恵みの子
正化8年7月20日
ビャクダンの町 白銀の館
9日間続いた会議の毎日は、この日ようやく全ての議題を消化し終えた。
今までの決定事項と、側衛騎馬大隊の斥候が集めてきた情報によって、決定された作戦の開始は8月10日
エリー達は8月11日に進軍を開始し、王都まで170kmの道のりを4日かけて踏破する。
私達の出発は10日の早朝。その日の昼前に王都に入る予定だ。
先遣隊は10日の昼に領地から出発し、障害物や待ち伏せする敵を捜索しつつ、前進する。
進路の安全を確保しつつ、主力は11日の深夜に各梯団毎出発して14日に王都外郭防衛戦の北方10km地点に集結し、王都に国王との直接会談を求める使者を出す。
その際に私達の作戦の成否を目印によって使者に伝達して本隊に伝える。そこから1日の猶予を経て、王都に向けて前進し入城する。
王宮からの返答が可であれば良し、不可であれば予めミシェルが侵入時に仕込んでおいた木の種を急成長させて、城門をこじ開け、強引に市街に突入を図る。
強引になるにせよ、穏便に進むにせよ、堂々と入城を果たすエリー達の元に私達も合流する。
要求する会談の実施場所は市街地
比較的開けた市街地であれば、刺客の襲撃に対応が可能であるということ、そして衆目の元で会談を行うことで一部の熱狂的国王シンパによる軽挙を防ぐという狙いがある。
とにかく、高度に政治的かつ軍事的な一連の作戦計画の策定などと言う専門外も甚だしい会議に参加した私の脳は悲鳴をあげていた。
飛び交う専門用語、当たり前の様に参加者達の頭の中にある軍事的な知識…この会議の中で私に出来る事と言えば、聖母のように(自社製品比較)優しい微笑みを浮かべ続ける事くらいだった。
それでも私にも役割がある。ポータルパスポートを使って王都に侵入する事だ。
日本大使館のある王都である。仮にエリー達の動きから城門が封鎖されたり、警戒態勢がとられたとしても、私を閉め出すということはまず考えられない。それこそお家騒動に巻き込まれて死んだりすれば、外交問題になりかねないからだ。
それで無くとも、日本・ウェスタリア両国政府が連名で発行し国王の玉璽も入ったこのパスポートの権威の程はミズナラの街でも証明済みだ。
魔法を使えなくとも、精霊に愛されていなくとも、超人的な戦闘能力を有していなくとも、私には日本国の権威がついている。情け無い気もしないでは無いが、虎の威を借る狐上等である。
ともかく、会議で疲れ切った私には癒しが必要だ。先ずはマイスウィートハニーことヴァニカを…いた!
今日も元気にギルバートと稽古に励んでいる。
しかし、今ヴァニカの手にあるのは真剣…それも例の魔法の剣だ。
かつて刺客の手にあったときには赤熱するだけであったそれは、煌々と輝き逆巻く炎の渦を纏い、時に槍の様に、時に盾の様に変幻自在に貌を変え、さながらファンタジーものの勇者の武器の様にその表情を一変させている。
いや、使いこなすようにとは言ったが…やり過ぎじゃ無かろうか…
しかし、それでもギルバートは木剣一本でヴァニカを地面にといとも容易く転がしていく。異世界人のフィジカル恐るべしである。
「そこまで!」
私の後ろからやって来たエリーが二人の稽古を止める。
ギルバートはその姿を認めると、エリーに一礼する。
「君の娘は君に似て随分とんでもないな」
私にそう言い置くと、エリーは二人の元に歩みを進める。
「どうだ、ギルバート」
「この短期間で随分と腕を上げたように思います。初見の相手であれば、例の刺客とも対等以上に渡り合えるかと」
剣の力も勿論あるのだろうが、それでもとんでもない成長速度だ。流石は最強の人種である恵みの子と言ったところだろうか?
「ふむ…それではヴァニカ、私と手合わせ願おう」
「わ、分かった!」
周囲の空気が一瞬にして張り詰めるような威圧感
なんと言うことは無い、エリー自身の純粋な迫力がこの場を支配する。
「ただし、殺すつもりで来るように。私もそのつもりで行かせて貰う」
は…?
「ちょっと!何を…」
サーベルを抜き払うエリー
思わず飛び出そうとした私の肩をリカルドさんが掴む。
「離して!エリー!何馬鹿なことを!」
ただ肩を押さえられているだけにも関わらず、前に出ることが出来ない。
「お母さん!…エリー、冗談だよね?」
「どう思うかは君の勝手だが…」
一閃、エリーの剣が一切の迷い無くヴァニカの頸を切り払う
「ヴァニカ!!」
確実に入ったかのように見えたそれを、ヴァニカは素早いバックステップで躱していた。
「後悔無く死ねるようにする事をお薦めするよ?」
ただ雑に、横薙ぎに振るわれただけの切っ先…
踏み込むことも体を入れることも無く、ただ腕だけで振るわれたそれは、今までに味わったどんな悪意や害意以上に、ヴァニカに死を感じさせた。
殺気とも悪意とも害意とも違う、ただ作業の様に、作業故に確実に、ヴァニカの命を奪おうとしている。
(何を考えているのか分からない。けど…!)
ヴァニカは周囲に舞う火の精霊に意識を集中する。
(友達が変な気を起こしているなら、あたしが止めたい!)
ヴァニカの願いに応じるように、握った剣に精霊の力が注がれていく。
本来であれば、使用者と周囲の環境からマナを搾り取る機構を持った剣は、しかし精霊の愛し子足る彼女に握られる事で、精霊の力を直接物質世界に流し込む導管の役割を果たしていた。
ダンッと、地面を蹴って一気に間合いを詰めてエリザベートのサーベルを狙ったヴァニカは、しかし次の瞬間には自分が逆方向に弾き飛ばされていることに気が付く。
一拍遅れで腹部をに走る衝撃
「ゲホッ…お…おえっ…ゲホッ…」
どうにか受け身こそ取った物の胃の腑を叩き潰されたかのような衝撃に、堪らず嘔吐するヴァニカ。
「殺すつもりで来るようにと言ったはずだが?」
一体何をされたのかも分からないまま、ヴァニカは立ち上がる。
「え…エリー…なん…で…?」
自分を友達だと言ってくれた相手の突然の豹変に、ヴァニカは頭がおかしくなりそうな程に戸惑っていた。
「次は私から行かせて貰おうか」
エリザベートが動いた様に見えた次の瞬間、ヴァニカの目の前には靴のアウトソールがあった。
(まずい!)
顔目がけて容赦なく放たれる蹴りから彼女を庇うように、圧倒的な熱量で放たれる炎の壁に、エリザベートは身を翻してそれを躱す。
「あ、ありがとう…精霊様」
「ふむ、精霊の力か」
耳元に聞こえたエリザベートの声に気付いた時には、頭を地面に叩き付けられていた。
「しかし、君自身には少しやる気が足りない様に思えるな」
エリザベートはそういうと、館の方に合図を送る。
「これで少しはやる気が出るだろうか?」
乱暴に頭を持ち上げられて見せられたのは、彼女の母遊子が頸に剣を突き立てられている姿だった。
「お母さん!エリー…何で…何で…こんなことするの…?」
ヴァニカの問いに答える事無く、エリザベートは彼女を放り投げる。
「君が私を殺すことが出来ればユーコは解放しよう。だが、君が死ねばその時はユーコも君の後を追うことになる」
ヴァニカは投げかけられた言葉の半分も聞いてはいなかっただろう。
困惑、悲しみ、恐怖、痛み…それぞれが綯い交ぜになった心の中、しかし、彼女の身の内に最も強くあったのは怒り
燃え盛る炎の様に激しい怒りだった。
彼女の怒りに答えるように、周囲の大気がバチバチと音を立てる。
この光景を魔女が見ていたら、それは彼女を中心にした炎の竜巻の様に見えたであろう。
彼女の思いを感じ、彼女の力になろうと集まった無数の火の精霊が集い、その怒りを代弁するかのように大気へ熱を放つ。
彼女の怒りは反響し、共鳴し、やがて自身をも飲み込み、一個の怒りの化身へとその有り様を変える。
短剣は炎の槍となり、刀身を覆うだけであった炎は三対の翼の貌を成し、一対が顔を、もう一対が体を庇う。
燃え盛る炎は神世の歌を奏でながら、その愛し子に世界の恩寵を祷る。
「ほう…見事なものだ」
エリザベートは感嘆をもらす。
激しく燃え盛る怒りの化身。
それは恐ろしくも神々しい姿をもって、エリザベートと対峙していた。
「さあ、ヴァニカ!来るが良い!」
エリザベートの言葉に応じるように、踏み込んだヴァニカの踏み込みは、大地を爆ぜさせ爆ぜた大地がまた彼女を加速させる。
突き込まれた炎の槍は、防ごうとした鋼の剣を溶かしエリザベートの腹を貫いた。
手に伝わる感触に、彼女は正気を取り戻す。
「うそ…そんな…」
はっきりと覚えている。自分が一体何をしたのか…
誰を、その手で貫いたのか…
翼が、槍が、その役目を終えて霧散する。
「ふふっよくやったね…ヴァニカ」
「エリー、違うの…そんなつもりじゃ…」
涙を流しながら傷口を押さえようとするヴァニカの頭を、エリザベートは優しく撫でる。
「強くなったね…」
「やだよ…エリー!エリー!」
大切な友人をその手にかけてしまったという悲しみに止め処なく溢れる涙…
「とにかく傷を!」
エリザベートの傷を見ようとしたヴァニカは驚愕する。
「傷が…無い…ひゃっ!」
エリーの体にドロップキックをぶちかます。
完全に死角からの全力のキックだというのに、ちょっとよろめいただけだ…このゴリラめ!!
「や…やあ、ユーコ…」
「なぁにがやあ、だこの馬鹿ちん!!」
申し訳なさそうな顔をするエリー
いや、許さないよ?
「正座…」
「へ…?」
「前に教えたでしょ?正座!」
「は…はい!」
「そこの髭と馬鹿力も!」
リカルドさん…もとい髭によれば、この一連の騒ぎは狂言であるという。
戦士を成長させるには実戦と訓練を同時平行的に行わなければならないという側衛騎馬大隊の教育方針に従ったものらしい。
かといって実際に危険な戦場にヴァニカを連れて行くことも出来ないので、私を人質にしてのエリーの魔王ムーブというわけだ。
勿論火の精霊対策として、ミシェル特性火臥せの宝玉とやらを装備して安全対策はとっていたらしい。
「それにしたってやり過ぎでしょうがこの脳筋ゴリラ!!」
「これは殿下達が悪いですわ…ほんとすんませんユーコ様」
駆けつけてきた側衛騎馬大隊のジョルジュ副隊長も私に同意する。脳筋まみれの大隊の中にあって、数少ない知性派の将校である。
「ヴァニカだって大怪我するところだったんだよ?!分かってんの?」
「お母さん、あたしも無事だし…もう許してあげて?…ね?」
置いてけぼりで大人がお説教される姿を見せられていたヴァニカがオロオロしながら言ってきた。
「ヴァニカ、さっき凄かったよ!とっても頑張ったね、格好よくってお母さんびっくりしちゃった」
ヴァニカの事を撫で繰り回す。
「うひゃっ、お母さんくすぐったいよぉ」
実際、炎を纏ったヴァニカの姿はキリスト教の宗教画に見る熾天使の様だった。
「そうだろう!いやもうヴァニカは私達の予想を遙かに上回っていたよ!まさか火伏の宝玉が一撃で砕かれるとはね!」
「殿下…あんま調子に乗らんで下さい!幾ら余裕があるとは言っても、下手したら大怪我じゃすまなかったでしょうに…」
呆れた様に言うジョルジュ副隊長
ん?
「え…あれでもまだエリーって本気じゃ無かったんですか?」
見るからに魔王の様な感じだったが…
「いや、私がヴァニカを殺そうとするわけが無いだろう!」
うーむ…ついて行けない世界だ。
「そ・れ・で・も!うちの娘をあんな目に遭わせて…この程度ですむと思ってる訳じゃ無いよね?」
「ひっ…その…お手柔らかに…」
「しないよ?」
言いたい事はまだまだある。
太陽が沈んでも尚、私のお説教は続いていく-
王都 王宮
緊急で開催された元老院の会議は、日が沈んで漸く一時閉会となった。
議題は当然第二王女の動向と今後の対策についてである。
領内に戒厳を発令し、側衛騎馬大隊と共に領地に籠もった妹の行動に、第一王子たるアレクサンダーは居室にて一人頭を抱えていた。
近衞八軍団のうち第三軍団を任されている彼の軍団の屯営は王都北方の稜堡であり、いざ有事となれば最前線となる場所に位置している。
とはいえ彼も王族であり、軍団を任される程の男でもある。彼の懊悩は戦いに対する恐れでは無い。
たとえ相手が英雄の誉れ高いエリザベートであっても、それがはっきりとした叛意をもって王国に刃を向けるというのであれば、軍団の威信をかけて正面から堂々と雌雄を決したであろう。
しかし、である。あのエリザベートがその様な事をするだろうかと思う。
なる程、議会に於いて伝え聞く武断タカ派拡張主義者としての彼女であれば、弱気に見えるであろう王都に対して強攻策に出るということも十分に考えられる。
しかし、人々から、そして辺境の地から伝わってくる英雄エリザベートの姿を思えば決してその様な事をするようには思えない。
弱き者の為に、圧倒的寡兵をもものともせずに強大な敵に立ち向かい、貧しい民のために自らも泥に塗れて復興の為に尽くす英雄は、果たして自分の主張を貫く為だけに、国を乱れさせる武力行使による王位の簒奪等という元老院の懸念する暴挙に出るものだろうか…。
彼の知るエリザベートは男勝りでお転婆で、貴婦人としては非常に残念な娘であった。
しかし、叱責を受けた使用人を優しく慰めたり、怪我をした猫を保護したり、都に上ってきたばかりで虐められていた貴族の娘の為に棒切れを片手に茶会に乱入したりと、正義感と優しさに溢れた情の深い娘でもある。
最後に会ったのは彼女が十代の半ば頃だったが、その心根は何一つ変わらないものだった。
その疑問が澱の様に重なり、彼の頭を悩ませ続けているのだ。
「…兄様?」
「ああ、クロエか、いや…すまないね…少し、考え事をしていただけだよ」
いつの間にか部屋に入ってきていた妹のクロエが顔を覗き込んでいる事に気が付いたアレクサンダーは意識を現実に引き戻す。
「エリザベートお姉様の事ですか?」
背が高いのはエリザベートと同じく父である国王に似たのだろう。まだ十三の筈だが、背丈はアレクサンダーを超えている。彼自身は母親似でそこまで背が高い方では無いものの、貴族社会では一般的な身長ではあるので、彼女は嫁の貰い手に苦労しそうではある。
肩まで伸ばした薄い金色の髪は艶々と輝き、常に明るい笑顔を湛えた様な顔つきは、彼女の夏の燦々と輝く太陽の様な心根を映す鏡の様でもある。
兵士達と長い時を過ごしたアレクサンダーから見れば、均整のとれた女性的な体型は、市井における魅力的的な女性その物だとは思うが、貴族達からは下品な体つきだと影で言われていたりもする。
エリザベートと同じように生まれが違えば苦労が無かったであろうなと、アレクサンダーは心中に思う。
そう、エリザベートも市井に…でなくとも例えば諸侯の家に生まれてさえいれば、きっとただ英雄として過ごせただろうに…
「兄様?」
「いや、クロエはエリザベートによく似ているなと思ってね」
「まあ、本当ですか?」
クロエはエリザベートと面識が無い。エリザベートが最後に王都に戻った時に数度は会っているだろうが、その頃のクロエはまだ産まれたばかりで物心つく前だった。
それでもクロエは顔も見たことが無い姉の事を心から尊敬している。
「ああ、本当さ」
「うふふ、嬉しいです!」
無邪気に笑うクロエを見ながら、アレクサンダーは今は亡き兄に心中に問いかける。
(兄上であれば…いったいどうしたのでしょうか…)
正化8年7月21日
ビャクダンの町 白銀の館
外は暗く、星々が楽しげに輝きを競い合う真夜中に私は目を覚ました。
胸の辺りには穏やかな寝息をたてるヴァニカの体温が感じられる。
エリー含む三馬鹿のお説教を終えてから食事をとり、その後すぐに寝てしまったからだろうか?随分と早い目覚めだ。
なんだか随分と目が冴えてしまっているので、少し散歩でもしようかと部屋を出る。
ふと見ると隣の部屋から灯りが洩れている。ミシェルの部屋の筈だが、まだ起きているのだろうか?
覗き込んでみると、せっせと何やら書き物をしているようだ。
「ミシェル、まだ寝ないの?」
「ひゃっ…ああ、ユーコさん…びっくりさせないで下さいよ…」
「あはは、ごめんごめん…灯りが点いてるのが見えたからさ」
ミシェルが差し出してくれた椅子に座る。
「ユーコさんこそどうしたんですか?こんな時間に」
「なんか目が覚めちゃってさ…ちょっと早く寝過ぎちゃったのかな?」
「そうですか…じゃあリラックス出来るお茶でも煎れてあげますね」
ミシェルはそう言って、瓶に入ったハーブティーの茶葉の様な物と、赤い宝石の様な物を取り出す。
小鍋に水差しの水と茶葉と宝石を入れて、ミシェルがそこに手を翳すと一瞬でお湯が沸き、茶葉が煮出される。とても優しい匂いがする。
「どうぞ」
彼女はそれをカップに注ぎこちらに手渡した。
「凄いね、それ…魔法?」
「ええ、ヴァニカちゃんに火のマナを分けて貰いました」
「そっかあ、そんなことも出来るんだね」
言いつつハーブティーを啜る。体の中が優しい暖かさに満たされるような感覚に、思わずほぅっと息を吐く。
「ふふっ、気に入って貰えましたか?」
「うん…これミシェルも好きなんでしょ?」
「ええ…あれ?言いましたっけ…?」
私は首を横に振って否定する。
「このお茶、ミシェルの匂いがするから」
いつも飲んでいるのだろう。ミシェルの体からは仄かにこのお茶の匂いがしている。
「え゛っ…私そんなに匂います?」
体の匂いを確かめようとするミシェル。いや、このお茶を飲みながらじゃあ分かんないだろうに…
「大丈夫、良い匂いだよ…?」
ミシェルの首元に鼻を近付けて匂いを嗅ぎながら言う。
薬草の様な香りと、お茶の香りと、ミシェル自身の香りの入り混じった優しい香りだ。
「ユ…ユーコさん?!」
「あー、良い匂い…落ち着くぅ…」
「ま…待って下さい…ちょ、ちょっと…」
首に腕を回し、鼻をくっつけてスーハースーハーと匂いを嗅ぐ
「私じゃ無くて…お茶を…ユーコさん…」
余程恥ずかしいのか、わたわたし始めるミシェル。
そんな彼女に、私のいたずら心が顔を覗かせる。
「ユーコさん…ひゃあっ!!」
首筋に舌を這わせると、ミシェルの体がビクンと跳ねる。
「あ…あの…汚いですから…」
「汚い事なんて無いよ?」
もう一度、首筋から耳の辺りをゆっくりと舐める。
「んぅ…あ…んっ!!」
「可愛い…」
ミシェルから離れて椅子に座り直す。
「あ…」
「そんな寂しそうにしないの。続きは後でベッドで…ね?」
「さ…寂しそうになんてしてません!ほんとにユーコさんはいっつも…」
ミシェルは真っ赤になった顔でぷんぷん怒っている。
「それはそうと、ヴァニカはどう?昼間なんか凄いことになってたんだけど…」
昼間のヴァニカとエリーの戦い…そこでヴァニカが見せた炎に包まれた熾天使の様な姿
「あ、はいさっきエリーさんから聞きました。昨日…いえ、もう一昨日ですか…その時は剣から炎を出したり自由に動かしたりしていて、それでも大分驚いたんですけど…」
ヴァニカの練習を見ていたミシェルが慌てて私の所にやって来てその報告をしてから、一日と経たずにあれである。
「あれってそんなに珍しい事なの?」
「珍しいなんてもんじゃ無いです。物質の中にマナを通すだけでも魔女以外には致命的なのに、物質世界に精霊の力をそのまま出して…それを、それこそ周囲を火の海にするような規模でやるなんて、俄には信じられない話しですよ」
「なんか羽根と槍みたいなのまで出てきて、足元爆発させて加速したりしてなんかもう凄いことになってたし…」
エリーからすればまだ押さえ込める程度だというが、それでも一般人がどうこう出来るレベルはとうに超えている。あれだけ幼いのにそれとは、我が娘ながら末恐ろしいものである。
「一応魔導師達なら炎を出したりする程度の事は出来ますが、それもさっき私がやったみたいに宝石に莫大なマナを溜めて、更に魔導具を作って漸くってところですからね…ヴァニカちゃんがやったような事をやるとなったら何千個もの宝石と、このお屋敷より大きな魔導装置が無ければ無理でしょうね」
戦闘の手段としてこの世界で魔法が普及していない理由の話しで聞いたことがある。
在野で魔法を用いる事が出来る人々は魔導師と呼ばれている。彼らは魔導装置というものを作り、動かす技術者であり、魔導装置は動力機関としてはかなり優秀ではあるものの、魔女やヴァニカの様に魔法を放出する事は出来ない。
故にファンタジーの様に魔法をばかすか撃ち合うような事は現実的に不可能とされているのだという。
精霊の力を少しだけ拝借し、装置の中で循環させるのが魔術師であり、これは努力さえすれば誰にでも出来る。
精霊と心を通わせてその力を物質世界にまで及ぼしうるのが魔女であり、こちらは才能のある女性が幼少期から訓練を重ね、独り立ちの儀を終えて初めて強大な力を発揮することが出来る。そして、精霊と心を通わせる過程で、魔女は大いなる循環の調律者としては成長していくため、人々の争いに加担する事は稀である。
とあれば、驚異的なフィジカルを有するこの世界の住人達が魔法の軍事利用等というまどろっこしい真似をせずに、肉弾戦主体になるのも無理からぬ事である。
「似たような事をする人間の話は聞いたことが無いですが…近いのはドラゴンですかね…」
「ドラゴンってエリーが倒したっていう…あの?」
「はい、ドラゴン自体が精霊の化身体の様な側面が強いですから」
ミシェルの説明によれば、ドラゴンというのは五属性の精霊の濃縮された怒りによって、自然の中から産まれるのだという。
その怒りの理由は人の手によるマナの流れの乱れの場合もあれば、相剋する現象同士が激しくぶつかり合う自然現象の場合もあるのだという。何とも迷惑な話であり、更に迷惑な事に昼間のミシェルの様に精霊の力を物質世界に振り撒いて暴れ回る。
それを止めるにはドラゴンを倒すか、精霊の怒りが治まるまで待たねばならないのだが、空を飛び回る上に地に降りても万の軍勢に匹敵すると言われる強さである。大抵の場合は息を潜めてやり過ごすしか無い。
エリーの様に腕力で叩っ切る等という解決方法は例外中の例外である。化け物同士の怪獣大戦争などそうそうあっては堪ったものではない。
「とんでもないんだねぇ…まぁ、うちの子なら大丈夫でしょ!」
ミシェルでも分からないんならしょうが無い。
「さてと…難しい話と美味しいお茶で大分眠くなって来たし…そろそろお暇しようかな?」
割と重くなった瞼と体、よく眠れそうだ。
「お茶、ご馳走さま」
立ち上がった私の服の裾をミシェルが掴む。
「ん…どうしたの?」
俯いたまま裾を離さないミシェル
あ…あれか?!
部屋に入った時の冗談を本気にして…しかも大分その気になっているご様子である。
今度は私が狼狽える番だった。私はストレートなんだが…
「や…やっぱりミシェルは女の子同士のそういうこと好きなんだ?」
雪冠の魔女の館は女の園だ。イメルダみたいな魔女っ子の例もある。結構そういう発散の仕方は一般的なのかもしれない。
「…分かんないです…でも、ユーコさんは…好きです」
ナチュラルに告白される。いや、そう言うつもりでは無いのかも…これはそう言うつもりだな、うん
経験が無いわけでは無いが…うぅん…
「ユーコさんが言ったんですよ…続きはベッドで…って」
蚊の鳴くように小さな声で言ってくるミシェル。
イタズラも程々にしなければ行けないな…
そう思いつつも、ミシェルを傷つけずにこの場を凌ぐ方法は一つしか思いつかない。
私はミシェルをぎゅっと抱き締めた。
「うん…そうだね…一緒に寝よう?」
さて、後は野となれ山となれだ!
「おかーさーん!どこー?ご飯だよー!」
廊下から聞こえるヴァニカの声で私は目を覚ました。
脱ぎ散らかされた二人分の服、汗でじっとりと重くなった布団、そして隣で産まれたままの姿で穏やかな寝息をたてるミシェル…
夢では無かった訳だ…わぁお朝ちゅん!
「ミシェル、朝だよ?」
「ん…ふぁあ…お、おはようございます…」
恥ずかしそうに目を伏せるミシェルは昨晩の乱れっぷりが嘘のようなしおらしさだ。
勢いで目覚めさせてしまったはいいが、今後どうしたものか…何度も言うが、私はストレートだ。まあ昨夜は楽しかったが…
「ヴァニカちゃんが探してますね、行きましょうか」
「そだね」
急いで服を着て廊下に出ると、ちょうどヴァニカがいた。
「あ、やっと見つけた!もう、朝起きたらいないからびっくりしたよ!」
「ごめんごめん、ヴァニカの魔法の事でミシェルと話し合ってたらそのまま寝ちゃって」
「そっか…」
クンクンと匂いを嗅いだヴァニカは首をかしげる。
「まあ、いいや!ご飯冷めちゃうよ、二人とも行こう?」
ヴァニカの後に付いていきながら、ミシェルと二人で顔を見合わせる。
どこまで勘付いているのだろう…
空には太陽が燦々と輝き、心地よい風が人々の活気に溢れる声を伝えてくる昼下がり…うん、バイク日和!!
とはいえ、ツーリングに行くことは出来ないので、バイクの洗車とメンテナンスをしていると、不意に辺りが暗くなった。
雲でも出てきたのかと思い空を見上げると、入道雲のように大きなオドゥオールのおっちゃんの姿があった。
「おー、おっちゃん!どうしたの?」
「おう嬢ちゃん!見てくれ!」
おっちゃんが着ているのは、領兵の着ているチュニックの豪華版の様なオーバーウェア…
肩から襷の様に掛けられたサッシュと、エリーの紋章をベースにあしらった豪勢な勲章が付いている。
「えっ!おっちゃん叙任したの?!しかもこの勲章って…」
「ああ、グラントフィシエだ」
グラントフィシエ、即ち大将校を表す騎士団勲章
エリーが騎士の叙任を行うとは聞いていたが、おっちゃんを叙任するという話は聞いていなかった…まあ、ミズナラの街で出会ったときから大分気に入っている様子ではあったが…
しかしグラントフィシエとは…
「まさかエリーが騎士団を作るとはね…」
この世界では通常諸侯は騎士の叙任をし、それぞれに与える役職と序列をもって階級の上下を定めるのが常だ。
しかしおっちゃんが叙任した大将校は、独立した騎士団、王家の直参の騎士団などの大規模なものにのみ存在する階級制の騎士団勲章である。
大抵王家のものに倣って七階級、グランメートル、グランシャンセリエ、グランコルドン、グラントフィシエ、コマンドゥール、オフィシエ、シュバリエ
その内軍団長たるグランメートルは慣例的に国王を戴く事になっており、軍団総裁たるグランシャンセリエがエリー、家宰であるザッカーバーグ氏がグランコルドンと考えれば、実働人員としては最上位だ。この領地ならば…
「農騎兵の連隊長と同格ぐらいだよね?実質的には騎士団長ってとこかね?」
「いや、騎士団のボスはエリーの嬢ちゃんだな、ほら」
「ああ、そっか」
あの暴れん坊だ。屋敷で騎士団の帰りを待っているタイプでは無い。
「ただ騎士団が立ち上がったら隊を任せてくれるって話だ。ギャビンの旦那が後方司令部の総司令官で、俺は前線の副隊長…リカルドの旦那みたいな役割とあとは教育責任者だな」
「ああ、納得。おっちゃん教えるの上手だって聞くし」
ヴァニカもギルバートも褒めていた。説明が分かりやすい上に、問題や悩みをすぐに見抜くという。
「そっかぁ…これならハーレムも近いね!」
「下世話な言い方だが…まあ、そうだな!」
この日、エリーに叙任された騎士は概ね100人程だ。
そのほとんどが郡司や領兵の将校で、元々騎士並みの待遇を受けていた人達だ。
その中でも、常備兵力たる騎士団要員とされたのはザッカーバーグ氏とオドゥオールのおっちゃんの二人だけだという。
騎士団創設までの道程はまだ遠いものの、目下の作戦に向けての叙任は済んだ。あとは成功に向けて進んでいくだけだ。ただ、前に!




