1話 小早川秀秋、死す
慶長七年(一六〇二年) ・秋。関ヶ原の戦いがまだ記憶に新しい頃、備前岡山は新しい領主によって治められていた。その名は小早川中納言秀秋。人呼んで金吾中納言である。
天下人であった太閤豊臣秀吉の養子である彼は、関ヶ原にて大功を挙げ、若干二十一歳にして備前・備中・美作に跨る五十五万石の大大名となっていた。
そして、またあることでもその名は知られていた。関ヶ原において、西軍から東軍に寝返ったという天下一の裏切り者として。
されど、秀秋こと金吾はその悪名を全く気に留めていなかった。それは彼の気質によるもの。幼少の頃から御曹司として育てられてきた彼に、正面から物申せる者などいなかったからだ。
……いや、一人だけいた。この日も金吾はその唯一の人物、家老平岡石見守からその悪名に関して諫言を受けていた。岡山城の庭先の射場。片肌脱ぎで弓を射ている金吾に、横で控える平岡が真剣な面持ちで進言をしている。
「殿、申したきことがございます」
「ならん」
金吾は一瞥もせず禁じた。……が、平岡は構わず続ける。
「岡山に入封早々、外堀工事に城の改築など、民のみならず武士まで動員した過酷な普請」
それを尻目に、金吾、弓を射る。
「更には昨年の稲葉殿の蟄居に、杉原殿の上意討ち」
金吾、弓を射る。
「そして関ヶ原……。殿の悪名は既に日ノ本中の百姓にまで知るところ」
金吾、弓を射る。
「このままでは殿もとい、小早川家は天下の笑いものになります。どうか、お振る舞いを見直して下さいませ」
金吾、弓を……下ろし、平岡を睨みつけた。
「全く、相変わらず歯に衣着せず物言いだ。しつこいぞ、石見。お前の小言は聞き飽きたと言っただろう」
そして、彼は腰に備えていた瓢箪の酒を豪快に飲むと、再び射始めた。
「聞き飽きても聞いてもらわなければなりませぬ。それに酒も控えて下され。これらの振る舞いのせいで、乱心されたなどという噂も立てられるのですぞ」
「例えば?」
「暇潰しに罪のない百姓を嬲り殺したとか、或いはその日の機嫌で小姓を手討ちにしたとか……」
「なら、妊婦の腹を割いたとも付け加えてやれ」
「殿!」
平岡は呆れを混ぜながら叱咤した。そして理解も示す。
「世の中は殿が乱心なされたなどと噂を立てておりますが、某は殿の俊英さを存じております。私の度重なる諫言に対し、手討ちにせず聞き流して済ませているのがその証拠。あの普請は必要でしたし、稲葉、杉原両名の件も納得しております。……関ヶ原のことも」
その証とばかりに、彼は主君が射っている的を見た。無数の矢が見事中心を捉えている的を。主君の心は乱れてなどいない。金吾は間違いなく揺るがぬ意志をもっている。
「なら、何故諫言する?」
「急ぎ過ぎなのです。外堀工事を僅か二十日で済ませたのも、家臣たちへの施策も。もう少し緩やかに行えませぬか?」
「ならぬ。もういい、下がれ」
「いえ、下がりませぬ」
「下がれ!」
「急がれている理由をお聞かせ願いたい!」
いつもなら早々に身を引く平岡だったが、今回は違った。主君への不信感? いや、主君の真意に感づいているのか。この忠臣がここまで食い下がるのは初めてのこと。応じざるを得なくなった金吾は、平岡に弓を預けると着物を着直す。
「石見、お前は乱世は終わったと思っているか?」
「乱世……ですか?」
「先の戦で、天下は豊臣から徳川へと移った。それはいい。俺が望んだことだ。されど、戦の火種は残っていよう。江戸と大坂という大きな火種がな」
「徳川と豊臣が争うと? まさか……」
「内府(徳川家康)は事を起こしたくないはずだ。問題は淀殿だよ。秀頼様の母君ではあるが、あれは豊臣の女ではない。織田の女だ。徳川に天下を奪われるのを大人しく受け入れられる気質ではない」
「つまり、殿はその戦に備えるために急がれていると」
「違う」
金吾は強く否定し……、
「その戦を起こさぬためだ」
丁寧に訂正した。
平岡は金吾の数少ない忠臣である。されど、この主君の全てを理解しているわけではなかった。それは金吾が自分勝手な御曹司だからではない。俊英故に全て自分の中で完結させてしまうからだ。凡庸な平岡には、その心中を察することが出来ない。だから、せめてこう問うた。
「殿はどちらのお味方に?」
「決まっておろう。下らんことを訊くな」
金吾には真意がある。だが、彼はそれを決して汲み取らせようとはしなかった。
何故なら……。
「……尤も、間に合わんだろうがな」
間に合わない。そう、事を急いで進めているが、結局間に合わないのだ。だから、彼は徒労に終わるであろうそれを他人に明かす気にはなれなかった。それでも一人で事を進めていたのは、それを託された義理からだろう。
この夜も岡山城天守の最上階で、金吾は一人酒を啜っていた。窓の外の秋月を肴にして、盃に口をつける。
「全く、無茶な話だ。いきなりあんな頼み聞けるものか……」
更に愚痴を零した。これが彼の日課である。ただ、自分本位な彼がそこまで他人の頼みに応えているのは、実に珍しいこと。それは偏に恩人からの願いだったからだ。しかも、最後の願い。
それは……、
「秀頼を頼む……か。面倒な遺言を遺してくれたもんだ、親父様は……」
天下人、太閤秀吉の直々の遺言である。戦国の世を統一した傑物からその息子を託されたとなれば、無視するわけにもいかなかった。
金吾は養父に感謝をしていた。彼のお陰で御曹司として良い人生を歩めたと思っていた。だから恩返しぐらいはしてもいいかと思っていた。
しかし……間に合わないのだ。
「ゴホッ、ゴホッ……」
何故なら、その良い人生の終わりが近づいていたから。
咳のために口を塞いだ掌には、吐いたばかりの赤い鮮血……。酒毒である。幼い頃から酒を愛飲していた報いだ。周りの諌めも聞かず、身体が弱ってきた今現在も飲み続けている有様。それでも後悔などはしていない。彼の信条は望むがままの人生。人が重きにすべきは、命の長さではなく濃さであると考えていたからだ。だから、まだ九歳の義弟秀頼を託されたのは、彼にとっても予定外だった。せめて、秀頼が成人するまでは生きていたかったが、どうやらそうもいかないよう。
「まぁ、ここまで義理は果たしたんだし、いいか」
金吾はそう一笑すると、また盃を啜った。
……。
……すると、
「ん?」
彼の目の前に、何やら白い人影が現れた。虚ろで熱も感じさせない、この世のものでないもの。
そして、その人影はこう挨拶した。
「金吾殿、お迎えに上がりましたぞ」
「刑部!? 大谷刑部か!?」
大谷刑部は関ヶ原の戦いで西軍に属していた武将である。彼は金吾の裏切りを早いうちに察知し、寡兵ながらもその大軍相手に奮戦した名将だった。結局敗れ、自害していたのだが、どうやら黄泉から迎えに来てくれたらしい。
その登場に金吾は堪らず立ち上がった。満面の笑顔で。
「刑部、貴様には悪いことをした。その上、黄泉への道案内までしてくれるのは感謝しかない。だが、大人しく付いていくのもつまらん」
そう言うと、彼は手にしていた愛刀、波游兼光を抜いた。
「貴様も俺が憎かろう。折角の機会だ。存分に斬り合おうぞ!」
そして、金吾はその人ならざる者に迷わず斬り掛かった! 恐れもなく、引け目もなく、躊躇もなく、また殺す気で。
……が、手応えがない!? 死霊だからか? これでは手が出せない。
「ぬぅ!? 卑怯な!」
「貴殿だけには言われる筋合はない」
困惑する金吾に刑部が冷静に突っ込むと、その白い虚ろな身体を大きくさせていく。それはまるで朝霧のようだった。金吾はそれに斬り掛かるも、やはり手応えはなし。
「これは貴殿の因果によるもの。どう足掻こうと、貴殿の死は免れませぬぞ」
「地獄とて望むところよ!」
「ふふふ……」
それでも金吾は斬り続けた。それを止めたら負けを認めることになるから。金吾は屈しない。金吾は省みない。金吾は恐れない。
しかし、現実もまた金吾を許さない。白い霧が彼を包み込んでいく。
「違う、違うぞ、金吾殿。そなたが行く先は地獄にあらず」
それは裏切り者に対する西軍十万の怨念か。
そして、金吾は霧に包まれると溺れるような感覚に陥った。扇いでも扇いでも、散るどころか身体に絡みついてくる。逃げ場なし。抗う術もなし。やがて意識も遠のいていった。
「より恐ろしいところよ」
その刑部の宣告が、金吾が耳にしたこの世の最後の言葉だった。
こうして、彼は短い生涯を閉じるのである。
慶長七年十月十八日。
天下一の裏切り者、小早川中納言秀秋、岡山城にて没する。享年二十一。