裏切り
「……ナディア様…………」
やっと出た声は掠れていて、雨音にかき消されてしまった。
ナディアは微笑みながら、傘を差され優雅に歩いてこちらへやってくる。
「ナディア王女……?」
「嘘だろ……なんで王女様がわざわざ南部なんか……」
「本物か……?」
口々に兵士が噂する。レオンハルトも同じ気持ちだった。なぜナディアがここにいるのか。
ナディアはやがてレオンハルトの目の前まで来ると足を止め、ゆっくりとレオンハルトを見上げた。
「レオ、久しぶりですね」
鈴が転がるような美しい声に名前を呼ばれた瞬間、ハッと我に帰り、レオンハルトはその場で跪いた。
「あぁ、いいのよレオ。立ってちょうだい」
「しかし……」
「私たちの仲じゃない。堅苦しい礼儀や作法は今はいいわ。風邪を引いてしまうから、あなたも早く中へ」
ナディアと言葉を交わすレオンハルトを見て、周りの誰もが驚いている。
居心地の悪い思いをしながら、ナディア王女一行を兵舎の中へと案内した。
――――――
聞いてみたところ、クラウス団長もナディア王女が視察団といっしょに来ることは聞かされていなかったようだ。
まさか王女が来るだなんて誰も思っていなかったから、それ用のもてなしの用意もできていない。
今頃食堂はてんやわんやとしているだろうし、兵士たちは必死に兵舎内の掃除に励んでいる。
そのナディアは客室にて衣服を整えているところだ。
「……何が目的なのかさっぱり分からん」
クラウス団長は困り果てたように顎を摩っていたが、レオンハルトにはナディアの目的が分かる気がした。
――きっと僕だ。
レオンハルトの仕事が上手くいっているかを見にきたのだ。それ以外に考えようがない。
ここ最近、ナディアへ手紙を送る頻度が減っている自覚はあった。ナディアからの手紙への返信も、今までよりは疎かになっている。
怪しんでいるのかもしれない。ナディア王女が直々にレオンハルトに会いにきたと言うことは、レオンハルトがナディアを裏切ったと思っているのかも――。
「……王女様と話がしたいのですが」
「あぁ、そういえばお前は王女の騎士をやっていたんだっけか。もしかしてお前に会いたかったのかもなぁ。俺も王女様なんてどう接したら分からん。お前が相手をしてくれると俺も助かる」
「はい。ありがとうございます」
視察団をクラウスが、王女をレオンハルトが相手をすると取り決めてから、レオンハルトはクラウスの執務室を出た。
日頃ほとんど使われていない客間へ向かって、深呼吸をしてから扉をノックする。
「ナディア王女様、僕です。レオンハルトです」
扉がキィと開いて、笑顔のナディアが中から現れた。
「レオ! 会いたかったわ……! 入ってちょうだい」
「失礼します」
部屋の中、テーブルの上には紅茶となけなしの菓子が置いてあった。
「すみません……ろくなおもてなしもできず」
「そんなことありませんよ。とっても美味しい焼き菓子と紅茶を頂けて感激しているの。あとでシェフによろしく伝えておいてね」
「喜ぶと思います」
「それにしても久しぶりね。元気にしていた? 少し背が伸びたんじゃないかしら?」
普段、ルーナと話す時よりも幾分か低い目線に、翡翠の瞳がある。
ナディア王女は変わらず愛らしく、キラキラと輝いて見えるほど透明感があって美しい。
以前までは、そんなナディア王女と目を合わせるたびにドキドキしていたものだが……今はまるきり平気だ。
あぁ、ナディア王女への恋は、完全に死んでいたのだ。
それが分かって、レオンハルトはホッとした。ルーナを好きだと言いながら、ナディア王女を見てまた胸が躍ってしまったらどうしようと思っていたから。
けれど実際にはそんなことはなかった。ナディア王女を見ても心臓がバクバク壊れそうになったり、好きだという気持ちで溢れたりしない。落ち着いた気持ちで話すことができる。
「……そうかもしれません。ナディア様はお変わりありませんか?」
「えぇ、私の方も変わりなく。……と言いたいところだけど、一つ困っているの」
「……? 何かありましたか?」
「えぇ。……あなたがいないのが、こんなに寂しいことだなんて思わなかった」
レオンハルトは驚きに目を瞠った。王女は今、どういうつもりでそれを言ったのだろうか……?
「寂しいわ。戦争の時は会いたくても仕方ないと思って、国の為に闘ってくれているあなたの無事を毎日祈っていたんだけれど、今のあなたは……」
言葉を失っているレオンハルトを、上目遣いでナディアが見つめた。
「他の女性と同じ屋敷に住んで暮らしているのだと思うと……寂しくて仕方ないわ」
「ナディア様……」
「分かっているのよ。レオが私の為に魔女と結婚したということ。レオと魔女の間には何もなくて、危険がなくなったら私の元に帰ってきてくれるということも……。だけど、寂しいの。これって、嫉妬と言うのかしら?」
嘘だ……。そんな、だって……その言い草は、まるでナディア様が僕のことを恋慕のような感情で好いているみたいじゃないか。
ありえない。ナディアからレオンハルトへの感情は、そういった色を含んでいないはずなのに。
だからこそ、幼い頃から抱いていた恋情を、押し殺したまま諦めて、"魔女"と結婚することだってできたのに……。
固まってしまったレオンハルトの胸にナディアが飛び込んできた。
ナディアの纒う花の香りがレオンハルトの鼻腔をくすぐって、濃厚な匂いに頭がクラクラする。
「ナディア様……」
これはよくない。ダメだ。
離れてほしい。そう言いたくて、ナディアの肩に手を触れた。
しかしナディアは何を思ったか、顔を上げるとレオンハルトの頬に手を添え、一瞬のうちに顔を近づけた。
次の瞬間、柔らかくて、しっとりした唇の感触がした。
驚きでレオンハルトは固まったまま、ぴくりとも動けなかった。
後ろでドサッ、と何かが床に落ちる音がして、ようやく体を動かすことができた。
――ドサッ……?
慌ててレオンハルトは後ろを振り向いた。
閉めてきたはずの、客室の扉がわずかに開いていた。その隙間から、誰かが中を見ていた。
その誰かとは、真っ青な顔をしたルーナだった。




