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タマは今日も少しだけ冒険するシリーズ

タマのごちそう

掲載日:2026/05/18

 

 タマは、今日も同じキャットフードを食べていた。


 かりかり。

 かりかり。

 かりかり。


 いつもの音。

 いつもの匂い。

 いつもの皿。

 そして、いつもの味。


 タマは三口ほど食べたところで、ぴたりと口を止めた。


「……またこれか」

 皿の中には、茶色い粒がきちんと盛られている。


 昨日もこれだった。

 一昨日もこれだった。

 その前も、おそらくこれだった。


 もっと言えば、タマがこの家で暮らすようになってから、だいたいずっとこれだった。


 まずいわけではない。

 むしろ、うまい。

 そこは認める。


 だが、うまいものでも毎日続けば、ありがたみは薄れる。


 毎日ふかふかの布団で眠っていても、たまには畳でごろりとしたくなるように。


 毎日なでられていても、たまには放っておいてほしくなるように。


 毎日同じキャットフードを出されると、猫にも思うところがある。


「春子よ」

 タマは、台所にいる飼い主を見上げた。


「にゃあ」

「はいはい、タマちゃん。おいしいねえ」

 春子はにこにこと笑った。


 悪い人間ではない。

 むしろ、かなりいい人間である。

 毎日、水を替える。


 トイレをきれいにする。

 タマが鳴けば返事をする。

 タマが無視をすれば、少し寂しそうな顔をする。


 だが、一つだけ大きな欠点があった。

 飯が、いつも同じなのである。


「違う。おれはおいしいと言っているのではない」


「今日はよくしゃべるねえ」


「この世には、もっと別のうまいものがあるのではないかと言っている」


「はいはい、かわいいねえ」

「通じていない」


 タマは深いため息をついた。人間というものは、猫の言葉を理解しない。


 そのくせ、猫の気持ちは分かっているような顔をする。全然わかってないのに。


 実に困った生き物だった。タマは皿の前に座ったまま、窓の外を見た。


 青い空。

 揺れる草。

 塀の向こうへ続く道。


 見たことのない場所。

 嗅いだことのない匂い。

 食べたことのない何か。


「外だ」

 タマのひげが、ぴんと動いた。


「外にはきっと、もっとすごいうまいものがある」


 そう考えた途端、いつものキャットフードが急に平凡なものに見えてきた。


 いや、平凡だから悪いわけではない。


 平凡は大事だ。

 平凡があるから、猫は安心して眠れる。

 だが、猫には冒険心というものもある。

 たぶんある。


 少なくとも、タマには今日、それがあった。


「旅に出よう」

 タマは決意した。

 そして、その日の昼。


 春子が洗濯物を取り込むために窓を開けた、その一瞬を狙った。


 するり、タマは見事に窓の隙間を抜けた。


 ただし、窓の下に置かれていた植木鉢に尻尾をぶつけ、思ったより大きな音を立てた。


「あら、タマちゃん?」

「まずい」


 タマは走った。庭を抜け、塀に飛び乗り、少し滑り、爪を立て、なんとか体勢を立て直す。


 旅立ちとしては、やや格好が悪かった。

 しかし、旅立ちは旅立ちである。


「タマちゃーん?」


 春子が窓から顔を出した。

 タマは塀の上で振り返る。


「すまぬ、春子」


 タマは胸を張った。


「おれは俺に相応しい本当の味を探しに行く」


「にゃあ」


 もちろん、春子にはそう聞こえなかった。


「遠くへ行っちゃだめよー」

 タマは聞こえないふりをした。


 旅に出る猫は、簡単に振り返らないものなのだ。塀を降りたタマは、まず路地裏へ向かった。


 外の世界には、家の中とは違う匂いが満ちていた。


 土の匂い。

 草の匂い。

 車の匂い。

 人間の靴の匂い。

 よく分からない袋の匂い。


 どれも新鮮だった。

 ただ、全部が食べ物の匂いではなかった。


「思ったより、外は複雑だな」


 タマが真剣な顔で歩いていると、物置の陰から低い声がした。


「おう。誰かと思えば、タマじゃねえか」


 そこにいたのは、黒猫のクマキチだった。

 このあたりでは少し有名な野良猫である。

 顔に傷があり、目つきが鋭く、歩くたびに


「おれは外で生きている」という空気を出している。


 タマから見れば、野性味のかたまりだった。


「クマキチ」

「珍しいな。家猫がこんなところまで来るなんて」


「旅の途中だ」

「旅?」

「うまいものを探している」


 タマがそう言うと、クマキチはにやりと笑った。


「なら、ちょうどいい。食うか?」

 クマキチの前には、ネズミがあった。

 タマは固まった。


「……それを食え、と?」

「当たり前だろ」

 クマキチは誇らしげに胸を張る。


「捕まえたばかりだ。新鮮だぞ」

 タマはネズミをじっと見た。

 確かに、新鮮そうではある。


 しかし、新鮮なら何でもいいというわけではない。


 タマはしばらく考え、それから真面目な顔で言った。


「クマキチ」

「あん?」

「おまえ、こんなものをよく食べられるな」

「こんなものとは何だ。最高のごちそうだぞ」


「おれの思っていた“うまいもの”とは、方向が違う」


「家猫はこれだからな」

 クマキチは鼻で笑った。


「食わず嫌いするやつは、外じゃ生きていけねえぞ」


「別に外で生きていくとは言っていない」

「じゃあ何しに来た」

「味の研究だ、ほんとうのうまいものをさがしている!」


「面倒くさい猫だな」

 タマはその場を離れた。


 背後でクマキチが「うまいぞー」と言っていたが、タマは振り返らなかった。


 たぶん、うまいのだろう。

 クマキチにとっては。

 だが、タマは思った。


 うまいものには、もう少し見た目というものが必要である。


 次にタマが出会ったのは、三毛猫の又三郎だった。


 又三郎は商店街の裏を根城にしている猫で、妙に世渡りがうまい。


 人間に甘えるときは甘え、逃げるときは逃げ、怒られる前には姿を消す。外猫界の器用者である。


「おや、タマさんじゃありませんか」

 又三郎は、口に何かをくわえていた。

 紙の包みである。


「何を持っている」

「ふふん。これはですねえ」


 又三郎は包みを地面に置き、前足で器用に開いた。中から、茶色くて油っぽいものが出てきた。


「人間の食べ物です」

「人間の?」


「しかも、商店街の揚げ物屋の裏から手に入れた逸品です」

 又三郎は得意げだった。


「人間たちはこれをありがたそうに買っていきます。つまり、うまいに決まっています」

 タマは近づいて匂いを嗅いだ。


 濃い。

 油。

 塩。

 よく分からない刺激。

 そして少し、昨日の気配。


「……又三郎」

「はい」

「これは、落ちていたものではないのか?」


「正確には、捨てられていたものです」

「もっと悪い」


「細かいことを気にしてはいけません。人間の味ですよ」


「人間の味というより人間の残り香の塊だ」

 又三郎は少しむっとした。


「家猫は分かっていませんねえ。こういうものは、苦労して手に入れるからうまいのです」


「苦労とうまさは別だと思う」

「同じです」

「違う」

「同じです」

「違う」

 二匹はしばらく見つめ合った。


 その間にも、又三郎の包みからは油の匂いが立ちのぼっている。


 タマは首を振った。


「やめておく」

「もったいない」


「おれは、もっと上品なうまいものを探している」


「上品な猫が塀から脱走しますかね」

「それとこれとは別だ」

 タマはまた歩き出した。


 少し腹が減ってきた。

 けれど、まだ戻るわけにはいかない。

 旅は始まったばかりなのだ。


 商店街を抜けると、魚屋があった。

 これは期待できる、とタマは思った。

 店先には魚が並んでいる。


 ぴかぴか光る魚。

 大きな魚。

 小さな魚。

 干された魚。

 開かれた魚。

 タマの鼻が、ひくひく動いた。


「これだ」

 タマは目を細めた。


「おれが求めていたものは、これかもしれない」


 そのとき、店の奥から魚屋のおじさんが出てきた。


「こらっ、猫!」

 タマは飛び上がった。


「まだ何もしていない!」

「にゃっ!」

「しっしっ!」

 おじさんは手を振って追い払ってきた。


 タマは仕方なく逃げた。

 魚はうまそうだった。

 かなりうまそうだった。

 しかし、問題がある。

 近づくと怒られる。


 うまいものというのは、どうしてこうも守りが固いのか。


 タマは魚屋の向かいの植え込みに隠れ、しばらく店先を見つめた。


 その間にも、人間たちは魚を買っていく。


 お金を出し、包んでもらい、大事そうに持って帰る。


「なるほど」

 タマはうなずいた。


「人間社会では、うまいものは交換によって手に入れるのか」


 タマは自分の前足を見た。

 肉球。

 爪。

 毛。

 お金は持っていない。


「不便な仕組みだ」

 タマはそう結論づけた。


 魚屋を離れて歩いていると、今度は小さな子どもがパンを落とした。


 白くてふわふわしたパンだった。


 子どもは泣いていて、母親はそれをなだめている。


 誰もパンを見ていない。

 タマは慎重に近づいた。


「これも、人間が食べるものか」

 匂いは悪くない。


 甘いような、やわらかいような、日なたのような匂いがする。


 タマは少しだけかじった。


「……」


 やわらかい。

 だが、なんというか。

 味が遠い。


 匂いはある。

 悪くはない。

 でも、猫としての魂が踊らない。


「これは……人間の腹をふくらませるための雲だな」


 タマは勝手に納得して、パンから離れた。

 次に出会ったのは、犬だった。

 大きな柴犬の吾郎である。


 庭先につながれ、金属の皿から何かを食べていた。タマは塀の上からそれを見下ろした。


「何を食べている」

 吾郎は顔を上げた。


「ごはん!」

「見れば分かる。中身を聞いている」

「おいしいやつ!」

「説明が雑だな」


 皿の中には、タマのキャットフードに少し似た粒が入っていた。


 だが匂いが違う。


 強い。

 大きい。

 どこか犬っぽい。


「少しもらっても?」

「いいよ!」

 吾郎は明るく言った。


 タマは少し感心した。

 犬は単純だが、気前はいい。


 タマは塀から降り、皿に近づいて一粒だけ食べた。


「……」

 タマは黙った。



「どう? おいしい?」

 吾郎が尻尾を振る。


「うん」

「おいしいよね!」

「おまえにはな」

「え?」


「これは犬の飯だ」

「そうだよ!」

「猫の旅には、必要のない発見だった」


 タマはそっと皿から離れた。

 吾郎は不思議そうに首を傾げていた。


 さらに歩くと、公園に着いた。


 夕方の公園には、人間がいろいろなものを食べていた。


 ベンチでおにぎりを食べる人。

 紙の箱から細い揚げ物をつまむ人。

 甘い匂いのする菓子を食べる子ども。

 ペットボトルを飲む学生。


 タマは茂みの中からそれを見ていた。

 どれも人間たちはうまそうに食べている。


 笑いながら。

 話しながら。

 ときどき分け合いながら。

 タマは不思議だった。


「人間は、なぜあんなにいろいろ食べるのだ」


 隣の木にいたカラスが、かあ、と鳴いた。


「食えるものは何でも食う。それが都会の知恵だ」


「おまえは何を食べる」

「何でもだ」

「一番信用できない答えだな」

 カラスはくちばしを鳴らした。


「猫は贅沢だ」

「贅沢ではない。選んでいるだけだ」

「同じことだ」

 タマは反論しようとした。


 しかし、その前に腹が鳴った。

 ぐう、タマは黙った。


 朝のキャットフードを途中で残してきたことを、少し後悔し始めていた。


 旅は、腹が減る。

 しかも、外の飯は意外と難しい。


 ネズミは生々しい。

 包みの中身は汚い。

 魚は怒られる。

 パンは雲。

 犬の飯は犬。


 人間の飯はよく分からない。

 カラスの意見は広すぎる。

 結局、うまいものとは何なのだろう。

 タマは公園のベンチの下で丸くなった。


 少し寒い。

 少し心細い。


 いや、心細いわけではない。

 タマは旅の途中で休んでいるだけである。

 そういうことにした。


 そのとき、どこかから春子の声が聞こえた。


「タマちゃーん」

 タマは耳をぴくりと動かした。


「タマちゃーん、どこー?」

 春子の声は、少し心配そうだった。

 タマは顔を上げた。


 旅に出た猫は、簡単に帰ってはいけない。

 そう思った。

 思ったが。

 腹が減っていた。

 寒かった。


 それに、春子の声を聞いたら、なぜか皿の中の茶色い粒を思い出した。


 あの、いつもの匂い。

 いつもの音。

 いつもの味。

 タマはゆっくり立ち上がった。


「仕方ない」

 誰に言うでもなく、タマはつぶやいた。


「今日のところは、帰ってやるか」

 帰り道は、出るときより短く感じた。


 塀を越え、庭に降りると、春子がすぐに気づいた。


「タマちゃん!」

 春子は駆け寄ってきた。


「もう、どこ行ってたの。心配したでしょ」

 タマは澄ました顔で鳴いた。


「にゃあ」

「お腹すいた?」


 タマは少しだけ目をそらした。

 とてもすいていた。

 家の中に入ると、いつもの皿が置かれた。


 そこには、いつものキャットフードが入っていた。


 茶色い粒。

 見慣れた形。

 嗅ぎ慣れた匂い。

 タマは皿の前に座った。


 そして、一口食べた。

 かりっ。

 タマの目が少しだけ丸くなった。


「……うまい!」


 かりかり。

 かりかり。

 かりかり。

 やはり、うまい。


 知らない外の味より、ずっと落ち着く。

 魚ほど派手ではない。

 人間の揚げ物ほど強くない。


 ネズミほど野性ではない。

 パンほど遠くもない。

 犬の飯ほど犬でもない。


 これは、猫の飯だった。

 しかも、タマの飯だった。

 タマは皿をきれいに空にした。

 春子が嬉しそうに笑う。


「あら、今日はよく食べるのね」


 タマは毛づくろいをしながら、何事もなかったような顔をした。


「まあな」


 もちろん、春子には「にゃあ」としか聞こえなかった。


 その夜、タマはいつものクッションで丸くなった。外の世界には、いろいろな食べ物があった。


 だが、うまいものというのは、ただ珍しければいいわけではないらしい。


 見た目。

 匂い。

 安心。

 温度。


 誰が用意してくれたか。

 そういうものも、たぶん少し関係している。


 タマは目を閉じた。


 明日もまた、同じキャットフードが出るだろう。それを思うと、少しだけうんざりした。


 けれど。


「……まあ、食べてやらんこともない」

 タマは小さくあくびをした。


 旅に出た猫は、一つだけ賢くなった。


 いつもの味は、外から帰ってくると、少しだけごちそうになる。


 もっともタマは、そのことを春子には教えてやらなかった。


 猫には猫の、食通としての体面があるのだった。

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