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詩集

嘆きを飲み込み恵みを与えるもの

作者: ロースト

 雨


雨にうたれているその姿は儚く、切なげで、ただ悲しみを語る。

私よりも僅かに年上の彼は土砂降りの中、顔を上方に向けている。こちらからでは表情は窺えない。

傘を持ち、建物の影から出る。彼の前にまわって顔をみる。

彼は男性にしては背が小さい方だが、私との身長差もあり、真下から見上げる格好になる。

そんな近距離で見ていても彼の視線は外されない。少し苦戦しながら彼の顔を見ることができたが私には彼の表情がわからない。

空を映すその瞳は眼の端に涙がたまっており、だが悲しみの色はない。意思を持たず、虚ろに、むなしく空へと視線を投げている。泣いた痕も感じられず、眼も鼻も赤くはない。

ならば嬉し涙かとも思えるが、それはない。彼の心は悲しみでその大半を占められているだろう。

口元は笑みの形に歪められている。だが、それは微笑とはいいがたい。なんともいいがたい表情である。にやけたようでも嘲笑でもない。ましてや幸せの笑みでもない。

そう、強引に表現するならば、無理やり笑った笑顔が少し引きつって、そのまま張り付けたもの。そんなぎこちない笑みだ。その表現が一番近い。

狂っているのならまだしも、つい先ほど最愛の人を失った後で笑ってられるはずもないのだ。

いや、狂っているのかもしれない。

恍惚としたような、麻薬中毒か何かのような、もしくは心からの笑顔。満面の笑みこそないが、彼は止まっている。

まるで、彼だけ時間の流れが違えてしまったかのように、時間が経過していないかのように、まったくと言ってよいほど動かなかった。

本当に呼吸しているのかと疑うほど静かで停止してしまっている。たぶん、私が何かをしたとしても彼は固まったまま、まばたきさえもしないだろう。お腹が空いても、のどが渇いても、何の反応も見せず、何の感情も示さないだろう。

人間的機能など、何処かに忘れてきてしまったかのようだ。本当に機能をしているのか疑いたくなるほどだ。

誰も、何も、彼を動かすことは出来ない。

凍ってしまった彼を溶かすことのできた唯一の人は、もういないから。もう、死んでしまったのだから。いや、順序的には彼女が死んだからこそ、彼はこうなってしまったのだ。

なら、他のものには如何する事も出来ないのが道理だろう。ただ、彼が自力で立ち直るのを待つ以外何もない。彼は今まで動いていたのを感じさせないほど、『死んで』いる。


彼は明るいのが取り柄で、前向きで、うるさいくらいに元気で、しゃべるのが好きで、どうでもいい事にこだわって、根っからの体育会系で、動き回るのが大好きで、怒ったり泣いたりと、表情が忙しいくらいコロコロ変わるけど、いっつも最後には笑顔で迎えてくれる彼が、感情がいつでも露出していたの子どものような彼が、とても人間らしい人間である彼が、別人のように静かに、笑顔でない笑顔を張り付かせたまま、微動だしない。常の彼を知る私からは異常としか言いようがない。

いや、彼を知らない者もこの感情の欠落した、破滅的表情には何かを感じ取るに違いない。それほどに異常で異質で深刻だった。


このあたりには今、私と彼しかいない。理由は簡単だ。

ここはつい数日前に地震で廃ビルが倒壊した、その現場だから。人が、死んだ現場であるから。もう救助隊などは引き下がり、立ち入り禁止も解かれ、一応は一般人が入れるようになったが普通はこんなところには来ない。第一、一般開放されてはいるが、まだ警戒が必要な区域である。

ここに来るまでにも、何箇所か同じような場所があった。しかも小さな町の端にあたる。こんな死滅した場を好き好んでいく奴など、いないに等しい。

でも、彼にとってここはとても大切な場所。そして、それは私にとってもおなじ、とても大切な、悲しい場所。


私の親友でもあって、家族でもあった、彼の恋人の死んだ場所。義姉の死んだ所。

彼にはもう、何も聞こえない。何もかも。彼にはもう空以外、何も見えない。何もかも。彼にはもう、何も感じられない。

“思う”という行為がない。“考える”という行為がない。すべてを失ってしまった。

心臓が機能停止していなくとも、心が停止している。

私には彼がわからない。もう、何もわからなくなってしまった。彼がどんな想いで、どんな考えで、何をしたいのか、何もかもがわからない。私はもう彼を見失ってしまった。

彼も義姉を見失って、失ってしまった。彼も、私も、失ってしまった。

全て、楽しい時間も、希望溢れる未来も、前を向く力も、純粋な想いも、大事な人も、向かうべき目標も、歩くべき道も、何もかも。


何も感じず、何も思わず、何もせず、だからこそ何もできない。そんな私と彼。私には何をどうすることもできない。尊敬する姉、大好きな姉、そして羨ましかった、姉。

私に彼を慰めることはできない。そんな資格ない。

彼は私を拒絶してる。殻に籠っているわけじゃないのに、どこか遠くて、全てを拒絶している。特に私を。もう私の声は彼に響かない。私の声はもう、彼に、届かない。

私には彼を支えられない。私は、彼に嫌われた。近寄ることさえ、許されない。

だから、私は彼から離れる。彼のそばにいることは、私にはできない。

彼は、お兄ちゃんは、私の想いを知っているから。

鈍いとか言われる彼だけど、本当は、すべてを知っていた彼だから。


私、卑怯だね。我が身かわいさに彼を慰めることもしないで、お姉ちゃんを裏切りたくないとか、そんな上っ面だけの言葉で飾って、それで、彼に嫌われて、心が痛いから、これ以上傷つきたくないから、彼から離れて、そんな、何もしないのに、お姉ちゃんのことは羨ましがって、羨ましがるだけで自分では何もしない。

お姉ちゃんがいないと何もできなくて、でもお姉ちゃんがいるから何もできない。結局私は何もできない。

いるとか、いないとか、関係なく何もできないだけなのに人のせいにして。ぜんぶをお姉ちゃんに押し付ける。

私にはお姉ちゃんがいないと駄目なのに。いれば羨ましがって、妬ましく思って。

いないと寂しくって、でも、どこか喜んでいて…。


私はなんて、―――なんて汚く、卑怯で、傲慢なんだろう。

私の想いを知っているのに、何も言わずにいてくれたおねえちゃんが好き。彼に愛されるお姉ちゃんが羨ましい。彼に愛されるお姉ちゃんが大好き。彼に愛されるお姉ちゃんを尊敬してる。あの頃の時間が好きで、3人でいることが大好きで。

でも、―――彼に愛されるお姉ちゃんが憎い。妬ましい。だから、戻ってきて。私には彼を慰められない。抱きしめられない。受けとめられない。お願い。もう一度、会いたいよ。


三人で、また、一緒にいたいよ。

悲しくても、辛くても、それでもいいから。

お願いだから、彼を悲しませないで。これ以上彼を傷つけないで。お願い。

それで、せめてさよならを言わせて。じゃないと、引きずっちゃう。

彼と同じく、彼と同じくらいに、引きずっちゃうよ、お姉ちゃん……


彼とお姉ちゃんが結婚して、私は彼の妹のままでいたかった。それが一番の幸せだった。

二人が幸せならそれでよかった。どうせ、私は彼と一緒にはなれないんだから。だから、あなたには大好きなお姉ちゃんでいて欲しかった。

なのに、これからって時に、三人の幸せがこれから始まるはずだったのに。彼の、お姉ちゃんの、新しい家族を見たかったのに。

その子を私が祝って、二人の幸せを見て、二人の笑顔を見ながら生きていたかったのに。

楽しみに、してた。彼に似た子か、お姉ちゃんに似た子か、どっちかな。どっちでもかわいいだろうな。懐いてもらえるといいな。とか、いろいろ考えてて。新しい命が生まれてくるのを期待してた。


戻ってきて。

嘘なんでしょ、こんなの。

夢なんでしょう、こんなの。

ありえないよ。信じたくないよ。否定してくれるよね。

私と彼を、もしくは私を、皆でからかってるだけなんだよね。十分反省した。お姉ちゃんが必要なのは十分理解した。だから、帰ってきてよ。

いるだけでいいから。帰ってきて、彼を慰めて、また三人で、一緒にいよう。

三人で、仲良く。あなたは私の義理の姉で、親友で。彼は私の兄で、好きな人で。二人は私の大好きな人たちであって、それで、それで…


私はそれだけでよかったのに。

高望みしてたけど、本当はそれが一番よかった。

失ってから気づく。とか、後悔先に立たず。とかよくいうけど、本当だね。もう一度、声を聞きたい。彼に聞かせてあげて、お姉ちゃんが生きるってことを。

私には何もできない。むしのいいことだとはわかってるけど、戻ってきてよ、お姉ちゃん。私の大好きなお姉ちゃん。


戻りたい、あの頃に。

そしてやり直そう。はじめから。

三人でいたい。だから、だから、帰ってきて―――


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