夢幻
ランドは夢を見ていた。見ながらそれが夢だと分かる夢だった。夢の中で自分は掘立て小屋としか言えない、みすぼらしい納屋の藁の上に寝ている。
もうすぐ叔母が朝の手伝いをしろと呼びに来るだろうが、ランドは呼ばれるまで少しでも貪る様に寝るつもりでいた。だが扉が開いて朝日が差し込む。どうやら叔母が自分の事を起こしに来たらしい。
『仕方がない。』
自分の体温が残る藁から名残惜しそうに身を起こしたランドの前に、叔母とは明らかに違う人影があった。その顔は逆光になってよく見えない。その人影は小柄な叔父よりも、はるかに大きな体をしていた。
「君がランド君かい?」
男が自分に向かって声を掛ける。ランドはまだ寝ぼけているのかと思い、目を擦りながらその声に頷いて見せた。
「どうやら、やっと見つけられたみたいだよ。」
男が背後を振り返って告げた。ランドのぼやけた視界の先で、男よりはるかに小柄な女性の様な姿が見える。だが何故かその姿ははっきりとはしない。
「よかったです。これで……」
男に向かって女性が何やら返答した。やはり若い女性の様だ。澄んだ美しい声だった。
『やはりこれは夢なのだな。』
ランドははっきりとしない意識の中で考えた。あの時は、自分の父親の引き受け人だと応えた男が現れた時には、この男以外は誰もいなかったはずだ。
男は自分は雫師で父の知り合いだと告げた。ランドの父親と言っても、ランドはその時まで父親は当の昔に死んだものだと思っていた。もっともそれが本当に死んだのだと分かっただけだ。そして男はランドに雫師になる気はあるかと聞いた。
雫師だろうがなんだろうがどうでもよかった。ともかく叔父達に日々こき使われるだけだったランドにとって、ここを離れることができるのであれば、理由はなんでもよかった。
「なる。」
ランドは男にそう一言告げた。男は自分と共に叔父と叔母の前へと行くと、自分の遠縁の二人に向かって、自分を連れて行くと告げた。最初はそれを頑なに否定した叔父夫婦だったが、男が何かを告げると、苦虫を噛み潰した様な顔をして、男に向かって頷いて見せた。
「では、行くとするか。」
男はただ一言そう告げると、叔父や叔母に背を向けて歩み始めた。その意地悪な子供達はまだ眠っている。ランドは寝起きのまま、ただ男の後について行っただけだ。
「これはあなたの宿命なの。」
自分の背後から美しい女性の声が響いた。やはりこれは夢だ。あの時は男の短い台詞以外は、「この恩知らず、二度とここに戻ってくるんじゃない!」と背後で叫んだ叔母の声しかしなかったはずだ。ランドはその声の主を確かめようと振り返ろうとした。あの時は決して後ろを振り返ろうとはしなかったはずなのに……。
* * *
「ヒヒン!」
馬が小さく嘶く声にランドは目を覚ました。野営中には寝るつもりはなかったのに、いつの間にか寝てしまったらしい。ウィルナスの街までまだ半分ほどの行程だと言うのに、何て体たらくだろう。雫師として考えれば、まるで駆け出しがやることのようだ。
昨日の夕刻からほぼ霧の様に降っていた小雨は晴れたらしい。それは少し濃厚な朝靄となって辺りにその気配を残している。近くの川からは山の雪解け水が、音を立てて流れているのも聞こえた。ランドは昨日の午後遅くに、その霧雨で道に迷うのを避けて、宿場の手前で野営に入っていた。
雨よけと火が目立たぬように張った黒い布の下、地面の湿気除けの折りたたみ式の金属の台の上で燃やしていた熾火は、まだ暖かさを保っている。自分が寝てしまっていたのはさほど長い時間ではなかった様だ。
ランドは寝てしまっていた間に強張っていた体を伸ばすと、精神を集中して辺りの気配を探った。曇ってはいても、朝だと言うのに鳥の囀りがあまりに少ない。
「出てきたらどうだ。熾火にあたれば少しは温まる。」
ランドは自分の左手にあった大きなニレの木の方に向かって声をかけた。
「ああ、そうだな。助かる。」
自分よりだいぶ年配の男が、木の幹の影からゆっくりと顔を出した。そして体を引きずるように進むと、ランドが腰を欠けていた倒木の上へと大儀そうに腰を下ろした。男の口から大きく息を吐くのが聞こえる。その息は走り続けていたかのように荒い。
「雫師か?」
男がランドに向かって声をかけた。ランドは、自分の上着の胸の辺りに縫い付けられた雫留めに視線を落とす。
「ああ、そうだ。あんたもだろう?」
ランドはそう男に告げると、男の上着の胸元を指差した。そこには空の雫留めが並んで縫い付けられているのが見える。 男はランドが首に掛けている鉄の小さな札に目をやった。
「あんたは、ギルド付きか…、俺の様な、もぐり、とは違うな。」
「潜ったのか?」
「ああ。」
ランドの言葉に男が答える。その顔はまるで紙の様に白い。
「3人で潜った。村に、起きた、小さな厄災の始末だ。祠みたいな、奴だった。珍しく…うまく……行ったよ。金も、もらえた。」
「残りは中か、それとも外か?」
「そ、外だ。付けられて、いた、だが、うまく、行きすぎて…。気がつか…。」
「相手は?」
「4人…だと、思う…」
ランドは男が出てきた木立の方をチラリと見た。
「いや、5人だな。狙撃役がもう一人いる。」
「それは…気がつか…なかった。」
男の上体がグラリと揺れる。そしてその目はもう虚ろだった。だが男は力を振り絞ると、
「あんたが何の属性使いか知らないが、し、雫が緑、一本だけ残っている。そ、れとこれを、持って行ってくれ。」
そうランドに告げた。そして胸元から雫瓶を一本と、首にしていた銀のロケットを引きちぎってランドに差し出した。
「もし、ユ、ユリア、という娘に会うことが、あったら、俺の、娘だ…俺は死んだと…」
ランドがそれを手にした瞬間、男の上体が崩れ落ちた。男の背には一本の矢が深々と刺さっており、そこから流れた血が、地面の上の小さな水溜まりを赤く染めている。
「最近は遺言らしきものばかり聞かされる。」
ランドはそう口から言葉を漏らすと、ゆっくりと立ち上がった。そして腕を伸ばして何かを探るような動きをする。そして小さく頷いて見せると、男から受け取った緑の雫瓶を指で弾いた。
「雫師を相手にするんだ。奇襲に失敗した時点で、お前達に勝ち目はない。」
そう言うと、ランドは木立の方を振り返った。それと同時に何かが地面に投げ出されたような音が響く。そこでは木の枝で体を偽装した男が一人、地面の上を苦しげに転がり回っていた。背後の木立からも、誰かが苦しげにあげる呻き声が聞こえる。
このもぐりの雫師たちが、村のものから受け取った金を狙った野盗達だ。厄災に棲家を追われた者の行き先は3つあった。流民となってどこかで安い賃金でこき使われる。雫師になる。そして三番目の選択肢が野盗となるだ。この男達は三番目の選択肢を選んだのだ。
「こ、こ、殺してくれ!」
地面を転がる男が苦しげに叫んだ。緑の属性の力は毒にも薬にもなる。普通の人間を襲うのであれば、匂いや音でバレないように風下にいるのは定石だが、雫師を襲うつもりなら風下にいるのは下策だ。炎も毒も風上にいればこそ力を発揮する。
「駄目だな。元々の選択肢を間違えたんだ。」
「こ、殺し、て……」
地面に転がる男が喉をかきむしる。
「最後まで苦しんでから死ね。」
ランドはそう告げると、熾火の横で体を横たえていた男のそばに歩み寄った。そして跪くとその目をそっと閉じてやる。立ち上がったランドは、手の中にある男から渡された銀のロケットを見つめた。ランドはそのロケットの蓋らしきものから、小さい何かがはみ出ているのを見つけた。
ランドは上着で手の水気を取ると、ロケットの蓋をそっと開く。中には折り畳んだ紙らしきものが入っていた。それを破かぬようにそっと広げてみる。
『父ちゃん、ユリアはいつも父ちゃんを待っているよ!』
だいぶ茶色に変色した紙には、とても拙い文字でそう書かれていた。そしてその余白にはこの男の顔らしい似顔絵も添えられている。ランドはその似顔絵と冷たい骸となった男の顔をじっと見比べた。
「どいつもこいつも、どうして子供なんてものを作っておきながら、何で雫師なんてものになるんだ!」
普段は決して声を荒げないランドの口から、いつもと少し違う苛立たしげな声が上がった。そして天を仰ぐ。
この季節にしては珍しい暗く灰色の空から、またポツポツと降り始めた雨がランドの顔に当たった。そしてそれを縁取るように淡い緑色の新芽や赤子が手を伸ばしたような若葉が見える。それは生命の息吹そのもののようだ。
こうして生まれ出てくるものがいる一方で、こうして死んでいく者達もいる。ランドは顔を下ろしてフードを被ると大きくため息を吐いた。
「悪いな。先を急ぐので、墓を作ってやるほどの時間はない。だがあんたの魂が娘のところに帰る手伝いだけはさせてもらう。それで許してくれ。」
ランドは男の骸にそう告げると、小さく祈りの言葉を唱える。そして胸元から真紅の液体が入った雫瓶を取り出すと、それをゆっくりと指で弾いた。




