ビンタ
春といえど、日が暮れればまだ指先が悴むような気温だ。ルーナは手袋をしているものの、白い息を吐いて耳の縁を赤くしている。
「そろそろ帰りませんか」
「えっ嫌よ。もっと居たいわ」
「風邪を引きますよ」
「じゃあホットワインを飲みましょう。きっと体が温まるわ」
なぜか頑なに帰りたがらないルーナに連れ添って、レオンハルトはホットワインを二つ買った。また主導権を握られている。
「熱いから気をつけて下さい」
「ありがとう」
ふぅふぅとホットワインを冷ましているルーナの髪がカップの中のホットワインにつきそうで、はらはらする。
「……なにかしら?」
「……あ、ワインに髪が入りそうで……」
レオンハルトに視線を不思議に思ったのだろうルーナが首を傾げる。
「あら、どの髪かしら……」
ルーナが手で髪を払おうとするも、見当が外れ続けていてやきもきしてしまう。
「あぁ、違いますよ。こっちです」
ついうっかり、手を伸ばしてルーナの髪を払ってしまった。その拍子に指先がルーナの頬に触れ、びくりとレオンハルトは肩を振るわせた。
「あっ、すみません……」
「? どうして謝るの。髪を払ってくれてありがとう」
それはもちろん、勝手に顔に触れてしまったからなのだが……。
動揺しているのはレオンハルトだけで、ルーナは何も気にしていないようだった。……また僕だけが意識しているみたいじゃないか。
「……ルーナ。君の頬、冷たいですよ。本当にそろそろ帰らないと風邪を引いて……」
「おい、レオンハルトじゃないか?」
急に後ろから名を呼ばれて、レオンハルトはは反射的に振り返った。
「リチャード?」
「久しぶりじゃないか。そういえば南部に異動したんだったな?」
「あぁ」
振り返った先にいたのはリチャード・モンテギュロー。レオンハルトの王都軍の同期で、子爵家の次男。貴族だ。
旧知の仲であるリチャードが王都から遠く離れたここ、ローレイヒに突然現れたことに内心驚きながら、リチャードが差し出した手を取り握手をした。
「どうしてここに?」
リチャードは王都の軍部にいるはずだった。南部にいるはずがないのだ。訝しむレオンハルトに、リチャードはハハッとからりとした笑いを寄越した。
「応援で呼ばれたんだ。花祭りも年々観光客が増えているからな」
「そうだったのか」
「ったく……俺達が仕事だというのに南部属のお前はちゃっかりデートか?」
「……と言いつつ、お前も遊んでるだろうが」
リチャードの手元には酒があった。ホットワインのようにアルコールを飛ばしたものではなく、度数の高いウィスキーが。
「まぁまぁ。さっき任務が終わったとこさ。それよりも、」
リチャードが好奇心を隠しもせずにレオンハルトの隣を見る。嫌な予感がした。
「そちらの夫人を紹介してくれよ」
リチャードはニタリと意地の悪い笑みを浮かべる。紹介してくれよ、なんて言っているが、この男はなにもかも知っているのだ。
元々レオンハルトはリチャードのことが好きではなかった。理由はいくつもあるが、端的に言えばリチャードは下品な男だった。
リチャードは王都の人間だ。"魔女"のことも、レオンハルトが"誰"と結婚したのかも全部知っている。リチャードがルーナに失礼な振る舞いをすることは容易に想像できた。
紹介だけはして、リチャードが余計なことを言って騒ぎを起こす前にさっさと退散するのが吉だろう。
「妻のルーナだ」
「初めまして。ルーナ・アイレンブルクですわ」
好奇心と嘲笑、それから蔑みを隠すこともしないリチャードに対してルーナは毅然と向き合い、ドレスを持ち上げて膝を落とす。
ルーナは見本のような綺麗なカーテシーを披露して、悠然と微笑んだ。その姿は自信と気品に満ち溢れていて、思わず見惚れてしまうほどだ。どこかの国の王族だと言われても不自然ではない。
先ほどまでどこか見下すような視線をルーナにぶつけていたリチャードが、ほうとため息をついた。
「初めまして、レディー。モンテギュロー家のリチャードです。レオンハルト、君の奥方がこんなに美しい方だったなんてな。噂なんてアテにするもんじゃないな、まったく」
含み笑い持たせたリチャードの言葉に、レオンハルトは眉を寄せる。
「レディー、レオンハルトは顔だけが取り柄の何もない次男坊ですが、どうか大事にしてやってください」
「リチャード、ルーナに絡むな」
リチャードが矛先を向けたのがルーナではなくレオンハルトだったことに、リチャードは幾分か安心した。
しかし余計なことを言おうとしているのは明白だったので、リチャードの腕を掴み制止させようとしたが、リチャードはその腕を振り払った。
「優秀な兄に父親からの寵愛も関心も奪われて、母親から厄介払いされるみたいに軍学校に入れられたもんなぁ」
リチャードは至極嬉しそうにレオンハルトを見た。
レオンハルトは一瞬固まって、小さくはぁとため息をこぼす。呆れたのだ。またそれか、と。
リチャードは人前でレオンハルトの出自を揶揄することが趣味だった。
今日もいつものように、ルーナにレオンハルトの生い立ちを知らせて、レオンハルトに恥を掻かせようとしているのだろう。リチャードは昔からそういう程度の低い男だった。
成績ではレオンハルトに勝てないから、レオンハルト自身の価値を下げようとするのだ。
「まぁ、妾腹なのに婚外子にされなかっただけマシか。男爵位しか継がせてもらえない妾腹の次男が、やっと活躍して国の英雄になったかと思ったら魔女と結婚とは。お前の父上もさぞがっかりされただろうなぁ」
「……っお前……!」
"魔女"。人前でその言葉を使われたことにカッと腹の底が熱くなる。ましてやルーナ本人が目の前にいるというのに!
その瞬間、パンッ! と乾いた音が響いて、耳をつんざく。
ここで区切る
――――――――
次話
レオンハルトは目の前の光景にただ驚くばかりだった。
「あなた、さっきからうるさくてよ」
ルーナが、リチャードを平手打ちしたのだ。
「な……っ!」
「あなた、うるさい上に見苦しいわ。レオンが見目麗しい上にあなたよりも優秀だから、嫉妬してらっしゃるのね?」
「はぁ?! お前、呪われた魔女の分際で! よくも俺に触れたな!」
「あなたのような人間がどれだけ必死でこき下ろそうとしてもレオンの価値は下がらないわよ」
ルーナはハッキリとした口調で言い切った。氷のように冷たい視線と、蔑んだような目でリチャードを刺しながら。
レオンハルトは冷たく美しいルーナの言葉を上手く飲み込むことができなくて、ただただ唖然として様子を見ていた。
しかし次の瞬間、それまでレオンハルトと同じように驚き固まっていたリチャードが激怒し喚き始めた。
「この魔女がっ……! この国の呪いそのもののくせして偉そうに俺に講釈ぶるんじゃねぇ!」
「おいやめろリチャー……」
「お前が王女様に手を出す前に俺がてめぇを殺してこの国の英雄になってやるよ! そうしたらお前もさっさとこんなクソみてぇな茶番から抜け出せるもんなぁ、レオンハルト!」
リチャードが手を振り上げて、ルーナを殴ろうとした。レオンハルトは頭にカッと血が上るのを感じて、気が付いたら自分がリチャードに殴りかかっていた。
リチャードが地面に倒れ込んで、きゃあと悲鳴が上がる。いつの間にか人だかりができていて、レオンハルト達を取り囲んでいた。すぐに起き上がったリチャードが勢いよくレオンハルトの胸倉を掴む。ルーナが慌ててリチャードの腕を掴んで叫んだ。
「やめて! この手をいますぐ離してよ! レオンを殴らないで!」
「邪魔なんだよ、どけ!」
「呪うわよ! レオンを殴ったら、王女様に向ける呪いをあなたに向けるわ!」
「……っ!」
リチャードが怯んで、その隙にレオンハルトはリチャードの腕を振り払った。
「……このまま騒いでいれば、憲兵を呼ばれるぞ。お前、仮にも出向中じゃないのか」
「チッ……次会ったら容赦しねぇからな」
捨て台詞を吐いてリチャードが背中を向ける。周囲にいる人々は「呪い……?」「魔女って……」とひそひそとレオンハルトとルーナを見て口々に噂している。
「ルーナ、帰りましょう」
「……えぇ」
あんなに帰りたがらなかったルーナが素直に頷いた。来た時と同様に、ルーナをエスコートして馬車へ向かう。
すっかり暗くなった空。下がった気温。それから、意気消沈したルーナ。
それらを乗せて、馬車は屋敷へ走り出した。
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