【18】わたしはソフィ。
・・・
真っ暗な視界の中で、どんどんと音が鳴る。私はそこでじっと立っていた。寒いな、と思って身体をさすると、生暖かさが手のひらに広がる。なんだか変だと思い手のひらをじっと見ると、真っ赤な血がべったりと付いていた。
それを認識した途端、視界が急に明るくなる。迫ってくるトラックが、クラクションを鳴らしている。痛い。固いコンクリートに引き摺られて身体の皮膚がめくれている。わたし、私は、月見里、わたしは――。
・・・
「っは……っぁ!? はぁ……っ、あれ、わたし……」
「お嬢様! 大丈夫ですか?」
飛び起きてベッドの上で荒く呼吸を繰り返す。横を見るとファムが心配そうな顔をしてこちらを見ていた。
「大丈夫……私、いつの間に寝てたの……?」
「お嬢様……? ええと、聖誕祝祭から戻ってこられてすぐに、お休みになられましたが……」
そういえば、昨日は疲れていてすぐ眠ってしまったんだったか。思い出すとどくん、という心臓の音と共に頭の中の映像がちりちりと燃えていくような痛みを感じた。
……この感覚は、覚えがある。時々、こういう夢を見るのだ。ちょうどでは無いが一年に一回くらい、やけにリアルで、それでいて嫌なものばかり見る時期があって。それが今の時期なのだ。去年も見たけどあの時はもっとひどかった。
今回も辛かったがまだマシかもしれない。ただ頭が痛くてぼんやりとするだけだ。それでも気分が悪くなって吐き気がしてきた。
ファムにお水を貰い、ゆっくりと飲み込む。吐き気がおさまってきて、だんだんと思考もクリアになってきた。
私が異世界に転生してきても現代を忘れないのは、こうして夢を見るからだろう。嫌な夢だけど、そのおかげで『私』を思い出せる。
膨大な量の知識を再び脳に入れるのは不可能に近い。聞こえる言語は日本語でも、文字は違う。魔法も、人間関係も、世界の常識も、何もかも、全く新しいものなのだ。
でもこれは、きっと、神様が与えてくれた慈悲なのだと思う。現代を覚えていた方が私としても都合がいい。頭はパンクしそうだが、そのおかげで助かっていることが多い。
それに、恐らく忘れたら駄目なんだと、思う。これは直感だが、全て忘れてしまったら、この世界にいる私も、消えてしまうのだと思う。だから、『私』の本能が忘れないように必死に頭に詰め込んでいるんだと。本当かどうかなんて、分からないのだが。
考え事をしているうちにだいぶ楽になってきて、またうとうととしてくる。
「ごめんね、ファム。こんな時間に」
「もう、大丈夫ですか? ……そうだ、今日は久しぶりに、お嬢様が好きだった絵本でも、読みましょうか」
「うん、ソフィ、あの絵本大好き」
メティスの読み聞かせもいいけど、ファムの読み聞かせも心地が良い。じっとファムの声に集中していると、だんだん瞼が閉じてくる。そのまま、眠りについた。
・
翌日、昼過ぎに起きた私は熱を出していた。朝方よりかなり良くなっているものの微妙だ。きっと、深夜に見た夢のせいだろう。情けない……と思いながら大人しく寝ることにした。
起きた時には夕方になっていた。ファムはちょうど部屋に居ないみたいだったので、自分で汗ばんでいるパジャマを脱いで、着替える。タオルで軽く体を拭いているところで、扉の方からノック音が聞こえてきたので返事をした。すると入ってきたのはファムではなくセドリックだった。
「ソフィ、体調は大丈夫?」
「うん、朝より楽になったよ。それよりにーに、騎士団の訓練は?」
「ソフィが熱だって聞いたから、早めに終わらせてきたよ。さっきちょうど水を替えにファムが部屋を出たから、少し話してたんだけど」
なるほど、それでファムがいなかったのか。それにしても、何気に兄と二人でゆっくり話すのは初めてかもしれない。今までクロムや他の侍従や親がいたから、なんだかそわそわしてしまう。なにか話さないと、と思っているとセドリックが口を開く。
「ねえ、僕に何か隠してることはないかな」
はっと息を飲む。なんでいきなりそんなことを……。いやそれよりもどう答えればいい。動揺を隠すために笑みを浮かべて首を傾げる。
「うーん、にーにに隠してることはないよ。どうして?」
笑顔を崩さず答える。正直言って心臓が爆発しそうな程ドキドキとしていた。
すると、彼は私の手を両手で握った。
「ううん、心配だっただけだよ。深夜に魘されていた時の次の日に熱を出すことが多いってファムが言ってたから」
病気とかなのかなって、と言ったセドリックに内心ほっとする。
……別に、隠しているつもりはない。ただ、急に私は恐らく異世界転生してきた人間で、ソフィ・イリフィリスの身体を借りていますなんて言っても信じて貰えないだろうし、今更それを言う必要も無いかなと思って言っていないだけだ。
でも……、本当にそれだけだろうか。もしかしたら、怖い? 私が、私でなくなってしまうようで?
ああ、違う。そうじゃない、多分、私を否定されることが、私の存在が揺らぐことが、こわいのだ。
ソフィとして生きてきた。結局ここがどの小説の世界なのかも分からない。こうして、私を隠して生きるのが正解なのかも分からない。けど、それでも、私はここにいる。
異世界転生してすぐは、王道ルートを回避しながら第二の人生謳歌してやろうなんて思っていた。でも今は、この世界に溶け込みたいと思うようになっている。
私の記憶を持っていることに変わりは無いけど、今の私は間違いなくソフィなのだ。例え誰かに、別人だと否定されたとしても。
――それならいっそこのこと、すべて打ち明けてしまった方がいいのでは。
一瞬浮かび上がった考えを頭を振ることで振り払う。駄目だ、それは、いけない。きっと、後悔する。
「……心配かけてごめんね、にーに。早く、治すから」
絞り出した声は震えていなかっただろうか? ちゃんといつも通り微笑むことが出来ていただろうか? 不安がぐるぐると頭を回る。セドリックは一瞬困ったような顔をした気がしたが、すぐに普段通りの優しい顔に戻った。
「無理しない程度に休んで。治ったら、クロムと一緒に三人で出かけよう」
おやすみね、と兄は私の頭を撫でる。ふわりと、気持ちが軽くなった気がした。セドリックの手は、魔法がかかっているのかななんて、ぼんやりとする頭で考えていると、ゆっくりと意識が薄れていった。




