ひび割れた幸福
この文章を読んでよく考えてほしい。
夜の街を歩いていると、世界は案外ひっそりと壊れているのではないかと思うことがある。昼間にはあれほど騒がしく、絶えず何かを主張していた看板や人々の声も、終電が近づく頃にはみな疲れ果てたように沈黙している。コンビニの白い灯りだけが妙に浮き上がり、誰もいない歩道には風だけが流れていく。そういう景色の中に立つと、ふいに、自分という存在がこの世界から切り離されたような感覚に襲われる。まるで巨大な劇場に、観客も役者も消え去ったあと、一人だけ取り残されてしまったような気分だった。
世の中の人間は、人を欲しがる。恋人が欲しい、家族が欲しい、理解者が欲しい。誰かと一緒に食卓を囲み、休日を過ごし、歳を取っていく未来を、多くの人が幸福と呼ぶのだろう。寂しさを埋めるためなのか、不安を忘れるためなのか、それとも、自分がこの世界に存在していてもよいのだと確認したいからなのか。理由はそれぞれ違うにしても、人は最終的に誰かへ辿り着こうとする。
だが私は、そういう未来をどうしても美しいと思えなかった。
むしろ、どこか薄暗い部屋で一人きり、静かに生きていく人生のほうに心を惹かれてしまう。誰にも理解されず、誰にも必要とされず、それでも時間だけが淡々と流れていくような人生だ。そんなことを言えば、悲劇の主人公にでもなったつもりか、と笑われるかもしれない。実際、自分でも時々そう思う。何を気取っているのだ、と。けれど、そう感じてしまうのだから仕方がなかった。
私は昔から、人の幸福というものに妙な距離を感じていた。教室で笑い合う同級生たちを見ても、その輪の中心へ入っていきたいとはあまり思わなかった。むしろ少し離れた場所から眺めているほうが落ち着いた。体育祭が終わったあと、みんなが肩を組んで写真を撮っている横で、夕暮れの校舎を見上げている時間のほうが、自分にはずっと自然だった。
もちろん孤独が苦しくないわけではない。夜になると、胸の奥に冷たい水が溜まっていくような感覚がある。誰かに話しかけたくなることもあるし、自分だけが世界から置き去りにされているように思えることもある。だが、その痛みさえも、どこか愛してしまっている自分がいた。
学生には課題がある。会社員には仕事がある。毎朝決まった時間に起き、疲れた身体を引きずりながら同じ場所へ向かう。その繰り返しの中で、多くの人は「こんな生活は嫌だ」と嘆く。けれど私は、そういう苦しさの中に奇妙な美しさを感じてしまうことがある。
例えば、雨の日の朝、濡れた靴で電車に揺られている時だった。窓ガラスには灰色の空が映り込み、車内には誰も笑っていない。その光景を見ていると、自分が何かの物語の主人公になったような気分になるのだ。報われるかどうかも分からない人生を、それでも黙って生き続ける登場人物。誰にも気づかれないまま、静かに摩耗していく人間。そう考えると、不思議と苦しさが少しだけ柔らかくなる。
たぶん私は、幸福よりも、欠けているものに惹かれているのだと思う。完成されたものではなく、ひび割れたものに安心する。誰かと強く結びつくことより、いつか必ず失われると知りながら夜を歩くほうが、自分には似合っている気がするのだ。
夜の街は、そのことを教えてくれる。午前二時を過ぎた道路にはほとんど車も通らず、自動販売機の明かりだけがぽつんと闇に浮かんでいる。遠くで犬の鳴く声がして、ビルの隙間から見える空には、色の薄い月が貼り付いている。そういう景色を見ていると、人間がどれだけ誰かを求めようとも、最後には皆、一人なのだと思えてしまう。
だから私は、寂しい人生を否定できない。虚しい人生を恐れることができない。それは不幸ではなく、ただ静かなだけなのだ。海の底みたいに暗く、冷たく、けれど妙に落ち着く静けさ。
もしかすると、私がおかしいだけなのかもしれない。それでも、一度だけでもいいから、夜の街を一人で歩いてみてほしい。イヤホンも外して、誰にも連絡をせず、ただ黙って歩くのだ。そうすればきっと、世界がほんの少しだけ遠く感じる瞬間がある。そしてその時、自分の孤独が、単なる不幸ではなく、一つの風景なのだと分かるかもしれない。
本当に家族にも誰にも言わず、一度夜に歩いてほしい。




