知らない
【1】
鏡には、あなたの顔が映っている。十代のころに比べるとフェイスラインのたるみが少し気にはなるが、あなたの顔はまだ充分「美人」の枠の中に収まっている。あなたは鏡に向かって微笑んでみる。自分の笑顔の完成度にあなたは一定の満足を覚える。よしよし。あなたは思う。
あなたは今、自宅のトイレにいる。手洗い場の大きな鏡の前にあなたは立っている。あなたの手には、ついさっき届いたばかりの真新しいハンドソープのボトルが握られている。エルメスの〈オードゥルバーブエカルラット〉はあなたのお気に入りの香りだ。
手洗器の横にあなたはハンドソープのボトルをそっと置く。ブランドのロゴマークが正面を向くように角度を微調整する。〈オードゥルバーブエカルラット〉の赤いジェル剤型は、白と黒で統一された室内の景観によく映え、一段と美しく見える。トイレの床と手洗い場のカウンターはそれぞれ色味の異なる大理石で作られている。どちらも、あなたのこだわりによって選ばれたものだ。
あなたはカウンターから一歩離れ、ハンドソープの置かれた手洗い場全体を改めて眺める。何かまだ物足りない感じがする。あなたは寝室に向かう。鏡台の引き出しを開け、中からオーデコロンのフラコンボトルを取り出す。香りはもちろん〈オードゥルバーブエカルラット〉だ。あなたはトイレへと戻り、ハンドソープの隣にそれを置いてみる。また一歩離れて眺める。何かしらあなたの中で納得のいく条件が揃ったようだ。あなたはよしと頷いて、邪魔なのでわきによけてあった別のハンドソープのボトルを持って、トイレを出る。
あなたがいま手に持っているのは、ついさっきまで使われていたハンドソープだ。先月買ったばかりなので中身はまだ充分に残っている。だがあなたにはそれはもはや不要だった。あなたはハンドソープを持ってキッチンに行き、何の躊躇いもなくそれをゴミ箱に捨てた。〈オードゥルバーブエカルラット〉のハンドソープほどではないにしろ、それだって決して安くはない代物だった。けれどそんなことはあなたにとって今やどうでもいいことだった。トイレのハンドソープは今日からエルメスの〈オードゥルバーブエカルラット〉になった。あなたのお気に入りの香りだ。
あなたはソファに座り、タブレット端末で、エルメスの公式オンラインブティックのページを開く。鏡台の引き出しにしまっていたオーデコロンをトイレの手洗い場に置いてしまったあなたは、鏡台の引き出しにしまっておくための新たなオーデコロンを必要としていた。あなたは〈オードゥルバーブエカルラット〉のオーデコロンをショッピングバッグに追加し、夫のクレジットカードで支払いを済ませた。
そう、あなたには夫がいる。あなたは一年前に現在の夫と結婚をした。あなたの夫はとある会社の経営をしている。主にサプリメントなどを扱う会社のようだが、詳しいことをあなたは知らない。それなりに大きな会社らしいということをなんとなく知っているだけだ。夫は経済的に豊かだった。だから夫から結婚を求められたとき、あなたは喜んだ。自分がもう働かなくてもよくなることをあなたは嬉しく思った。
あなたの夫はあなたを愛している。夫はあなたよりいくらか歳が上だが、容姿はそこそこだし、何よりあなたに対してとても優しい。あなたを広い家に住まわせ、あなたに自由を与える。そして欲しいものは何でも買わせてくれる。少々、溺愛の感もある。それはあなたに比べもう若くない夫が、若いあなたの心変わりを恐れているせいでもある。あなたはそれを知っている。知った上で、その大きすぎる愛情を享受することにしている。実際のところ、あなたが今の生活を手放すリスクを冒してまでほかの男と関係をもつようなことはまずないのだが、夫がその心配をしてくれている限り、あなたは夫にいつまでも甘やかしてもらえる。あなたはその愛にできるだけ長く浸かっていたいと考えている。
あなたは夫の愛に大いに甘えてはいるものの、その実、夫の妻として案外よくやっている。家事はヘルパーに任せきりにしないし、夕食のメニューは出来合いのものをなるべく使わずに栄養バランスを考えた料理を作る。食事中に夫がよくするあなたにとってはよくわからない仕事の話にも、あなたは嫌な顔一つせず丁寧に頷きを返す。内容については、聞いたそばからすぐに忘れてしまうのだが。あなたには些か楽観的すぎるきらいもあるが、しかし決して馬鹿ではない。あなたはあなたで夫の自分への愛が冷めてしまうことを恐れているし、そうならないようにできる限りの対策を打っておくべきだと考えている。
あなたのそういった努力はしっかりと功を奏している。あなたの働きぶりに夫は大きな満足を感じている。もともと夫はあなたの端麗な容姿と結婚をしたようなものだから、あなたの夫への献身は彼にとって望外の喜びだった。夫の中であなたの価値はますます高まり、それまで以上に強くあなたを失いたくないと思うようになった。少々余計な買い物をし過ぎる点は玉に瑕だが、それもいずれ、生活を共にするうちに改まっていくだろう。家庭に入れば、女はやはりそれらしく変わっていくものだ。日ごろのあなたの様子を見て、夫はそのように考えるようになった。実際、あなたが夫に尽くすのは夫ではなくあなた自身のためだし、あなたの浪費癖はあなたにとって呼吸のようなもので、そう簡単に改まるようなものではないのだが、あなたの夫はそうとは知らない。
いずれにしろ、今のところあなたはよくやれている。あなたは夫に幸福を与え、あなた自身もまた幸福を手にした。あなたは昔から、自分を幸福にすることにかけては見事な才能を発揮する人物だった。そして、そのために他の誰かを不幸に陥れることを何とも思わない人間だった。
このような生活がずっと続いていけばいいとあなたは思っている。そうなるはずだという予感めいたものを感じてさえいる。しかし、実際にどうなるかはまだ誰も知らない。あなたも、あなたの夫も、そして――わたしも。
【2】
今から十年ほど前、あなたは高校生だった。あなたの成績はいつだって真ん中くらいだったし、運動神経も平凡だった。優れた芸術的センスをもっているわけでもなかった。こと学業で必要とされる能力という面において、あなたは極めて平均的な学生だった。
そんなあなたがいつでもクラス内ヒエラルキーの最上位に君臨していられたのは、偏にあなたの容姿のおかげだった。あなたは美人だった。あなたのメイクやスカートの丈に変化があると、それがそのまま校内の流行になった。あなたはクラスの中心であり、また学校全体という単位で見ても、常に多くの人々からの耳目を集める存在だった。そしてそのことをあなた自身、よく知っていた。
当時、あなたのクラスに藤代絢子という名の女子生徒がいた。彼女は勉強がよくできる学生だった。それは彼女が勤勉であったからというよりも、単に体制的なものに対して従順な性質のもち主であったためだ。学校や教師という存在を彼女は疑わなかった。将来の夢や就きたい職業、行きたい大学などといった具体的な目標がなくても彼女は勉強ができた。彼女はいわば、勉強のために勉強をすることができる人間だった。
そんな藤代絢子とあなたとの間には、接点と呼べるようなものは全くと言っていいほどなかった。あなたと藤代絢子は属しているグループがまず違った。藤代絢子が所属するグループは、クラスのおよそ中間層に位置するグループだった。たとえクラスが同じでも、グループが異なればそこに交流は生まれない。当時のあなたが藤代絢子に関して知っていたことの全ては、「勉強ができる子」という一点のみだった。実際それはその通りで、藤代絢子はたしかにただ勉強ができるだけの子だった。しかしそれを言うならあなただって、ただ可愛いだけの子でしかなかったのだが、ただ勉強ができることとただ可愛いだけであることの価値は同等ではなかった。藤代絢子がいくらテストで好成績を収めようと、クラス内でのあなたの地位を脅かす存在にはなり得なかった。藤代絢子という存在にあなたは無関心だった。それがあるとき、変わった。
■■■
それは夏休みももうじき終わろうかというある日のことだった。あなたは図書館に来ていた。断っておくが、普段のあなたには恒常的に、あるいは定期的に図書館に通うような習慣などなかった。あなたは夏休みの宿題をやりに来ていたのだ。それはいわゆる調べ学習とか探求学習とか言われる類のもので、資料を読み、集めた情報を分析し、それをまとめてクラスで発表するという形式をとるものだった。そのうちのまとめるところまでが夏休みの宿題になっていた。
夏休みとはいえ、平日昼間の館内に人はまばらだった。比較的大きなテーブル型の席に座り、あなたは書架から適当に取ってきた本を捲り始めた。しかし最初の数ページで早くも頭痛がしてきた。あなたは本が嫌いだった。活字を見ると条件反射的に頭痛がした。本来ならその日、あなたはグループの友人と一緒に宿題をやるはずだった。だが当日になって急遽、その友人が来られなくなってしまったのだ。こんなの一人でやってらんない。あなたは作業に飽き、本から顔を上げ、周りを観察し始めた。すると、あなたから見て左奥の四人掛けの小さなテーブル席に見たことのある顔を発見した。名前も覚えていないようなクラスメイトだった。だがあなたは席を立った。あなたは退屈だったのだ。
「こんにちは」
と、あなたは彼女に声をかけた。わきに積まれたノートに名前が書いてあるのを発見し、「藤代さん」と付け加えた。
藤代絢子はあなたを見て、「あ」という顔になった。どう返事を返したらよいかわからないといった様子だった。あなたは続けて「勉強してるの?」と訊ねた。藤代絢子は遠慮がちにこくんと頷いた。「そうなんだ。夏休みなのに、偉いね」あなたはにこやかに微笑んだ。藤代絢子はやや伏し目がちに、口もとを歪めるようにして笑った。予想通り、藤代絢子はあまり人とのコミュニケーションが得意ではないタイプの人間のようだった。
「えっと……宮島さんも、勉強しに来たの?」
藤代絢子がようやくまともな言葉を発した。あなたは少し困ったような顔をつくり、
「ううん。わたしは宿題。ほら、夏休みの、本読んで調べてこいってやつ」
「ああ、あれ」
話題が共通の、しかも学業に関するものであったからか、藤代絢子の表情はいくぶん柔らかくなった。
「あの宿題、けっこう面倒くさいよね」
「ねー。チョーめんどくさいよねー。おまけにネット禁止とか言っちゃってさあ。なんでわざわざ本で調べなきゃいけないんだろうねー」
常田先生、頑固だからね。そう言って笑う藤代絢子に、「藤代さんは、もうあの宿題終わったの?」とあなたは訊ねてみた。「うん、一応」と彼女は答えた。実際のところ、それは大いに予想できたことではあった。だがあなたはやや大袈裟に「えーすごい、さすがー」と音を抑えた拍手を送った。藤代絢子は「いやいや、そんな」とまたやや伏し目がちに笑った。
「藤代さんって、夏休みの宿題、最初の一週間とかでぜんぶ終わらせてそう」
「ああ、まあ、そうかも」
「やっぱり! すごいなあ。藤代さんって、マジ頭いいもんねぇ。テストもいつも学年トップとかだしさあ。もう、ほんと尊敬」
あなたは思ってもいないことを、さも本当にそう思っているかのように言うことができた。いやそんな、わたしなんて、全然すごくないよ。藤代絢子はまたも目を伏せながら笑っていた。どうやらそれは彼女が照れているときの笑い方のようだった。えー、すごいよー。わたしも一度でもいいから藤代さんみたいな点数とってみたーい。あなたの口はほぼ自動的に動いた。この時点で、あなたはすでに藤代絢子との会話に飽きてきていた。その代わり、あなたは最前から藤代絢子の隣に座っている男のほうに興味が湧き始めていた。最初に藤代絢子の姿を発見したとき、彼女がこの男と親密そうに小声で話をしている様子をあなたは目にしていた。彼氏だろうか。試みに、あなたはまたわざと藤代絢子を褒めそやすようなことを口にしてみた。もう、そんな、やめてよ、と藤代絢子が伏し目がちに笑う間、男の口元が僅かに弓なりになるのが確認できた。
あなたは改めて男の様子をそれとなく観察してみた。男はいかにも真面目そうだが、ガリ勉という感じでもなかった。眼鏡をかけているが、あまり似合ってはいない。コンタクトにしたらいいのにとあなたは思った。文字を書く、消しゴムを使う、などといった一つひとつの動作が丁寧に行なわれ、しかしそれらは緻密というよりどこかゆったりとしていて、神経質そうな印象はあまり与えない。年齢にそぐわない落ち着いた雰囲気を纏っていた。あなたの学校にはいないタイプの男だった。
ふいに男が顔を上げ、あなたと目が合った。男はどぎまぎしたり、慌てて目を逸らしたりすることなく、あなたに対して柔らかい笑みを向けた。あなたは彼にそっと微笑みを返した。
「あ、あのさ、宮島さん。よかったらわたし、その宿題、少し手伝おうか?」
藤代絢子が唐突にそんなことを言ってきた。いつの間にそんな話になっていたのかはよく覚えていなかったが、彼女のその申し出はあなたにとって渡りに船だった。藤代絢子は席を立ち、あなたの設定したテーマの内容を確認すると、あなたが最初に行ったのとはまるで違う区画の書架にあなたを案内した。
「これと、このあたりを持っていけばいいと思う」
藤代絢子は本のタイトルと大まかな内容を確認し、手際よくあなたに適切な本を薦めた。あなたは彼女に感謝を告げると、声を潜め、訊ねた。
「ねえ、あの一緒に勉強してる子って、藤代さんの彼氏?」
すると藤代絢子は一瞬、驚いた顔をし、頬を赤らめて小さく「うん」と頷いた。すごくいい人そうだよね、お似合いって感じ。あなたが言うと、藤代絢子はその日初めて見るような顔で笑い、さらに頬を赤くした。
その顔を見て、あなたはにっこりと微笑んだ。
【3】
藤代絢子の彼氏は、苗字を牧野といった。藤代絢子とは学校が違うが、通っている予備校は同じだった。二人はそこで知り合った。藤代絢子と同様、彼もまた勉強がよくできた。藤代絢子は部活動をやっていないが、彼は彼の学校のバスケットボール部に所属していた。その影響かはわからないが、彼は同年代の少年たちの平均よりいくらか背が高かった。藤代絢子はどちらかというと小柄なほうなので、並んで立つと彼の背の高さがいっそう際立つ。藤代絢子の彼氏に関して、以上のことをあなたは知り得た。日ごろ藤代絢子とほとんど交流がなかったはずのあなたが、なぜそれだけの情報を仕入れることができたのか。答えは簡単だ。夏休みの図書館での一件をきっかけに、あなたは藤代絢子との親交を深めた。藤代絢子の彼氏に関するそれらの情報はすべて、藤代絢子本人からあなたが直接聞いたことだった。
あなたは藤代絢子にメイクのし方を教えた。制服の着くずし方をレクチャーし、教師にバレない程度に髪を明るくすることを勧めた。それらは藤代絢子にとって、今まで開けたことのなかった扉だった。実際にやってみると、自分がこれまでとは違う何者かになれたように彼女は感じた。あなたが提供する「かわいい」に藤代絢子は意外にも楽しみを見いだした。彼女は髪にアイロンをかけるようになった。それまで使っていた通学用リュックをやめ、あなたとおそろいのデザインのものにした。あなたはそれらを逐一ほめた。藤代絢子はあなたのそういった言葉を素直に受け取り、あなたへの親愛の情をより深めていった。
そのころには、藤代絢子はあなたのグループの一員になっていた。元いたグループで彼女の存在はもはや浮いていた。藤代絢子は以前より明るくなり、よく喋るようになった。相変わらず勉強はよくできたが、あなたたちとの遊びの約束がよく入るようになったので、勉強をする時間は前より少し減った。それらが藤代絢子にとって良い変化だったのかどうかは置いておくとしよう。そもそも、彼女の性質や生活がどのように変わろうと、あなたにとってはどうでもよかったのだ。あなたは藤代絢子に対して関心などなかった。初めからずっと、それは一貫していた。あなたはただ、機会を窺っていただけだ。そしてある日、あなたは藤代絢子と遊園地に出かけた。
その日、一緒に遊園地に行ったのは、あなたと藤代絢子の他にもう二人いた。一人はあなたが連れてきた男子だった。あなたにとって、それが彼である必要性は特になかった。数ある候補の中から、最初に誘いの連絡を入れたのがたまたま彼だったというだけのことだ。あなたにとって重要なのはもう一人のほうだった。藤代絢子は彼女の彼氏、牧野を連れてきていた。
男女二人ずつで遊ぶというのは、あなたが提案したことだった。あなたからその話を聞いたとき、藤代絢子はそれを「楽しそう」と思った。かつての藤代絢子だったらそうは感じなかったかもしれない。藤代絢子はこのとき既にあなたによって充分によく「しつけ」がなされた状態になっていた。藤代絢子を自分の意に沿わせることはあなたにとって造作もないことだった。藤代絢子はあなたのことを信頼していた。あなたの目には、藤代絢子はよく言うことを聞く犬のようなものに見えていた。この日、あなたは牧野と再会した。そしてごく自然な形で彼と連絡先を交換することに成功した。
■■■
「最近なんだか、彼が冷たいんだよね」
あなたは藤代絢子からよく相談を受けるようになった。実際、このころ牧野は藤代絢子との約束を反故にすることが多くなっていた。そして、自分がその原因を作っている当の本人に相談を持ちかけていようとは、藤代絢子にとっては思いもよらないことだった。
あなたは彼女の話に全く興味がなかったが、表面上は親身になって相談に乗っていた。藤代絢子が不安げな顔で言葉を紡いでいるのを聞きながらも、あなたの頭の中にあるのは、次の美容院の予約をいつにするかというようなことだけだった。
「もしかしたら、浮気、とか……してるのかも」
「浮気? 牧野くんが?」
「うん……。なんとなくだけど、そんな気がして……」
「うーん。あの牧野くんに限って、そんなことしないと思うけどなあ。絢子のこと、すごく大事に考えてると思うし」
「そうかなあ……」
「うん、そう思う。きっとさ、今は勉強とか部活とか、他に忙しいことがあるんじゃない? それが落ち着いたら、きっとまた元の優しい牧野くんに戻ってくれるよ」
「……うん」
「ほら、元気出して! 絢子にはわたしがついてるんだから。もしね、もし、絢子の言うように、牧野くんが誰か他の女に目移りしちゃってたとしたら、わたしが牧野くんにガツンと言って、目を覚まさせてあげるから」
「うん……ありがとね、愛莉ちゃん」
そう言って、藤代絢子は目を潤ませた。彼女はあなたとの深い友情を感じ、あなたという存在がそばにいてくれることを心強く思った。あなたは泣いている藤代絢子をそっと抱き寄せ、彼女の頭を優しくなでた。その翌日から、あなたは藤代絢子の排除を開始した。
あなたにとって、藤代絢子はもはや不要な存在だった。彼女を自分のグループから締め出すにあたって、あなたは特に何もしないでよかった。あなたはただ一言、こう言うだけでよかった。
「最近あの子、なんかうざいんだよね」
あなたのその一言で、グループの方向性は瞬時に決まった。あなたの発言に追随するように、グループの人間たちから藤代絢子に対する日ごろの不満が次々に飛び出していった。あなたのグループにおいて、あなたの存在は絶対だった。あなたが道を示せば、周囲の人間は迷うことなくその道を歩き始める。あなたはただそれを見ているだけでよかった。
藤代絢子への迫害はすぐに始まった。それは彼女を徹底的に無視するとか、彼女に関する根も葉もない悪い噂を校内にばらまくといった、実に古典的で、かつ陰湿な方法によってまず行なわれた。時にそれはより直接的な形をとり、彼女の持ち物はあなたのグループの人間たちによって隠され、汚され、あるいは捨てられた。彼女のお気に入りだったあなたとお揃いのリュックも、はさみとカッターでずたずたにされ、トイレに放置された。それらはいずれも安直で、単純なやり方だった。しかしそうであったが故に、藤代絢子は自分がいじめられているのだということを充分すぎるほどによく認識できた。
彼女の人生はそれまで、そういったこととはまるで無縁だった。藤代絢子は精神的に追い詰められていった。彼女は誰かに助けを求めたかったが、すがるべきよすがはどこにもなかった。親や教師に話す勇気はもてず、元いたグループに彼女の居場所はもはやなかった。何より信頼していたあなたに裏切られ、支えになるべき彼氏はそのあなたによって奪われていた。藤代絢子は学校を休みがちになり、そのうち全く来なくなった。冬が過ぎ、春が来ても、彼女は学校に現れなかった。
学年が上がり、新たなクラスでの生活にも慣れてきたころ、あなたは藤代絢子の訃報を聞いた。
【4】
藤代絢子の死の真相は公にされることはなかった。しかしそれが自殺であったらしいことは、しばらくの間、校内で噂になった。実際、彼女の死因は自殺だった。あなたたちからのいじめを苦にして、藤代絢子は自らの命を絶ったのだ。
藤代絢子の自殺の噂を耳にしたとき、あなたは少なからず動揺した。自分たちが彼女に対してしてきたこととの因果関係が容易に想像できたからだ。あなたは怯えた。自分が何かしらの罪に問われる可能性について考え、不安になった。しかしそれも、藤代絢子の葬式が終わるころにはほとんど解消されていた。考えてみれば、自分はあの子に対して一度も直接手を下していない。実行したのはすべて他の子たちだ。自分がしたことといえば、最初にちょっと、ほんのちょっとだけ、あの子の悪口を言ったくらい。それ以降、自分はあの子に何もしていない。自分は今回のこととほぼ無関係だ。そのように考えることで、あなたは藤代絢子に対する罪の意識から脱し、自らの精神を安定させることに成功していた。
一学期が終わり、学校が夏休みに入るころには、藤代絢子に関する噂は校内でほとんど聞かれなくなっていた。あなたにとっても、彼女の存在はもはや過去のものとなっていた。藤代絢子? ああ、そんな子いたね。死んじゃったんだよね、あの子。かわいそうに。たまに彼女のことが話題に出ると、あなたはそう言って悲しそうな顔をした。
あなたは高校を卒業し、大学生になった。牧野との関係は、そのころには既に終わっていた。物珍しさから出会った当初はいくらか魅力的に見えたものの、いったん手なずけてしまえば牧野も他の男たちと大して違いがなく思えた。あなたはすぐにつまらなくなって、牧野を捨てた。藤代絢子の死があなたにそうさせたわけではない。ただ単に飽きただけだ。
あなたは大学でも人気者だった。男にもよくモテた。あなたは自分の美しさを磨くことを怠らなかった。それがあなたの最大の強みであることを、あなたはよく知っていた。美しいあなたの周りには自然と人が集まった。あなたがちょっと他人を気遣うようなそぶりを見せれば、周りの人間はあなたを称賛し、あなたは「心の優しい子」になった。あなたは飲み会の席で、これといって大したことも言わずにただ笑っているだけで、その場にいる全員に好かれた。あなたの美しさはあなたの内面をも美しく見せた。あなたを疑う人間は誰一人としていなかった。もしいたとしても、それは疑う側の人間を醜く見せることにしかならなかっただろう。あなたにとって人生は簡単だった。大学を卒業してからもそれは変わらなかった。あなたはいつしか働くことに飽き、自分を豊かな環境で養ってくれそうな相手を探した。そうしてあなたは、今の夫をその相手とすることに決めた。
■■■
家のドアが開く音がした。ただいま、という声がそれに続く。夫が帰ってきたようだ。あなたはタブレット端末をテーブルの上に置き、玄関に向かう。
現在、あなたは幸福な生活を送っている。いや、現在に限らず、これまでもあなたはずっと幸福だった。あなたは自分を幸福にするための方法をよく知っている。そのために他の誰かを不幸に陥れたとしても、あなたの幸福は揺るがない。これまでずっとそうだった。だからこれからもきっとそうだろう。あなたは漠然とそう考えている。
あなたは知っている。自分が幸福であり続けるために、自分がどのように振る舞い、行動すればよいかを。誰に媚びを売り、誰と親しくし、そして誰を、どのように切り捨てればよいのかを。そうやって、あなたはこれまで幸福に生きてきたのだ。
だが、あなたは知らない。藤代絢子が自らを死に至らしめるまでの間に、どれだけあなたのことを憎み、怨み続けていたのかを。あなたがいくら自らを弁護し正当化していようと、藤代絢子にとって最も忌むべき相手は常にあなただった。あなたのグループの人間たちから執拗ないじめを受けていたあの当時、藤代絢子の目は、取り巻きたちの陰に隠れてほくそ笑むあなたの姿を映していた。謂れなき虐げを受け、傷つき、苦しんでいる自分を、いちばん安全な位置から愉快そうに眺めているあなたの存在に藤代絢子はずっと気づいていた。
あなたは知らない。藤代絢子の肉体が死んだとき、彼女の魂は彼女の肉体を離れ、あなたの中に宿った。それから彼女は、ずっとあなたのことを見てきた。今の彼女には、あなたの全てが手に取るようにわかる。あなたが何を思い、何を考え、何に執着し、何を絶対に失いたくないのかを藤代絢子はよく知っている。彼女に知られていることを、あなたは知らない。
あなたは玄関で夫を出迎える。おかえり、とあなたは微笑みかける。あなたの美しい笑顔を見て、夫は今日一日の仕事の疲れを全て忘れる。そうして、あなたのお腹に手を当てる。
「今日、少し動いたの」
あなたの報告を、夫は嬉しそうに目を細めて聞いている。あなたの妊娠は、あなたと夫双方にとって大変喜ばしい出来事だった。子の存在は夫婦の結びつきをより強め、自身の幸福の地盤をいっそう強固なものにしてくれることだろう。あなたはそう考えている。
しかし、あなたは知らない。あなたの妊娠は、あなたの中にいる藤代絢子の魂にとって、新たな「容れ物」の発見を意味した。彼女の魂は、あなたの体内に生成された新しい肉体の中に宿ることにした。あなたの体内に生成された新しい肉体――つまり、わたしの中に。
わたしはもうすぐわたしでなくなる。藤代絢子の魂が、わたしの肉体を完全に支配しようとしている。わたしがどのような「形」でこの世に生を受けるのか、それは誰にもわからない。たとえそれがどのようであっても、あなたはわたしを愛してくれるだろうか。あなた自身の幸福のために。
「この子が生まれるのが、今からすごく楽しみ」
あなたはそう言い、夫ににっこりと笑いかける。そうだね。わたしもあなたに会えるのが今からすごく楽しみだよ。
そのときはよろしくね、愛莉ちゃん。
(了)
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お読みいただき、ありがとうございました。




