Fiction & Reality 仕事をする(働く)ということと、生活する(生きる)ということの関係について。
「Fiction & Reality 仕事をする(働く)ということと、生活する(生きる)ということの関係について。」
三十歳で、まだふわふわしているけれど、最近定職についたこともあって、仕事に関することと生活に関することを整理しようと思った。
生活のために仕事をしている=生きるために働いている。そういうせりふはよく聞く。
それを実感したことはない。
僕が働くのは、単純に生活リズムのためで、仕事をしないと堕落するから。生活のためというより、生理的なものに近い。
もしかしたらそれは、物質的に豊かな時代だから許されているのかもしれないし、支えるべき妻子がいないからかもしれない。
たとえ給料の多くの割合を家族に渡していても、僕はそのために働いているとは思えない。
なぜなら働くことは当たり前のことではないから。
働けていて、養う家族がいるというのは偶然の産物で、意識的な営みではない。
働けたら家族にお金を共有することは、言ってはなんだけれど当たり前で、自分が稼いだのだから自分で使うというのは、かなり頭の悪い自己責任論者だ。
それは働けなくなったら死ななくてはいけないと自分で縛りをかけているようなものだ。
閑話休題。じゃあ生きるとはなんで、働くとはなんなのか。
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生きるとは、人生にとっては全然自明じゃない。いつ死んだってそれが天命だし、リアルでもなんでもないフィクションだ。
家族や、個性、自由といった概念を設定するその空想がなければ、そもそも生きることはできない。にも関わらず、家族や個性や自由は、フィクショナルなものだ。
家族は他人かもしれない。個性は存在していないし、自由は革命の創作物だ。
何が言いたいのかというと、存在としての人間を支えているのは、空想でありフィクションだということだ。
想像以上に空想が人間の組成の多くを占めている。存在していない思惟が。
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働くとは逆に、どこまでもリアルだ。
他者がいて、思惟だけではない「なま」のやりとりがある。
リアルすぎてそれが「本物」だと勘違いしてしまう。
でも実際リアリティは現実に存在しているだけで、何の指示も、何の意味も要求しない。
リアル(働くこと)の意味が要求されているとしたら、それは他者と共同しているという感覚に陥った時の、勘違いからだろう。
私たちにとってのリアルやリアリティは、他者とのやりとりによって成立している。
簡単に図式化すると、フィクションは自己に立脚し、リアリティは他者に根拠がある。
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具体的には、日常的な思惟が構成する世界観(バイアス的なもの)がないと、働くことは単に社会とつながるための媒介にしかならない。
そのリアリティの強度を高め、触り心地を良くするためには、フィクション(生きること)が欠かせない。
仕事は快楽でも苦役でもない。
もしそうだとしたら、どうやって私たちは生きて、働いているのか。
働くことの深みにはまると、まず他者と繋がる快感からくる全能感に支配される。
いいことをしたから悪いことをしていい(愚行権というらしい)とか、緊張をほぐすためのアルコールやゲームとか、そういうところに気持ちが流れる。
そこにはフィクションが介在していない。生きていない。ただ働いている(仕事をしている)だけ。物理的なだけ。
お金を稼ぐことが生きることなのではない。それは生活の物質的側面でしかない。私たちは考える。存在しない思考を生み出すことが、私たちが生きるということだ。
仕事が社会的であればあるほど、複雑なことをしているような気がしてくる。ただそのに、自分が介在していない。生きていないということがある。
逆なのではと思うかもしれない。
でも社会の中の自分と、自分自身が一致することは稀で、社会の中にいる自分が好きな人は、おそらくフィクションを持っていないのだろう。
フィクションが先でリアリティが後。
おままごとが先で仕様書が後。
私が先であなたが後。
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僕にとって抵抗があるのは、生きることが物質的なことだという予断だ。
食べる、寝る、親、妻、子のために仕事をやっているのだとしたら、もちろんそれはリアルな話だ。
でも自分は? 自分はフィクショナルな存在でないのか? 友達とやりとりする時まるで風のように去っていく時間が私ではないのか?
僕が言いたいのは、誰かのために生きているわけではないということだ。ここでの「誰か」とは自分も含める。ただ生きている。
もちろん現実にお金のやりとりはある。でもそれは全て人間の作った「自然」への抵抗を極めて精緻におままごとにしただけのことで「約束」や「ルール」と呼ばれる人間の創作物だ。
僕は、そのリアルが全てだと言いたくない。
思ったこと、感じたこと、苦楽を言葉にしたい。
正直全てが泡沫の、何の因果もない解けたひものような人生ではあるけれど、僕が「働くことは生活リズムのため」という意見で示したいことは、要はなんだっていいはずということだ。
働くこと(リアリティ)に力点を置く人、生きること(フィクション)に力点を置く人。そしてそれらをミックスしている人。
単に僕が言いたかったのは「お金を稼ぐため」に働いているというのは、フィクションが介在していないということ。
子どもを養う。子ども愛しているからとしたら、それは、一つのフィクションなのだ。例えば「愛」は現実には存在していない、空想の産物なのだ。
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生きるために働くというより、働くために生きているような気もする。
働くということがもつ中毒性を、生きるという毒で中和する。
社会と繋がっていることからくる快楽に疑いを向ける。
自分から湧き出てくるイメージや意識を守る。その結果、働くという行動に移る。
生きることに労働は必須とは言えない。ただ、働いている方がたくさんのフィクションの材料を集められる。
そのフィクションの材料が、翻って働くことを支える。
現実の課題が、解決にもがく中で、ある種の概念を育て上げる。
自由を強め、幸福を増幅させる。
ややもすると夜気にあてられて酔いの中で自分を見失ってしまう(残業後にしこたまビールを飲む)僕らは、気がつくとどうすれば仕事から逃げられるか考えている。
仕事が楽しいとか、やりがいがどうとか、そういう話ではなく、賃労働の疎外に対処するには、フィクションを保有しなくてはならない。
決してそれは「社会とつながる」ことで充足する承認欲求の自己満足なんかではありえない。
フィクションを保有する?
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会社行くのやだな。
でも行ったら楽しいんだよな。
朝があんなに辛いのはどうしてなんだろ。
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私が生きる時、その私をどう捉えるかは人による気がします。
僕は、フィクションを作る時、創作に限らずそれを言語のフェーズに持っていきます。
フィクションは観念ではなく、実体を持っている。存在ではないのに存在しています。私たちに影響する。言語を媒介にして「私たちに私たちを」強いることになります。
逆にリアルは、存在しているだけで、本質的には何の意味も持たないし、指示もしません。私たちが勝手にそれに名前をつけているだけです。
自分の後ろにどんなフィクションが走っているかによって、リアル(他者)の意味づけは自ずから変化します。
何でこの文章を書いたのかというと、たぶんなのですけれど、社会(他者)に依存することがあまり良くないことだと感じたからなのかもしれません。
定職について何にも増して思ったのは、僕の自分の物語世界を守る、侵食されないようにすることです。
フィクションは虚構と訳されますが、存在しないわけではないですし、私たちの精神の大枠でもあります。
私が住む家と言っても全く差し支えありません。
大きさや頑丈さは人によって違うかもしれませんが、「家の外」のことに関わるのは、仕事をする立場としてです。
プロ意識とか生活のためとか社会とつながるためとか、そういうのは借り物のフィクションです。
僕が仕事をする理由は、フィクションを強固にする材料を探しにいく「どうぶつの森」的な世界観です。
ひねくれているのかもしれません。もっと素直に、会社に、献身すべきなのかも。
でも、僕にとってはフィクションが重要なのです。なぜなら、それがなければ他者のリアルが幅をきかせて、あっという間に僕の「生きること」という絵の筆を持つ人は、僕ではなくなってしまうから。
生きるというのは、ただ生きることです。その絵の良し悪しをそもそも論じることはできませんし、絵に価値があるわけでもない。
ただ生きることは楽しい。絵を描く(小説を書く=言葉で表現する)のが楽しいのと一緒です。
もし楽しくないのなら、書きつける筆やペンが自分のものでないか、書いている人が違うかのどちらかでしょう。
フィクションはリアリティに優先します。
描く(書く)ことは単なる媒介ではありません。一つの有為な営みであり、働くことよりよっぽど生きることを定義します。
フィクションが楽しいのは、それがリアリティの解像度を上げて、実感として肉体に意味を刻むからです。
フィクションがなければ、リアルは単なる消耗でしかないはずです。
たとえそれが仕事場の裏で走る自身の妄想であったとしても、そういうものがなければ私たちは本来仕事を続けることなどできないのですから。
一方で、仕事が、私たちのフィクションの構成を変容させ、より深いメタファーをもたらすことがあるかもしれません。
だとするとそれが僕が仕事をする理由なのかもしれません。フィクションを耕す。




