召し上がれ。
単に閑静な住宅街の、夜は中途半端に暗い。白々とする電灯のそばで羽虫ばかりが空騒ぎして、青年はそれをぼんやり見ていた。一生見ていられそうと思って、一度まばたきをすれば飽きた。ゆらりと下に視線を向ければ、無表情のアスファルト。まるで鏡を見ているみたいだ。いっそこれになってみようか。そうすれば腹が減らないだろう。
青年は空腹だった。それは面倒なことだった。そろそろ食べなければならないようだ。美味くも不味くもない生きもの。
湿った夜風にうなじを舐められ、青年はふと顔を上げる。そして彼は見つけてしまった。羽虫の馬鹿騒ぎの下に、人間。
おとなとも、こどもともつかない。小柄な少女であるらしい。輪郭が細くなめらかであり、かろやかなのに重そうだ。ショートパンツとゆるいシャツから、なまじろい脚や肩が出ている。片手で掴めそうな首には、下ろした黒髪が巻きついていた。
「お兄さん」
呼びかけてきた少女の声は、高く響いて硬質だった。青年はこたえなかった。少女のからだは光って見えた。
「お兄さん、なんか変ですね」
少女は平坦に言った。
青年は息を詰め少女を見つめた。食べますか、と少女はたずねた。
「わたしのこと食べますか。食べるんでしょ、それでいいけど」
なにげない様子でつぶやく少女は、ゆっくりと距離を詰めてくる。
青年は、ただ立っていた。立ち尽くしたまま動けなかった。
「いいけど、ゆっくりしてくれますか。味わって食べてくれますか」
少女は青年に歩み寄りつつ、どこまでも静かな口調でたずねる。濡れたような髪がゆらめき、青年はごくりと生唾を飲む。
「ゆっくり、じっくり味わって、胸やけとかしてくれますか。胃もたれでもいいんですけど。それで、肉にしてくれますか。骨にも血にもしてくれますか」
食べても、なんの味もしない。なにかが残ることもない。肉にも骨にも血にもならない。そうであるのに、腹が減る。それは面倒なことだった。
「ねえお兄さん。どうなんですか」
手を伸ばせば、ふれるところにいる。いますぐにでも、捕えてしまえる。少女の背中を風が滑って、届く匂いはひどくあまやか。頭が痺れる視界が回る。腹の底がずるりと、動く。少女はぽてりと首を傾け、変わらず平らな調子でうたう。
「わかってます、無理なんでしょ。味わってなんかくれないの。絶対てきとうに食べるんだ。ぱぱっと消費しちゃうんだ。食べたことも忘れちゃうんだ。ばかにしてろよ。くたばれよ。そんな安いものじゃないんだ」
少女がしろい手を伸ばし、青年の削げた頬にふれる。青年はびくりと肩を震わせ、きつく唇を噛みしめる。少女の指先はなまあたたかく、しっとりと肌に吸いついた。頬をなぞって喉をたどって、鎖骨から胸を撫でて下って、ここ、と腹の中心を突く。
「ここに落として。ずっと溜めてて。ぜんぶあげるから消費しないで」
少女の声がわずかに震え、瞬間、青年はその手を掴んだ。引き寄せうなじに噛みついた。
あまりの、あまさに脳が焼き切れ、臓腑がぜんぶ爛れ焦がれた。少女の指が示した場所など、もう溶け落ちたも同じであった。それでもひたすらむしゃぶりついて、息をすることさえも忘れた。溺れ沈みたい悦楽だった。食らっているのに食らわれていた。食らわれながら食らってもいた。このまま狂っていいと食らって、余すことなく貪り尽くし、一片一滴残らないのに、ぜんぶ、もっととあえいで死んだ。
羽虫が黙り電灯が瞬く。地面がにっこり口をひらいて、亡骸ひとつを呑み込み閉じる。無表情のアスファルト。
(お粗末さま。)




