説のネタとかではないですよ。空想の話はいりません」
「チン長測定のときに撮った画像があるよ。部屋の隅に目立たないようにビデオカメラを置いておいたから。あのルーズで、かわいい子を一面トップで掲載する?」
「隠し撮り? しかもモザイクなしで掲載したら逮捕アリな展開になりそうじゃないですか!」
俺が文句を言うと、さすがに上社副部長も苦笑いした。
ところが黒川部長は場合によってはやるしかないと言う――いつもは良識派なのに。
「玄紀くんも優希ちゃんも甘いなぁ。どうせ逮捕といってもあたしたち未成年だし、別に凶悪犯罪というわけでもないから、少年院とか、刑務所とか、そんなことにはならないでしょ、相手のほうは一生モノの恥だけど。特にいまの時代はネットで一度公開してしまうと永遠に残るし、グーグルで自分の名前を検索したらチビッコの露出写真が引っかかるって、もう自殺するしかないよねぇ」
怖えー。
黒川部長が普通に怖えー。
刺し違えることになったとしても、相手のほうがダメージがデカいからヤッちまえって話だろう、コレ。
そのうち、俺にダイナマイトを腹に巻いて生徒会室で喧嘩してこい、とか言い出すもしれないぞ。ドカン! と爆発させれば俺も死ぬけど、生徒会役員全員を殺せるからプラスじゃん、と不気味な計算をしかねない。
スポーツ新聞なのだから野球のネタは重要だし、もしかしたら甲子園というときに取材ができないとなれば黒川部長が非常手段を取りたくなる気持ちはわからなくないけどね。できれば自爆テロみたいなものではなく、こっちは無傷で相手だけをボコボコにする方法を考えて欲しい。
「渾沌先輩、なにかないんですか?」
「ん? ……んん」
この前、一緒に張り込みをして以来、なんとなく渾沌先輩の様子がおかしい。俺が話しかけると妙に赤い顔をして、まともにしゃべってくれない。
「先輩だけが頼りなんですから」
俺が強く言うと、渾沌先輩は目を輝かせた。
「吾輩……だけ。だけ……か。それならば、なんとかしてやらぬでもない。例えば、その画像とやらを生徒会長の実名や住所つきでネットの掲示板に貼まくってやってもよいぞ。書き込んだIPなどをたぐっていくと、ロシアのマトリョーシカ専門の土産物屋の事務所に設置してあるパソコンに辿り着くようにして」
「なぜロシア?」
「ロシアが気に入らないというのなら、ベトナムのハノイにある古本屋のパソコンから書き込んだように小細工してもよいが?」
「いや、別にロシアがダメでベトナムならいいという話ではないと思いますけど」
「さすがの我輩でも北朝鮮国内のパソコンをハッキングして、ここから自由自在にコントロールするのは無理であるが。そもそも、かの国ではネットに接続したパソコンが存在するのか?」
「それを俺に訊かれても困りますが……問題の本質はどこから投稿するかではなくて、いくらごまかしたところで、どうせ俺たちの仕事だと簡単にバレるじゃないですか。そんな画像、うちの部しか出所はないんだから」
「しかたないから、あたしが話をするしかないか……脅迫とか、嫌がらせとか、くだらないこと考える前に交渉してみないとねぇ」
ちょっといってくる、と黒川部長は部室から出ていった。
本当にちょっとの時間で黒川部長は帰ってきた。十分くらいだろうか。移動時間を考えれば、生徒会と五分くらいで話をまとめてきたことになる。
ニコニコと笑顔で自分の席に座ったから、期待していいんだよな。しかし、さすがは黒川部長だ。
「美琴ちゃんは相手に言われたら一方的に怒鳴りつけて、罵るだけ罵ったら勝手に怒って部室に引きこもってしまうからダメなんだよねぇ。ああいうときは、とりあえず相手の話を最後まで聞かないとぉ」
「聞く必要なりませんわ、あまりにくだらないのだから。練習の邪魔というのはともかく、幸運が逃げるなんて、もう少しましな理由を思いつけないのかしら? このわたくし八剣美琴の耳の穢れですわ」
「だから、ちゃんと聞いて、理論的に反論しないとぉ」
黒川部長は生徒会長に幸運が逃げるかどうか客観的なデータを提示しろと迫ったらしい。もちろん、相手は出せるわけない。そんなデータ、あるわけないんだから。
そこで、練習試合で賭けをしようと申し入れた。本当に幸運が逃げるなら、スポーツ新聞部が賭けたほうが負けるはずである。
予選大会までの間に予定されている練習試合はちょうど二つ。そのうち一つを『名スポ』が、もう一つを『名東新聞』が全面的にサポートすることにしたのだ。
「二つとも勝ったら、あるいは負けた場合は得失点差で決めるのぉ。それでね、前の試合がいいか、後がいいか、どっちにするか尋ねたら、こっちから選んでいいということだったから後の試合にしたのぉ」
邪気のない笑顔だが、さすがは黒川部長。とんでもないクセモノだ。
残る練習試合が二試合だったとしても、その二試合とも同じ学校を相手にするわけではない。それどころか、かなりレベルが違うチームとやるのだ。
日曜の練習試合は関西まで遠征することになっていて、しかも相手は難波実業高校。甲子園の常連校にして、春の選抜で全国優勝したチームでもある。もちろん、この夏も優勝候補の一角として名前があがっている強豪校で、公式戦一試合平均十奪三振とか、打率六割超とか、怪物がいっぱい揃った化け物高校なのだ。
一人だけレベル百で、残りは二とか三しかない連中の寄せ集めのパーティーで、ボス級のモンスターばかりが勢揃いしちゃってるようなダンジョンを攻略できるのか? という問題だ。
しかし、その次の日曜にやる練習試合というのは名古屋西高校で、これは去年までのうちの高校と同じ、どっちかというと対戦相手が喜ぶタイプの学校である。特にスポーツに力を入れているわけでもない、むしろ進学率を上げようとがんばっている公立高校だから、野球部も部員は少なく、才能のある選手は皆無で、甲子園どころか予選大会で一勝できるかどうかというところ。
まあ、すべての高校生が本気で甲子園を目指しているわけでもないだろうし、才能とは別に野球が好きで好きでたまらない連中が集まって、高校三年間を白球を追って汗を流し、社会に出ても平日はナイターを観戦しながらビールでも飲んで、日曜には気の合う仲間と草野球をやり、体が動かなくなるまで一生にわたって野球を楽むことができたなら、それは充分いい人生と言えるんじゃないかな?
うちの野球部も去年までは似たようなものだったから、そういう意味では仲がよく、練習試合もたびたびやっている。つい半月前の練習試合では守備練習をかねて鈴堂は打たせて取るピッチングをしたから味方にエラーが出て三失点だったが、まともに全力で戦えば完全試合も夢ではなく、悪くてもノーヒットノーランは達成できそうだ。
百対一と一対百のオッズで賭けるようなもので、勝野がちょっと難しい試合と、まず負ける心配がない試合。黒川部長は俺から練習試合の日程や、その相手チームのことを聞いていた。お目付け役として三年生なのに部に居残っている部長なのだ。いまこういう取材をしていると、報告連絡相談は欠かせない。
もちろん、黒川部長自身スポーツ新聞部の部長だから当然ひさしぶりに活躍しそうな体育会系の部には注目している。
その上で生徒会室では試合相手を特定するのではなく、前の試合か後の試合かなどと曖昧な表現でごまかし、絶対的に有利なほうを取ったのだろう。難波と名西と具体的に名前をあげたら相手だって差がありすぎることに一瞬で気づくだろうし。
これが罠だとわかったのは翌日のことだった。ハメたつもりがハメられていたのだ。
いつものように登校してきた鈴堂に今日の調子を聞く。取材といえば取材。いちおうスポーツ新聞部の部員でもあるし。だけど、実際には毎朝の恒例行事みたいなものでほとんど意味はない。
「日曜は難波だったよな。守備がアレだから普通ならアウトのところが平気でヒットになってしまったりするから、抑えるのは大変だろうが、うまく締めれば三失点くらいならいけそうじゃないか?」
「先輩たちもがんばってるんだぜ。おまえだって毎日のようにグラウンドで見てるんだから、そこそこ守備が形になってきてるのはわかってるだろ……っても、難波は厳しいけどな。しかも、名西のあとだから体力的にも万全とはいかないし」
「あれ? 名西は再来週だろ?」
「難波も再来週になったんだ。なんか急に都合が悪くなったとかで一週間、後ろに日程をズラして欲しいって。まあ、あれだけの強豪校だから練習試合をしてみたいという学校はいくらでもあるだろうし、うちは相手から指名してもらえるような実績ないから――」
「ち、ちょっ、ちょっと待てよ、そうすると日曜は練習試合なしで、その次の日曜は名西と難波のダブルヘッダー?」
「おう。名西は前々から約束してあったが午前だったんだよな。そして、難波が午後からで、しかも日程変更のお詫びということなのか、むこうがうちにきてくれることになったから、まあ、なんとかスケジュール的にはこなせるということでOKしたんだよね」
暢気に鈴堂は答えた。
しかし、俺のほうは同じように暢気に「へー」とか返事している場合ではない。スポーツ新聞部の取材続行を賭けた一戦は後のほうの試合なのだ。そして、いつの間にか『後の試合』が難波にすりかわっている。
黒川部長の策謀にはまったふりをしてみせただけで、生徒会のほうはとっくに見破っていたということだ。
俺は慌ててメールの一斉送信をおこなった。そして、美舟は同じクラスだから、いま聞いたばかりの情報を直接伝える。
「ふーん……黒川部長の性格を見抜いて罠を仕掛けたんやね。練習試合の日程変更を知ってて、それを利用したんやから生徒会長だけの仕業とちゃうやろ。絶対に校長が影におるな」
「だいたい、うちの部になにかあれば、背後に校長がいるような気がするけどな」
「ぎょうさん睨まれとるさかいね」
「状況の分析はどうでもいいから、なにか対策を考えてくれよ」
「急いで慌ててジタバタしてもええアイディアが浮かぶわけやないし、まあ、ここは放課後までゆっくり考えるところや。それに、これは他人事やないやろ。ジブンもちっとは知恵のあるところを見せえや」
最後は美舟に怒られてしまった。しかし、確かに頼りすぎなのも事実である。
なにかあると美舟だもんなあ……そういえば俺のクラス内のポジションも美舟のおかげでかろうじて救われているという部分はある――かなりある。
なにしろ俺にパンツを撮らせろと迫られた一番の被害者が、同じ部活に入り、さっきのように普通に会話してくれる。これは大きい。
もし美舟が俺を無視したりすれば、ほかの女子生徒も追随するだろう。そして、わざわざ女子の嫌われ者と仲良くして、自分も一緒に女子から嫌われたいと思う男子生徒はいない。
よし、たまには俺も俺なりに考えて、美舟をびっくりさせてやろう。
いつもだったら眠気を誘う数学Ⅰの授業がはじまったが、いまは寝てる場合ではないし、ましてや不等式なんてどうでもいいし――いや、本当は不等式は大切だし、ちゃんと勉強しないと試験のとき危ないし、中学と違って高校は赤点を取ると進級にかかわるが、あとで美舟のノートをコピーさせてもらえばなんとかなるだろう。それでダメなら補習だ。夏休みが潰れるかもしれないが、スポーツ新聞部が潰れるよりはましだ。
再び試合のスケジュールを俺が一人で動かすというのは無理。かといって、賭けのほうも俺の一存でやり直しにすることはできない。
できないことを検討したところで時間の無駄というものだが、そうなると残る可能性は難波実業に勝つことしかない……ギャンブルの勝ちかたとしては正統派で、王道で、これ以上ないという結果だ。もちろん、新聞の記事としても難波に勝てたなら盛り上がる。
できるのか、ソレ?
鈴堂は中学三年のときに百四十キロの速球を投げる投手として注目されたわけだし、高校野球でも百四十キロなら悪くない数字だ。変化球はカーブもシュートもキレがよく、うまく配球すれば打ち崩すのは大変だろう――だが、あの難波実業なら大変であっても不可能ではなく、結局は打ち崩すと思う。
高校になって十キロほど球速を上げて、現在MAX百五十キロだが、もう少し、例えば百六十……いや、百マイルはプロだって出せない数字だ。
いまから五キロも十キロも球速を上げる練習方法はないだろうし。あれば全国の高校球児――だけでなく、小学生からプロまで、みんなやっているはずだ。
それに守備の問題もある。もともと一回戦負けの常連校たる名東高校野球部だ。たまたま超高校級のピッチャーが入部したからといって、全体のレベルが急に上がるわけじゃない。鈴堂は形になってきたとか甘いことを言っていたが、はっきりいってザルだ。そのザルの目が少し細かくなってきたとしても、水も漏らさぬ鉄壁の守備には程遠い。
運のいいことにキャッチャーはまあまあのレベルだから鈴堂が手加減なしで投げられる――積極的に自分から作戦を立ててリードするのは無理なようだが、まあ、あの剛速球をしっかり受けられるだけで充分だ。
さらには打撃。ピッチャーががんばって無失点に抑えたとしても、味方がバットで援護してくれなければ勝てるわけがない。鈴堂はバッティングも悪くないが、さすがに全打席ホームランというわけにはいかないだろう。
もしヒットを打ったとしても、あとが続かないのでは本塁まで戻ってくることはできない。
鈴堂の打席が四回あったとして、そのすべてでホームランを打っても四点しか入らない。味方はエラーもするだろうし、そこも含めて三失点以内なら勝てるわけだが……なんてムチャな計算、無謀な計画。
しかし、どう考えても野球部の先輩たちを当てにしてはダメだ。こうなったら鈴堂に普段の二百パーセントとか三百パーセントの能力を発揮してもらわないと。
放課後、部室でおこなわれた対策会議は冒頭から荒れ模様だった。八剣編集長が怒り狂うのは、いつものことだとしても……。
しかし、今回は黒川部長も怒っている。ロリーな――ではなく、標準より小さめの体をブルブルと震わせて、顔は真っ赤、全身で激怒を表現していた。
「あたしを騙すとはぁ……よくもぉ……」
まあ、そうはいっても黒川部長のことだから、まったく迫力がないわけだが。
もちろん、なんだかすげー迫力で激怒している人もいる。
「このわたくし八剣美琴に向かって、つまらない小細工を仕組むとか……いったいどれだけ無礼な者どもが揃っているのかしら。こうなったら、絶対に野球部には勝ってもらいます。ええ、このわたくし八剣美琴が全身全霊をもって応援いたしますわ」
「本当ですか?」
「もちろんです。それともゴミはこのわたくし八剣美琴が編集する『名スポ』が生徒会に負けていいと思っているわけ? そういう敗北主義の敵前逃亡者は死刑にするわよ! 縛り首よ、ギロチンよ、銃殺よ、打ち首よ、磔よ」
「いえ、違います。俺が思うに野球部は鈴堂が一人で背負っているようなものです。それなら、鈴堂をすごくやる気にさせたら有利じゃないですか?」
「ゴミにしてはまともな提案をするのね。それで、そのすごくやる気にさせる方法はなに? まさか、なにも考えてないなんてことはないでしょうね」
「あります、あります。じつは鈴堂は八剣編集長の大ファンなので、ここは編集長のほうから直接本人に応援すると伝えるといいんじゃないかと……」
授業中にがんばって考えた結果、鈴堂がポテンシャルを上げる以外に勝ち目はないわけで、その具体的な方法ということになると、八剣編集長を担ぎ出すくらいしか思いつかなかった。
八剣編集長はちょっと首をかしげて、ニコッと笑った。
鈴堂には三歳年上の兄がいて、やっぱり名東高校の生徒で『名スポ』の購読者だった。その兄が捨てた『名スポ』をよく拾って読んでいたらしい。それで……なんというか……ちょっと性格的にユニークなところがある鈴堂は「こんな記事を書くのはどんな人だろう」と興味を持ち、そのうち八剣編集長のことが好きになった、と。なんとも信じがたい話だが、本人から聞いた話なのだから真実なのだろう。
「あら、鈴堂くんはこのわたくし八剣美琴のファンなの? 野球だけでなく、人を見る目もすばらしいものを持っているようね」
「……そうですね。あのときも指名したじゃないですか」
「あのとき……?」
「以前やった計測の……」
八剣編集長の顔が真っ赤になった。あのときの模様を思い出したのだろう。
トップバッターとして部室に入ってくると、いきなり「一年三組鈴堂極、八剣美琴さんに計測お願いします」と叫んだのだ。
しかも、それは三十センチの定規をフル活用しなければならないほどの立派なモノで、一番に計測したから暫定一位になるわけだが、そのまま最後まで一位に居座り続け、新たなる伝説の一ページを記録したのだった。
「……そういえば、そんなことも……」
「好きで好きでたまらないらしいです」
ちゃんと鈴堂の気持ちを伝えておく。
黒川部長も喜んでいるしね。
「もしかして勝てるかもしれないっ。勝ったら賞品に美琴ちゃんをあげるぅ」
「ちょっと部長、このわたくし八剣美琴を粗品扱いしないでいただけますかしら?」
「うーん……それならデート券を作ろうぉ。十枚でいいかなぁ?」
「十枚? このわたくし八剣美琴と十回もデートできる? たかが練習試合の勝ち負けで信じられませんわ。いくらなんでも大判振る舞いが過ぎるのではないかしら?」
「五枚ならぁ? 一枚は遊園地でぇ、一枚は動物園でぇ、一枚は美術館で、一枚はコンサートでぇ、一枚は温泉一泊ぅ」
「四枚目まではいいとして、最後の一枚は却下します」
「混浴つきぃ」
「つきません」
「露天風呂は絶対っ」
「入りません」
「えーっ……それじゃあ、あたしたちはどこから覗けばいいのぉ? 鈴堂くんと二人きりで混浴温泉一泊二日だったら絶対に売れるスキャンダル記事になるのにぃ」
鬼だ、ここに『名スポ』の鬼がいた……ような気がしたが、よく見ると八剣編集長のほうが鬼みたいだ。剣呑な目が吊り上って、鬼でなければ般若とか。
さすがに強く押しすぎたと思ったのか、黒川部長もそれ以上は駄々をこねることもなく、八剣編集長が五枚でも多すぎると拒否したので、三枚のデート券をパソコンとプリンターで作成した。どこに連れていくか相手のセンスを知りたいということで、遊園地とか動物園というような行き先の指定はなし。
そのまま俺は野球部が練習するグラウンドにいき、鈴堂に勝ったらデート券かもらえると知らせてやった。
予想以上に鈴堂は喜んだ。俺の肩をがっちりつかんで「今日はエープリルフールじゃなかったよな」などと日付の確認までする。
「本当の話だよ」
「デート券が三枚か……三回のデートで俺に完全に惚れさせないとダメなんだよな」
「……しかし、本当に八剣編集長でいいのか?」
「なにを言う! あの高飛車な人がオレの前だけではデレるんだぜ。美琴を甲子園に連れてってとか」
「夢見すぎ。つーか、俺の知ってる昔の漫画だと甲子園につれてってとおねだりする女の子は美人で気立てもよく、とってもフレンドリーで、みんなに好かれているという設定だった気がするが」
「ふっ……おまえみたいな本当の女の魅力がわからん御子様は美琴さんの素晴らしさに気づくことができないんだよ」
「まあ、なんでもいいや。それより勝算はあるのか? デート券はもれなくプレゼントとか、先着順とか、抽選じゃないんだぜ。勝てば三枚、負ければゼロだ」
「なに、難波といっても一年生二年生ばかりの二軍チームだ。なんとでもなる」
「二軍? なんだよ、それは……バカにされてないか?」
「うちみたいなチームが練習試合を申し込んだところで、まずまともに相手してもらえないのに、むこうから遠征してくるんだぞ? まあ、難波からすれば俺を見たかったんだろうな。うちにしたところで今年甲子園にいけるようなチームじゃない。せいぜい地区大会で二つか、うまくいって三つも勝てれば上出来だ。本当の勝負は来年、再来年。だとすれば、相手も一年生二年生のほうが練習にもなるだろ。どうせ、その顔ぶれと甲子園で戦うことになるわけだから」
「まあ、そういう考えかたもあるのか」
なんにしても俺としては勝ってくれれば文句はないわけだ。スポーツ新聞部に入部してからずっと取材対象としてきたから、野球部に変な思い入れができてしまったのだろう。二軍と聞いて腹が立ったが、冷静に考えれば勝つ可能性が少しでも上がるほうがいい。
そして、試合の日がやってきた。試合開始は八時だから、そのちょっと前に俺は登校し、グラウンドに向かった。
いちおう午前の試合は『名東新聞』が担当することになっているのだから、本当ならベンチの横で取材したいところだけれど、ここは我慢。
撮影ポイントだけは決めておき、その場所をとられないように三脚を立てておいた。しかも、その三脚というのがフランス製のジッツオで、もうこれ以上はないという最高峰の製品だったりする。
見た目がいかにもポンコツだから、ろくに調べもせずに捨て値の値札をぶらさげておいたのだろう。近所のリサイクル屋の隅に放り出してあったのだが、もともとは機関銃をのせる三脚を作っていたメーカーだから、いかに外見がくたびれていようと実際には頑丈にできていて、それでいて操作感は滑るようにスムーズ。
安かっただけあって俺より年上なのは確実で、最近のものはカーボン製で軽量だが、こいつは担ぐと肩にずっしりくる重量級。いちおう金属では軽量なほうのアルミでできているはずなんだが、長距離の移動は投げ捨てたくなる衝動を抑えるのに苦労する。
塗装は剥げ、傷も目立つしな。
しかし! そうはいっても世界一の三脚メーカーの製品なのだから、もうそれだけで最高の気分だ。
この価値はリサイクル屋のオヤジにはわからないだろう。一流の男は、一流の製品を見抜くのである。
カメラをのせてピッチャーマウンドや、打席にピントを合わせてみた。ゾナー二百ミリに二倍のテレコンバーターという、渾沌先輩の部屋を隠し撮りしようとして失敗した組み合わせだが、今日はよく働いてくれるに違いない。
ほかに七十五ミリから三百ミリまでのズームレンズも持ってきていて、こっちはオートフォーカスで撮れるわけだが、この俺が写すのだからマニュアルでも問題はない。
むしろクラシックなレンズだが、銘玉といってもいいツァイスのゾナーのほうがいい写真が撮れるかも。
しばらくすると野球部の部員たちがやってきて、ストレッチをはじめた。別に気合が入っているという感じはしないが、まあ、練習試合なんだからしかたない。緊張してガチガチになっているよりはいい状態なのだろう。
そこまで確認すると、俺はカメラのファインダーから目を離した。レンズキャップをはめて、さらにはカメラを三脚から外してバックにしまった。
場所取りはしたけど、この試合は観戦のみで、取材はしませんよ、というポーズだ。この試合でなにかアクシデントが発生したとしても、俺やスポーツ新聞部に責任をなすりつけることができないようにしておく必要がある。李下に冠を正さず、と昔の中国人も言ったらしいし、難癖をつけられないようにしておくことも大切だ。
しばらくすると、相手の名西高校もやってきた。こっちも気合が入っているという感じではない。ついでに体にも緊張感がさっぱりない――脂肪を削ぎ落として必要な筋肉を必要なだけ発達させたアスリートの体には見えなくて、擬音語で説明するならぽちゃぽちゃとか、むくむくとか、ぽよぽよという感じ。
妙にデブ率の高い野球部だ。
「調子はどないなもん? まず負ける心配はないはずやけど」
うしろから声をかけられる。美舟は小さなデジタルカメラを手にしたまま、ひょいと手をあげて挨拶してきた。
「午前中は名西だから問題ないだろう。見てみろよ、調子もなにも、アレに負ける心配はねえぞ」
「ウチらの立場からすると、勝ってもらっては困るやろ」
「まあ、それは認めるが……ちょっと負けるほうが大変そうな相手だったりするけどな」
「そろそろ試合がはじまるみたいや」
お願いします、と元気に挨拶して名東の選手はグラウンドに散り、名西はベンチに下がった。つまり、うちが後攻ということのようだが……なぜか鈴堂がベンチにいる。
ピッチャーは生駒さんだ。三年生で、鈴堂が入部するまでエースだった人。あまり才能に恵まれているとはいえないが、コツコツと努力するタイプで、スピードはないけど変化球が上手くて、コントロールにも定評があった。
まあ、午後から難波実業とのゲームがあるのだから、主力のピッチャーを温存する作戦なのだろう。それでなくてもピッチャーの肩は消耗品といわれることもあるし、さすがに一日に二試合も登板させるわけにはいかない。
しかし、そのおかげで観戦していて楽しいゲームになった。双方とも打ったり、抑えたり、ファインプレーが出たり、エラーしたり、ワンサイドゲームではなく、シーソーゲームなのだから、プロ野球などではない、高校生の、それも練習試合なのだが飽きさせない試合展開だった。
観客は俺たちだけ。鈴堂はかなりモテるほうだから平日の授業後なら女子生徒が何人も応援に駆けつけたかもしれないが、さすがに休日の朝だし、相手は名西高校ということもあって、わざわざ登校してくる生徒はいなかった。
あとはベンチの脇で取材している新聞部の部員。
二回に一点先制するが、三回には名西高校がソロ・ホームランで追いつき、さらにツーベース・ヒットが出て、焦ったのか処理できないような球ではなかったのにエラーで一点献上。逆転される。
五回に二点ずつ追加し、七回に名東高校は一点をもぎとって同点とした。
さらに八回にも一転追加で、ついに逆転。
最後の九回裏、名東高校はワンアウト二塁三塁のピンチ。あとアウト二つで勝てるわけだが、かなり生駒さんは苦しくなってきているようだ。球のキレもなくなり、もともとなかったスピードがさらに落ち、唯一の頼りであるコントロールも悪くなっている。
鈴堂と比較できるレベルのピッチャーではないものの、甲子園常連校でもなんでもない、ごく普通の公立高校の野球部員として評価するなら生駒さんは悪いピッチャーではない。一球一球を大切にして、すごく丁寧なピッチングをするのだ。
ただし、それだけに体力の消耗は大きいらしい。スタミナ面は以前からの課題で、なんとかしようと本人も努力はしているようだった。
俺も生駒さんが朝練の時間より前に登校して、一人で黙々と走りこみをしているところを何度も見たことがある。
だが、スタミナ不足の改善といっても、そうそう簡単に達成できるようなものではない。
それが最後の最後に噴出したわけだ――いや、努力したから最終回までもったというほうがいいのかもしれない。以前だったら、五回くらいから球威が落ちはじめていたもんな。
「……予定通りや……」
「なにが?」
「聞こえとったんか?」
美舟は声をひそめて、まわりに聞こえないように謎の言葉を俺に投げつける。
「こんな展開になると予想しとったという、それだけのこっちゃ」
カーンと澄んだ音が俺の耳に飛び込んできた。慌ててグラウンドのほうを見ると――ボールは外野のほうまで飛んでいく。センターとライトの中間あたりに落ちた。
三塁の選手がホームめがけて突っ込む。
ボールを拾ったライトが慌ててしまったのか、中継に入ったセカンドの頭上を大きく越える球を投げた。
それがキャッチャーのミットにズバッと決まればかっこよかったのだが、現実は無残にもピッチャーマウンドの手前で力尽きて転がる。
「続け!」
「ホームいける!」
「西田、頼む」
名西高校のベンチから大きな声が飛び交う。
二塁にいたはずの選手が三塁ベースを蹴り、そのままホームに突入。
生駒さんが転がるボールをなんとか右手で捕球して、そのままキャッチャーに投げようとした。
しかし、その瞬間、名西高校の選手はホームへ滑り込んだ。
――逆転負け。
勝った名西高校の連中はベンチの前で抱き合い、肩や背中を叩いて、すげえ喜んでるんでる。決勝打を打った奴なんか涙ぐんでるもんな。
そして……うちのベンチでも生駒さんが目を真っ赤にしてる。
野球にはドラマがあった。ただの練習試合だけど、うちの野球部が負けたけど、気分はそんなに悪くない。
午後の試合がはじまるまでに二時間以上もあるので、俺たち部室で昼食をとることにした。先輩たちも午後の試合は応援にくるといっていたから、しばらくしたらやってくるだろう――と思いながら部室のドアを開けると、そこにはガクラン姿の応援団が……。
「……なあ、美舟よ。俺の目がどうかなっちまったか? なぜか先輩たちがガクランを着ているように見えるんだが」
「ウチもダボタボのズボンに、膝くらいまである長い上着で、まるで昭和の番長みたいな人たちが見える」
「……応援団………なんだよ……………な?」
「そういえば昨日の部活のとき、こそこそと三人で話をしとったけど、あれはこのことやったのかも」
俺たちに気づいた八剣編集長が睨みつけるような目を向けてきた。足首まである長ランで、しかも色は純白。ハチマキに白手袋までして、それどころか『應援團』と、なんだかシブい書体の刺繍がしてある腕章までつけていた。
「このわたくし八剣美琴が精一杯の応援をするのですから、負けるはずがありません」
「まあ、それはそうかもしれないですけど……わざわざ応援団の格好をしてきたんですか? どっちかつーと、どうしてそんな服を持っているのか、かなり謎なんですけど」
まさか応援団の部室からかっぱらってきたわけないだろうが、必要とあれば、それくらいのことを平気でやってしまえる先輩たちだから怖い。
「このわたくし八剣美琴としては日差しが強くなってきたし、素人の球遊びなんか観戦してもつまらないだけだから、勝ったという結果だけを下僕がメールで知らせてくれればいいと思ったのよ。だけど、この二人が応援にいくべきだし、その場合はこれを着たほうがいいと言うから」
「好意を持つ女性が応援すれば実力以上のものを発揮するであろう。我輩の九飛眼で完璧に空気を読み切ったのである」
渾沌先輩は腰より上の超短ランで、腿のあたりはブカブカなのに足首で絞ったドカン。完璧に空気を読み切ったのに、どうしてこうなったのか小一時間ほど問い詰めたい。
そして、上社副部長はオーソドックスな黒の長ランに下駄という、ちょっとバンカラな雰囲気。満面の笑みで、眼鏡のレンズが曇り、三つ編みがあちらこちら揺れている。
「それで私のコレクションを提供してみました。ブレザーはブレザーで悪くないんだけど、学制服は学生のうちしか着られないし、素敵よね?」
「いや、俺に同意を求められても困りますし、そもそも自宅に学生服のコレクションをしているような人と一緒にされたくはないですが」
「そういえばセーラー服のコスプレは結構あっても、学生服をコスプレで着る人は少ないよね、あれはなんでだろう?」
「たぶんですけど、この世の中の男子は別に腐向けのサービスをする義務がないからだと思います」
「でも、セーラー服のコスプレしてる人だってオタクにモテてもしょうがないと思ってるよ。だけどサービスしてるんだから、男子のほうも学生服を着てくれたっていいじゃない」
「日本男児代表とかではないので俺にそれを言われても困りますが……」
本当に応援するためなのだから、コスプレといっていいのか微妙だが、非常に違和感ある姿をした先輩たちと昼ごはん。
午後の試合開始に間に合うように部室を出ると、クラブハウスの前で生徒会長の三之丸が待ち構えていた。
「あら、試合はご覧になったかしら? これで午後の試合に勝てば、わたくしたちも勝ち。負けたところで引き分け。どっちにしてもわたくしの負けはないわね。さあ、さっさと土下座して謝りなさい、このわたくし八剣美琴の靴をお舐めなさい」
「なにか仕掛けたのだろう?」
三乃丸は八剣編集長を睨みつけた。
先輩たちは白い目で睨み返す。
「負けたのにもかかわらず、あまりに見苦しい姿である。自分で自分のことが恥ずかしいと思わぬのか?」
「まあ、生徒会長は小さな男だからね。測ってみると、なんと驚き七センチ!」
「そういえば、そうでしたね。ならばしかたない、小さい人に大きくなれと命じてみたところで詮ないこと。このわたくし八剣美琴もさすがに無理なことは言いません」
「小さいとか……具体的な数字とか、言うなよ」
「あれ、ななちゃんがなにか怒ってる。でもさ、ななちゃんの魅力はチンコのサイズじゃないと思うよ。だって、総受け大歓迎な生徒会長なのだから、お尻の具合が重要なわけで」
「なにが大歓迎な生徒会長だ! ななちゃんと呼ぶな!」
「♪ななちゃん、チンコが小さいよ、なななな、なななな、七センチ♪」
とうとう上社副部長なんか自作の歌までうたいだした。そして、顔を真っ赤にしている三乃丸に三人の先輩たちが同時に人差し指を突きつける。
「ななちゃん!」
涙目で「覚えてろ」とか、いかにも負け犬なセリフを叫びながら逃げている生徒会長だった。
グラウンドに戻ると、ちょうど午後の試合の準備をしているところだった。
そして試合がはじまってみると、今回の鈴堂は本気も本気、いままで俺が見た中でも最高のピッチングだった。
最初の三回までは相手も様子を見ていたかもしれないが、打者が一巡してバッター全員が鈴堂の球を間近で見たあとでも、バットにかすることすらできずに三振ばかり。
しかし、ちょっとでも甘い球を放れば打たれそうな緊張感のある試合だった。
先輩たちは「フレーフレー」とか「かっせかっせ」とか声を出せばいいのに、自分たちだけでおしゃべりしていて試合は見る気すらないようだ。フェンスにもたれかかって、昨日のテレビ番組だったり、最近食べたお菓子の話題に花を咲かせている。
ソレ、いまここで話をしないといけないことなのか? なにしにきたんだ? この人たち。おもしろい試合なのに。
せっかくのガクランが泣くぞ。
そう思ったとき、鈴堂が打たれた。球は詰まり気味だから、普通ならレフトが前進してキャッチしてアウトという展開なのだが……ポロリと落球したのである。
バッターはほぼアウトと思われる打球だったのに、最初から全力で走っていたので結果的にツーベースとなった。さらにつぎのバッターはきっちり送りバントを決め、ツーアウトながらランナー三塁。
美舟は身を翻し、八剣編集長にちゃんと応援しなかったから、こんなピンチを迎えてしまったのだと声をかける。
「えっ、これはわたくしたちの責任なの?」
「編集長が応援すると聞いて、鈴堂くんはすごい喜んどったのに、黙って見てるだけなんだから、そらテンション落ちるでしょうが」
「そういうものなの?」
八剣編集長は左右に視線を動かし、二人の友人に確認しようとしたが……上社副部長も渾沌先輩も恋愛の経験値ゼロな人たちだから、まともに答えられるわけない。
そこに美舟が畳み込むように言葉を続けた。
「落ちます、落ちます、カクンと落ちますよ。この試合は全力で応援せなあかんです」
「わかってるわよ、このわたくし八剣美琴が絶対に勝たせましょう」
「フレー、フレー、りんどう!」
三人の先輩たちによる即興の応援団が活動しはじめたが、コレ、どっちかというと足を引っぱるんじゃないのか? なにしろ掛け声がバラバラもいいところなのだ。
たぶん上社副部長が応援団の団服を持っていたから雰囲気を楽しむために着てるだけで、応援の練習は一度もしてないに違いない。どっちかというと味方の集中力を切らそうとする罠のような応援だが、ときおり鈴堂が八剣編集長のほうに視線を向けるのがわかった。こんな応援でも、いちおう役に立っているのだろう。
なんとか鈴堂が後続を三振にして、ピンチを逃れた。
だが、名東高校は負けてないだけで、勝ってもいないのだ。
その原因は中山風馬という難波実業のピッチャーのせいだろう。鈴堂は中学のとき全国ベスト八だったわけだが、逆にいえば上に七チームもあるわけだ。その七チームが全部ピッチャーの力で勝ち残ったわけではないとしても、鈴堂よりも優れているピッチャーは何人かいた。
そのうちの一人――しかも、よりにもよって全国一位だった男。こいつが名東高校の打線をぴしゃりと抑えていた。
「明日の見出しは『エースがちんこ対決』だな」
味方の援護がまったくなくても、ペースを乱すことなく淡々と自分のピッチングを続ける鈴堂を何枚撮っただろうか。
「エースがチンコ対決? なんてエロいの?」
いいかげん応援にも飽きてきたらしい上社副部長が俺の独り言を聞いて、なんか変なふうに反応した。
「そういう定番のヌルいギャグはいいです、こんなすごい試合なのに」
「エロいのは貴様の脳髄だ」
渾沌先輩も顔をしかめる。
しかし、上社副部長はめげない。
「ならば私最強と言うことで」
「さっさと死ぬがよい」
「いまは死ねない。来月の新刊を読むまで絶対に無理。俺弟の新刊が出るし、目螺先生の新シリーズがはじまるし……」
「あら、新刊を読んだらこの世に未練がなくなるの? つまり現段階であなたが生きている理由は来月出版される本が読みたいという、それだけなのかしら? このわたくし八剣美琴には難解すぎて理解できない世界だけど」
「私がいま生きている理由は本が楽しみなこともあるけど、視姦が楽しすぎるからのほうが大きいかも」
「しかん? シカン? 視姦! 先輩の場合、女が三つではなく、男が三つですよね」
「えっ。べつに私3Pとか妄想してないから」
「どうせ定番のピッチャーとキャッチャーであろう。オリジナリティーのかけらもない女であるな」
「私……玄紀くんと鈴堂くんで妄想してたわ。でも、ピッチャーとキャッチャーか……ということは、鈴堂くんと高岡くんの間に玄紀くんが割って入る三角関係で、最後には3Pという展開ですか。もしかして玄紀くんが二人を犯しまくる鬼畜な楽園」
「どういう展開ですか?」
「鬼畜って聞くとときめかない?」
「どういう質問ですか?」
「思わず漏れちゃうような?」
「意味がわかりません!」
そのとき、キーンと甲高い金属音が響いた。下位打線だから油断していたが、七番バッターが難波実業の中山風馬からヒットをもぎ取ったのだ。内野の頭をかろうじて超えたが、外野までは届かない微妙な当たりだったが、だからこそ、うまいところに転がってヒットになった。
「し、しまった……決定的瞬間だったのに……」
「だいじょうぶや、ウチが撮った」
頭を抱える俺に美舟がやさしく言葉をかけてくれた。しかし、試合の最中にファイダーから目を離して、シャッターに添えているべき右の人差し指を遊ばせていたという事実は重い。まったく、カメラマン失格じゃないか!
気を取り直して、ファインダーを覗きこむと八番バッターが初球を思い切り叩いたところだった。
反射的にシャッターを切る。動きの早いスポーツが被写体なのだから、当然撮影モードは連続になっていて、一秒間に三枚ずつ撮れる。白球を追いながらピントを合わせ、その間もシャッターは切れ続けた。
ライト前に転がり、一塁三塁。
「かぁっ飛ばぁせ、お・お・の・ぎぃ。フレェーフレェー、お・お・の・ぎぃ!」
「か~っ飛ばせ、お~お・の・ぎ。フーレーフーレー、お~お・の・ぎ!」
「かっ飛ばせ~ぇ、お・お・の・ぎ。フレーフレーェ、お・お・の・ぎ!」
かっ飛ばせコールです、輪唱ではありません。ラジオ体操第三を開発中ではありません、応援動作です……変な応援のせいだけではないと思いたいが、九番バッターは中山風馬の速球に攻め立てられ苦戦している。
「トーライッ、アウト!」
追い詰められた九番バッター・大野木は全力でバットを振り、球にかすることもできずに三振。
これでツーアウトだが、打順が一番に戻った。そして、その一番バッターというのが鈴堂なのだ。
ピッチャーだが、打率もチーム一。一回戦敗退の常連校だからしかたないのだが、鈴堂のように飛びぬけた選手はほかにいない。試合のレベルが一定以上になれば、一人で投げて打って勝つことになる。それで打順はもっとも多くまわる一番。
「かぁっ飛ばぁせ、り・ん・ど・うぉ! カッセーェカッセーェ、り・ん・ど・うぉ!」
「か~っ飛ばせ、りぃ~ん・ど・う! カッーセーカッーセー、りぃ~ん・ど・う!」
「かっ飛ばせ~ぇ、り・ん・ど・う! カッセーカッセー、り・ん・ど・う!」
また、その期待を実現してしまうのが鈴堂という男なのだ。三球目、わずかに甘く外角にそれたストレートをひっぱたき、センターの頭を越える痛烈なツーベースヒット。
三塁にいた選手が生還し一点。
一塁の選手は三塁までいき、ツーアウト二塁三塁のチャンスが続く……ように見えたが、二番バッターがあっさり三振。どうも中山風馬という難波実業のピッチャーは波があるようだ。
しかし、待望の先制点が入った。
もちろん、そのあとも危ない場面は続いたが、なんとかしのぐ。
結局、この一点を守りきって名東高校は勝った。
そして、俺たちも勝った。
熱戦を力の限り戦った男たちが向かい合って握手をしている。いいシーンだ。俺は夢中になってシャッターを切った。
鈴堂と中山もお互いの手を握り合っていた。そして、中山が鈴堂になにか耳打ちし、クルッと背を向けるとベンチに戻っていった。
「おい、鈴堂。ちょっとこいよ」
俺は声をかけた。おめでとう、と祝福の言葉をかけてやりたかった。去年、あいつに負けて悔しい思いをしたはずだ。それが今日は練習試合とはいえ見事にリベンジを果たした。
いまでも俺はやっぱり八剣編集長の魅力はさっぱり理解できんが、デート券はヤツのものだ。
鈴堂は勝利を手にした男には見えない暗い顔つきで、早足でこっちにやってきた。そして、俺が差し出したデート券を受け取ると――二つに引き裂いた。
メロンのような胸を抱え込むようにして腕組みする、いつもの決めポーズで「わたくしが応援してあげたのだから勝って当然、這いつくばって感謝しなさい」というような表情だった八剣編集長がポカーンと口をあけた。
あっけにとられ呆然としている。
そんな八剣編集長を鈴堂は睨みつけた。
「こっちは真剣に勝負しているのに、八百長はないですよ。いくらなんでも、それはない。八剣さんは尊敬できる人であって欲しかった……まあ、俺の一方的な気持ちですから迷惑なだけかもしれないですけど、あなたが編集長になってからの記事はすばらしかった。だから、そういう人だと思って好きだったんです。だから……とても残念だった……」
鈴堂は一方的に(かなり意味不明な)別れの言葉を告げると、八剣編集長の背を向けた。
言われた八剣編集長のほうは、まだポカーンとしたまま。俺にはさっぱり事情が見えてこないのだが、カメラマンの悲しい性から反射的にシャッターを切っている。
あのあと、美舟が練習試合に負けるように難波実業を脅したと自白して、すぐに八剣編集長に謝った。関西から転校してきたわけだが、中山風馬は中学のときの同級生で、なにか秘密のネタがあるようだった。
「こないなことになるとは思わんかったさかい……どうでも勝てるように手を打つだけ打っておこうと……」
そのネタがなにかは教えてくれなかったが、美舟は中学のときから美舟だったわけだ。
さらに美舟は鈴堂にも事情を説明して謝り、今朝も登校してきて教室で顔を合わせると、やっぱり謝罪していた。休憩時間とか、昼休みも謝ってて、何度も何度も謝るから、いいかげん鈴堂は迷惑で面倒くさくなってきているみたい。
「もういいってことはないかもしれんが、あまりしつこいのはかえってよくないぞ」
と、俺は美舟に声をかけた。
「確かにそうやな、やりすぎはよくない。このへんにしとくか……」
さっきまで平謝りという感じだったのに、急にふてぶてしい表情に変わる。
「なんか反省してない感じじゃないか」
「反省? ちゃんとしとるよ。バレないように、もうちょっとうまく立ち回らんとあかんかったわ。中山のドアホ、あっさり鈴堂にバラすとは計算外やった。ほんと、反省、反省。大いに反省するところやな」
「そっちを反省してるのかよー、なんだか必死に謝ってまわってるから見直してたのに」
「失敗したときは変な言い訳するより、ちゃんと謝ったほうが好感度が上がるんやで。日本人は潔いヤツに弱いんや」
「謝罪まで計算ずくかよ……しかし、こうなってみると黒幕とか、フィクサーをきどるのは十年早いんじゃないの?」
「ウチはこういう女やさかいな、諦めへんで」
絶対にクラスメイトには見せない暗い表情で美舟は笑う。
放課後、俺は『名スポ』のバックナンバーを読んでみた。部室の壁をふさぐ棚にはファイルがぎっしり詰まっていて、そこに過去の『名スポ』が年代順にファイルされて保存しているのだ。
こんなヨタ記事満載な新聞で、しかもローカルなネタだから、当時は生徒でもなんでもなかった俺には楽しめるものではないと勝手に決めつけていたが、実際にはそれなりにおもしろいものだった。
以前、上社副部長から聞いたとおり、『名スポ』は試合に負けた運動部を叩けるだけ叩きまくっていた。
おととし以前の、俺が顔も名前も知らない先輩たちが作った『名スポ』は見出しだけが派手で、内容は乏しく、そのくせ悪意と毒を混ぜたような、真っ黒な記事ばかり。
去年は三か月戦争のせいで新学期から夏休みまでは黒川部長が一人で発行していたインターネット版しかない。これもプリントしてファイルされているのだが、やっぱり黒い印象がしてしまう記事ばかり。
ところが、二学期になって編集長の名前が八剣美琴に、四面に漫画と小説が掲載されるようになると、手馴れない、まるで小学生が作った学級新聞のような読みにくい新聞に突如として変貌する。
前に読んだときは身内であるはずの上社副部長の小説や混沌先輩の漫画を批判する、つまらない記事だと思ったけど、順番に読んでいくと意外とこれが悪くない。
まず、だんだんと新聞の記事が充実してきて、レイアウトも上手になってきた。特集する内容だけでなく、それの見せ方が上手くなっているのだ。
そして、特定の部活を叩くような記事は皆無になった。自業自得みたいなもの(俺がかかわったものだと軽音部の一件がそうだ)は別として、基本的には他人を傷つける記事はない。
ほんの十号ほどで小学生の壁新聞レベルだったのが、明るく楽しいエンターテイメント新聞に変化していた。最初の数号は試行錯誤がヒドすぎるが、こんな短期間に新聞製作をマスターしてしまったのだから八剣編集長はすごい。
「あら、今日は早いわね。で、なにやってるの? 過去の記事の整理?」
部室のドアをバーンと開けて入ってきたのは八剣編集長だった。昨日、目の前でデート券を破られたときはびっくりしていたが、すぐに立ち直って――つか、カンカンに怒り狂って帰ってしまった。
「美舟から話は聞いてます?」
「まあね」
ギューと顔が渋くなっていく。
「すぐに電話があって家まで謝りにいきたいと言ってたけど、そこまでのことじゃないし。今朝、鈴堂くんと一緒に教室まで謝罪にきたわよ」
「あらためてデート券を?」
「まさか! このわたくし八剣美琴はそこまで安くないのよ。チャンスが何度もあるなんて思うほうがどうかしてなくて? まあ……甲子園にいけたら、次のチャンスがあるかもね」
「ところで、昨日の練習試合をどういう記事にしようか迷ってたんですけど……」
「あら、それで過去の記事を参考に?」
「負け試合だったとしても、がんばったと励ますような内容が多いですよね」
「うちの学校は野球部に限らず、サッカーもバスケもバレーも剣道も柔道も陸上も、ありとあらゆる部活が一回戦負けの常連校でしょう。進学校としてはまあまあまの評判なのに、なんでこんなに運動部は弱いのかしら? きっと中学でも補欠だった人ばかりかもね。それでも続けているということは、その競技が好きで好きでたまらないからだと思うの」
「でしょうね」
「だとしたら、それはとてもすばらしいことではなくて?」
たぶん八剣編集長は――いや、上社副部長も渾沌先輩も自分たちが叩かれる対象だった人ばかりだから、叩かれた人の痛みがわかるんじゃないかな。
俺も昨日の試合を記事にしよう。鈴堂の取材をしているうちに野球部の部員みんなと仲良くなったから、スポットライトを当てる対象に困ることはない。たとえば午前中は生駒さんがいいピッチングをした。結局は逆転負けだったわけだが、その結果はその結果として、それまでは丁寧に投げて、名西打線を抑えたのも事実なのだ。
難波実業ではなく、その記事をメインにしよう。鈴堂には悪いが、一面トップに掲載される写真は生駒さんだ。
だいたい八百長試合で勝ったなんて、記事にできるわけないしな。
「はい。すぐに記事を書きますから読んでもらえますか?」
「あなたも少しはスポーツ新聞部の部員らしくなってきたわね」
八剣編集長は少しだけ俺に向かって微笑みかけてきた。
これで最終回です。お読みいただきありがとうございました。