【39】わたし。
・・・
真っ白な部屋、独特の匂い。空を飛んでいるように、ふわりと身体が軽い。もしかしたら、本当に空を飛んでいるのかもしれない。
ここはどこだろう、そう思った時に視界の端に光の筋が見えた。あれは何だろう。
ゆっくりとそれに手を伸ばすと、バチンと何かが弾けた。
『──、──し、──……』
『──と……』
誰かの話し声が聞こえる。誰かは、分からない。けど、どこかで聞いたことがあるような気がする。再び手を伸ばした時、また光が弾ける。今度は先程より近く、手を伸ばせるほどの距離にあった。
恐る恐る手を近づける。すると、手が光に触れた瞬間、一気に辺りが明るくなる。眩しさに目を細めると、目の前に私がいた。
「わたし……?」
『早く戻ってきてよ。私の帰る場所は、そっちじゃないでしょ』
呆れたように言う。その表情はどこか寂しげだった。その言葉にハッとする。そうだ、私はここにいる場合じゃなかったんだ。帰らないと。……でも、どこに?
「わたし、どこに帰ればいいの」
『忘れたらダメ、思い出して、待ってるから、絶対』
その言葉を最後に、世界は闇に包まれた。一転、急に眩い光に照らされる。光の方を見ると、それはヘッドライトであることに気付く。あ、これは夢だ。そう自覚した瞬間、いつものように、あの夢を見る。トラックが身体とぶつかり、意識が遠退く。そして地面に叩きつけられる感覚が全身を襲う。コンクリートと車に挟まれ引き摺られた身体は、やがて動かなくなった。
・・・
「……」
目が覚めると、私は自分の部屋のベッドにいた。窓から見える空は暗く、まだ夜中だということが窺える。私はゆっくりと上半身を起こした。
「お嬢様、また……」
水と濡れたタオルを持ってそばにファムが立っていた。私は苦笑いを浮かべてそれを受け取る。
「また変な夢みちゃったみたい。……でも、いつもより平気」
去年や一昨年に比べて、頭痛も倦怠感も吐き気も穏やかだ。夕方にいつもの夢を少し思い出したから、その影響だろうか。受け取った水を飲んで、額に浮かぶ汗を拭った。
……それにしても、今回の夢は、どこか様子が変だった。夢に出てきた私は、何だったのだろう。戻ってきて、と言っていた。あれって、どういうこと? 私は、向こうの世界に帰らないといけないの? トラックに轢かれて死んで、この世界に来たんじゃないの?
(……まあいいか、考えても分からないし。私は、私のことを覚えておけば、それでいい)
私は再びベッドに潜り込んだ。ファムは寝付くまでそばに居てくれるみたいで、私が眠るまでずっと手を握っていてくれた。
・
翌朝、目が覚めると案の定熱が出ていた。昨日よりも明らかに高くなった体温にため息をつく。もう、八回も繰り返せばこの状況にも慣れてしまった。ベッドサイドの呼び鈴を鳴らせば、メティスが来た。
「おはようございます、お嬢様。本日の予定は念の為全てキャンセルしております。今日一日ゆっくり休んでください」
「うん、ありがとう。……昨日の夜、少し早めに食べてお腹すいちゃった。軽く食べられるものはある?」
「すぐに用意します」
メティスが退室した後、私はもう一度横になった。相変わらず頭は痛いし身体が熱い。この世界に万能風邪薬なんて都合の良いものは無いので、ただ耐えるしかないのだ。去年、興味本位で自分に治癒魔法を掛けてみたが、熱や風邪はどうやら治らないみたいで、ただ魔力を消耗して辛いだけだった。
しばらくすると、スープの入った器を持ったメティスが現れた。スプーンで掬って飲むと、胃の中でじんわりと温かさが広がる。飲み終わる頃には身体の辛さも少しマシになっていた。
ベッドの上に魔法学の本を何冊か持っていき、パラパラと捲りながら時間を潰すことにした。私はまだ、この世界の魔法について知らないことが多すぎる。禁忌魔法の存在なんてこの前まで知らなかったし、特化魔法もその他のことも、精霊のことだって全然詳しくない。せっかく魔力にも恵まれてるし珍しく全属性使えるし、今のうちにもっとしっかり勉強しておかないと。
数ページほど読み進めたところで、扉がノックされた。メティスが対応しに行き、あまり聞こえないが聞き耳を立ててみる。……どうやらお客様らしい。誰だろう。
「お嬢様、魔法研究所の方からご依頼が入っているようなのですが……後日にするよう連絡いたしましょうか?」
「うん……いま来てるとかじゃないよね?」
「はい、連絡だけです」
「じゃあ、後日にしてもらう。ソフィが行くよって連絡しておいて」
そう言うと、メティスは了承の意を伝えて部屋を出ていった。
(……研究所の依頼? 何だろう?)
少し疑問に思いつつも、再び本の続きを読み始める。しかし、どうしても集中できず、そのまま読書を諦めた。
ベッドの上に転がり天井を見上げる。目を閉じれば、瞼の裏に映るのはあの夢の光景。
ほぼ毎年見ていて、ほぼ毎年同じような内容だったのに、今回は少し違っていた。考えても分からないからと考えるのをやめていたが、もしかしたら何か分かるかもしれない。夢の内容を思い出そうと、思考の海へと潜っていった。
私は死んだ。あの時、トラックがぶつかる瞬間、私は確かに死を意識した。夢で思い出す度に、死を思い出す。でも、昨日の夢は違った。あの一瞬見た、私とあの誰かの話し声は、何だろう。私は、戻ってきて、と言っていた。私は、何かもっと忘れてはいけない何かを忘れているのだろうか。記憶の底に沈んでいるものを引き上げようと必死になっていると、次第に意識が薄れていった。




