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キック・スタート  作者: かぷせるこーぽ
第5章 幸福の街
18/28

弓引く手

ビャクダンの町

ギルバートが先触れを出したお陰か、ビャクダンの町は沿道に詰めかけた人でごった返していた。

エリーは私の後ろで領民に手を振ったり声をかけたりしているが、私としては今かなり集中している。

何しろ詰めかけた人々にぶつけないようにしつつ、かつエリーのイメージが悪くならないようにかなりの低速かつ車体をふらつかせないように走っているからだ。低速での安定走行は難易度が高い。

それでもエリーにとっても領民にとってもこの帰還は念願のものであろう事は私にも理解できる。

だからこそ、今は私の技術でこの再開をよりよい物に演出してあげたいと思っていた。

堀にかけられた跳ね橋を渡る。群衆を抜けた。やりきったぜ!

私が満ち足りた達成感を感じていると、広い庭の先に待っていてくれている二人の姿を見つけた。

ヴァニカ、ミシェル…

スロットルを開き、加速。

「う…うわぁっ!」

ギルバートを振り切って、二人の前で後輪をスライドさせて急制動

「ヴァニカ!」

「お母さん!!」

バイクを降りるなり飛び付いてくる愛しい娘を力一杯抱き締める。

「あぁ、ヴァニカ…ヴァニカ…」

「お母さん、お母さん!!」

無事でまた会えた。もう一度この子を腕に抱くことが出来た。

もう二度と会えないかも知れないと諦めた事もあった。

でも…また会えた。その事を思うと涙が次から次に零れてくる。

「ヴァニカ…よかった…よかったよぉ…」

「ぐすっ…お母さん…お母さん…うわーん」

二人抱き合って声を上げて大泣きする。

たった3日、だが、訪れないかも知れないと諦めたこの時を迎えることが出来た歓びを、私達親子は存分に噛み締めた。


泣き疲れて眠ってしまったヴァニカを膝に抱きながら、私達は応接室の様な部屋のソファに座っていた。

様な、というのはこの部屋の質素さ故だ。

貴族の応接室というのは、来客に対するその家の顔であり、力を示すための空間であろう。しかし、この部屋にはソファ等の最低限の調度品が置かれているほかは絵画も無ければ美術品の類も無い。床は石造りの床そのままで、唯一装飾と呼べそうなのは窓際に置かれた側衛騎馬大隊と公爵領の軍旗、壁の高いところに掲げられたエリーの紋章位のものだ。

「うふふ、やっぱり驚きますよね?」

「あはは、ミシェルも?」

「ええ、初めて入った貴族のお屋敷がここでしたから…聞いてた話と違いすぎてもうびっくりです」

私も貴族の屋敷には数回入った事がある程度なのでそこまで詳しい訳では無いが、男爵家や子爵家の屋敷ですらもっと豪勢でイメージ通りの空間だった。エリーの屋敷が勝っている所と言えば、敷地面積の広さ位のものだろう。

「実はですね、このお屋敷は質素と言うわけでは無いんです」

ミシェルが得意気にこの屋敷について解説してくれた。

「ですよね、ギャビンさん」

「ええ、その通りでございます」

お茶を持ってきてくれたザッカーバーグ氏にミシェルが確認する。なる程、ザッカーバーグ氏に教えて貰ったのか…

ちなみにこのザッカーバーグ氏、執事の様な事をしてくれているがただの使用人では無く家宰である。エリーが叙任した騎士であり、その前は王家でエリーの教育等を担当していたそうだ。エリーの不在時にはその代行として領内の一切を取り仕切る、言うなれば首相の様な立ち位置の人だ。

本来であればこの様な事をするような人では無いのだが、どうやら使用人が殆どいないらしいこの屋敷では何でもやらなくては行けないと言うことだろう。

しかしながら、彼のフルネームはギャビン・セバスティアン・ザッカーバーグという。我々日本人の感覚としては執事らしい名前をしている。それにロマンスグレーそのままな見た目は絵に描いた様な執事のセバスチャンである。

「あれ?ザッカーバーグ…?」

「はい、如何なさいましたか?」

「あ、いえ…エリーが旅の間偽名でザッカーバーグを名乗っていたもので」

ヘンリー・ザッカーバーグが旅の間のエリーの偽名だ。

「ああ、そうでしたか…」

一瞬ザッカーバーグ氏の目元が優しく緩む。

幼い頃から育ててきたエリーが、偽名とは言え自分の名を名乗ってくれたことに、何かしら思うところがあるのだろう。

「そういえば、このお屋敷って軍事拠点にするためだけに質素なわけでは無いですよね?」

「ほう…と、言いますと?」

「改革はお金がかかりますから…」

もちろん軍事拠点としての役割も真実ではあるのだろう。しかし、ここまで極端な質素さでは周辺諸侯に侮られて、収穫期の騎士団による襲撃に置いて無闇な長躯侵攻を招きかねない。

対外的に軍事偏重的思想を提示する事によって周辺諸侯に対する示威行為にもなると言うことだ。

この領地の様々な改革の話は以前から聞き及んでいる。

潅漑事業、農地拡張、作物の品種改良を含む農政改革、騎馬屯田兵である農騎兵を中心とする抜本的な軍制改革、その為の農耕馬の品種改良、農騎兵向けの装備の開発、流通改革による物流網の整備…

エリーの実行した改革はそれこそこれでは収まらない程だ。それもここにあげたものは、金のかかるものばかりである。

収穫量や税率から、歳出と歳入を考えれば未だ元は取り切れてはいないと思われる。少なくとも豪勢な調度品を飾る様な余裕は無いはずだ。エリーらしいと言えばエリーらしい。

「これはこれは…いやはや…」

「どうだ、ギャビン!ユーコは賢いだろう?」

着替えを終えたエリーが部屋に入ってくる。

着替えと言っていたのでドレス姿を期待していたのだが、シャツに紐タイ、乗馬ズボンにロングブーツ、腰にはサーベルを佩き、肩に側衛騎馬大隊の長外套を羽織っている。うん、格好いいけど求めてたものと違う!

「ええ、とても聡明な方で御座います。王都の文官にも劣らぬお知恵で御座いますな」

なんか褒められている。舐められないようにかましたのが効いたようだ。

「それはそうと殿下、ご用意しておいたお召し物はどうなさいましたか?」

「いや、その…なんだ?ほら、私には似合わないかなぁ…って…」

なんか知らないけどエリーがタジタジになっている。

「いえいえ、ご安心を、殿下にお似合いになるものを選んでおりますので。それと、その話し方は如何なさいましたか?」

「違う!その…えーっと…あれだ!私は軍の指揮官であるからして-」

「ここでは殿下は女公閣下でいらっしゃいますよ?」

エリーがちらりとこちらを見る。私は首を横に振る。

恐らくはお行儀みたいな話だろう。何しろザッカーバーグ氏はエリーの教育係を経てここに居るのだから

「先ずはお着替えをなさいますように」

「だが…」

「何で御座いますか?」

「うーっ…」

ああ、可哀想に…

「ザッカーバーグさん、服に関してはドレスとかだと緊急時に鎧が着にくくなってしまうのでは無いですか?」

「ふむ…確かにそうですな…」

「ユーコ…!」

「ただ、話し方は私も直した方がいいと思いますけど」

「…ユーコ?」

半分は助け船を出す。何せ今は非常事態だ。ドレス姿もみたかったが、今日は我慢して口調だけお姫様して貰おう。

「殿下?親しき仲にもで御座いますよ?」

観念したようにエリーはソファに腰をおろす。

「…ですがギャビン、兵達の前に出るときはいつも通り話させて頂きますよ?」

「ええ、そちらに関しましてはお任せ致します」

「それで…ユーコ様、ミシェル様」

「ぶふっ…」

「ユ、ユーコさん!」

駄目だ、面白い…

「ご、ごめんごめん」

「ユーコ様、後で覚えていらして下さいませね?」

引き攣った笑顔で、口調は姫でエリーが凄んでくる。

「はぁ…それでこれからの事なのですが…」

「王都で王様に直訴…だよね?」

エリーが肯く

「ここまで一緒に来て頂いたこと、心から感謝しております。ただ、ここからは私と兵達で王様に向かいますので、お二人はこの地でお待ちくださいませ」

「へ…エリーさん?」

ここに来るまでにも聞かされた話だ。

「危険なのです…一つ間違えれば戦になるほどに…」

軍を率いて上洛し、その武威をもって国王に会談を迫る。

王宮が武力鎮圧に乗り出すとあれば近衞軍の屯営に檄文を出して反乱を扇動してでも実行する。

国家の危急存亡の危機が、白雪の魔女の復活という不確定要素を知ったエリーが決断した、今までとは根本的にレベルの違う強攻策だ。

「エリー、それで…王様への直訴については良いよ?そこはここに来るまでに話したからね…ただ、他の事については解決出来たの?」

具体的には近衛卿がエリーの名を騙っていた証拠、そして第二王女と賢者について…つまり白雪の魔女の復活を目指す一団の脅威

「特に白雪の魔女関係の対策がとれるとしたらミシェルだけだし、私は怪しまれる事無くミシェルを王都に入れられる」

世界の循環が乱れるのが白雪の魔女の復活の条件で、その復活に必要とされるのがエリクサーでありそのエリクサーは世界の循環を壊しうるものだ。

「エリクサーはミシェルが不活性化の方法を知ってる。賢者については…私の話を聞いてくれるかも知れない。…私が思っている通りの人なら…」

マダムが賢者であれば…

「お…王都は木々も多いので、私も力を使えます。もし必要なら近衛卿の家から証拠を探し出す事も出来るはずです!」

「近衛卿については別働隊を出して身柄を押さえると共に、屋敷を捜索して証拠を探します。賢者と刺客も陛下との会談の後に王国軍の戦力で市内を捜索して殲滅、第二王女の身柄も王都の警衛と協力して押さえます」

エリーなりの対応策、純粋な軍事力による制圧作戦

「エリー、確かに圧倒的な軍事力で直接叩くのは殆どの場合どんな作戦を考えるよりも効果的だと思う。でも王様との会談の証拠を得る為に近衛卿の屋敷を軍隊で襲撃したら、戦争になって会談どころじゃ無くなるよ?それに会談の間、刺客を放っておいたらどうなると思う?相手はこの国を恨んでる。王様と一緒に襲われるかも知れないよね?第二王女の身柄もそうだよ、きっと騒ぎを聞きつけてどこかに逃げると思う。もし私とミシェルを先に王都に行かせてくれればそういう問題を解決出来るの…」

「しかし…王都は危険だから…」

エリーは優しい。きっと私達の事を連れていってはくれないだろう。それは分かっている。それでも、私達にしか出来ない事もある。

「だ、大丈夫です!いざとなったら飛んで逃げられますし」

「うん、私も危険そうなら日本大使館に逃げ込めば自衛隊…軍隊もいるから安全に保護して貰える。だから…ね?」

幾ら刺客が強いといっても完全武装の陸自部隊が駐留する大使館に逃げ込みさえすれば敵手も足も出せないだろう。日本政府が脅威として判断している戦力はあの連中程度のものでは無い。

「はぁ…全く、何が危なくなったら逃げるよ…だ」

エリーが溜息交じりに言う。

「分かったよ…最後まで一緒に行こうか…」

「ありがとう、エリー」

「一緒に頑張りましょう、エリーさん!」

三人で拳を合わせる。

「あたしは?あたしも行く!」

「ヴァニカ、起きてたの?!」

いつの間に目を覚ましていたのだろうか…しかし

「ヴァニカはお留守番してて、ね?危ないからね」

「さっきお母さん危なくないって言った!」

痛いところを突かれる。でも連れて行くわけにはいかない。

「お母さんとミシェルだけなら平気だけど、ヴァニカの事は守ってあげられないの…分かるよね?」

「あたし、泥棒もできるよ?匂いだって分かるよ?精霊様の匂いだって分かるよ?追っかけられても逃げられるよ?」

「うん、ヴァニカが凄いのはお母さんよく知ってるよ?でもこれは駄目なの…分かって、お願い」

「分かんないよ!もうお母さんが…みんなが危ない目に合ってるのに待ってるのは嫌だよ!」

今までとは違うはっきりとした口調でヴァニカは言う。

「ミズナラの街で経験したことはさ、思い出すのも嫌な事ばっかりだけど…それでもお母さんやみんなの為ならあの時の経験を使おうって思えるの。だからね…あたしも連れて行って!あたしだってお母さんの役に立てるんだ!だから…だからもう…あたしを…あたしを置いていかないで…お母さん…」

何が切っ掛けになったのかは分からない。精神が退行するのが心の防御機構の成したものだとすれば、きっとそれが解き解れたと言うことだろう。

大切な娘が私のことをここまで思ってくれるのは母として非常に嬉しい。しかし、それ故にヴァニカの言葉に応じることは出来ない。ヴァニカの母として…

「分からないこと言わないで!ヴァニカ、貴方はまだ子供なの!危ないところに連れて行ける訳ないでしょ!」

「分かんないことを言ってるのはお母さんでしょ!何かあったときお母さん一人じゃ何も出来ないくせに!」

「貴方が危ない目に遭うなんてお母さんには我慢できないの!」

「私だってお母さんが危ない目に遭うの我慢できるわけ無いでしょ!」

言葉を重ねる程に、自分で墓穴を掘っているのが分かる。

ヴァニカは賢い子だから、言っている言葉は正しいのだろう。でも正しいからといって折れる訳にはいかない

「あー、二人ともちょっと待って貰って良いかな?」

エリーが口を挟む

「それなら、ユーコ…君はヴァニカと一緒にここで待っていてはくれないだろうか?」

「そうですね、ユーコさんに何かあればヴァニカちゃんが悲しみますから」

「ヴァニカ、ユーコと一緒にここで待っていてくれるかい?」

「ちょ…エリー?ミシェル?」

私を置いて行こうと言うことだろう。

だが、もしそれでヴァニカが言うことを聞いてくれるというのなら、それも仕方が無いのかも知れないとも思う。我ながら酷い奴だ。娘と友達を天秤にかけているのだから…

「エリーとミシェルも残るんならあたしも残る」

「は?」

「え?」

「ん?」

私達三人が同時に、思いがけない答えに言葉を失う。

「さっきあたし言ったよね?あたしはみんなが、お母さんもミシェルもエリーも、みんなが危ない目に遭っているのに待つのが嫌なの!」

「いや…そうは言っても」

「あたしね、お母さんがあたしを助けてくれたとき本当に嬉しかったんだよ?ミズナラの街に来て初めて優しくされて…初めて誰かに守って貰って…泣いてるときに初めて優しく抱き締めてくれて…」

ヴァニカがこちらを見つめて穏やかに言う。

「お母さんと離れ離れになって心細くなってたあたしを、ミシェルは元気付けてくれたよね?いつも優しくしてくれて、お母さんがいないときにもいつも傍にいて慰めてくれたよね…ミシェルはね、あたしにとってミシェルはお姉さんみたいな人なの」

ヴァニカがミシェルの手を握って言う。

「エリーはさ、シャラの街であたしを信じてくれた。守ってくれた。守られてばっかりだった私に、役目をくれた。ただ守るんじゃ無くて、信じてくれたエリーは、きっと私にとって初めて出来た友達だと思ってる。おかしいよね…王女様と友達だなんて…」

「おかしいもんか…君は大切な友人で大切な友人の大切な娘だ」

俯くエリーの頭をヴァニカが優しく抱く

「そんな大切なみんなが危険な目に遭っているのに、あたしなら力になれるのに…それなのに待っているだけなんて…もう…嫌だよ…嫌なんだよ…」

私達がヴァニカを大切に思っているように、ヴァニカもまた私達を大切に思ってくれている。

そして、もう私にはヴァニカを思い留まらせる言葉は一つも残っていない。

「はぁ…ミシェル、あの剣まだ持ってる?」

「は…はい持ってます」

それは敵の持っていた魔法の剣

「ヴァニカ、分かった。連れて行くよ」

「え…良いんですか?」

「いいの?」

「ただし、出発までにミシェルから魔法の剣の使い方を教わって使えるようになることが条件。これだけは絶対に譲れない」

魔女でも無ければ使えないとシャラの街の錬金術師は言っていた。

ヴァニカは魔女を凌ぐほどに火の精霊の恩恵を受けていると雪冠の魔女は言っていた。

それならば、きっとヴァニカならあの剣を使うことが出来るだろう。

「分かった!あたしやるよ」

「なるほど…確かにヴァニカちゃんなら」

ミシェルは察して納得してくれた様だ。

「ふむ…それなら、私からも連れて行く為の条件を出させて欲しい」

エリーも条件を出すらしい。

「空いている時間は私かオドゥオールかリカルドかギルバートから剣の稽古を受けること、良いかな?」

「分かった。やる!」

暫くの間、ここには滞在することになる。その間にせめてエリー達から身を守る術を学んでくれるのならば安心である。

「それじゃあ、改めて」

私は拳を突き出す。

「ああ、みんなよろしく」

エリーが拳を出す

「お願いしますね」

ミシェルが控えめに拳を上げる。

「えっと…あたしも頑張るから!」

ヴァニカが焦ったように拳を上げる。

「それじゃあみんなっ、よろしくっ!!」


王都 市街地

エリクサー、それは錬金術師の夢であり人類の悲願である不老不死を齎す仮説上の物質

長い歴史の中ですらその精製を成した者は伝説を含めても片手の指に足りる程だ。

完全な物質、単体において完結し、完成されているとされているそれは、しかしその実不完全なものであり、ぞれによって得られる命にはいつか終わりが訪れる。

何故ならばそれは完全な物質がこの世に落とした影に過ぎないから…。

彼女自身エリクサーの精製に成功した事は無い。

彼女が行ったのは飽くまで抽出にすぎず、しかしそれを行うことが出来たのは完全な物質が彼女の元にあるからである。

いや、むしろ彼女自身が完全な物質の為にあると言ってもよいだろう。

存在その物がこの世界に許されることは無く、この世界そのものを完全な物質は許さない。

この文明において、仮説すら提唱されぬ真に完全な物質

かつてこの世界にその物質を存在させようとしたとある国は、一秒を数兆に等分し更にそれを何度も細かく等分したよりも短い時間精製した瞬間に跡形一つ残すこと無く消え去った。

歴史上において…忘れ去られた遠い歴史の中においても、その精製と制御に成功したのはたった一度だけ

世界に許されないその物質は、真の賢者の思索の内にしか存在を許されない。

人々はその有り様を評してこう呼ぶ。賢者の石、と

彼女はそれを抱く者として自らをこう呼ぶ。賢者、と


正化8年7月11日

ビャクダンの町 白銀の館

私とミシェルが今後の方針に関する会議に出席をさせて貰うことになったのは、私が別働隊の立案者であると言うことと、敵が魔法に類する技術をもっているというそれぞれの理由からだった。

今日の会議は現状認識の共有で終わったが、暫くの間はそれぞれの細かい行動等の摺り合わせで、毎日会議に臨むことになる。

会議を終えて、新鮮な空気が欲しくなり館の外に出ると、そこではヴァニカとギルバートが激しく木剣をぶつけ合っていた。

ヴァニカは生来の敏捷性と脚力を生かしつつ、まるで猿のように飛び回り、ギルバートを斬りつける。

しかし、ギルバートは殆どその場から動かずに、切っ先を躱し続ける。

たまに木剣が交差したかと思えばどういう原理かヴァニカが地面に転がる。正直何がどうなっているのやら、目で追うことすら出来ずにぼうっとその様子を眺める。

何度転がされてもすぐに起き上がって果敢に攻め込むヴァニカ、その全てを軽々といなしていくギルバート

ふと、ギルバートがこちらに気が付いたようだ。サクッとヴァニカを転がした。

「そこまで!」

めげずに起き上がったヴァニカを止め、彼女を伴ってこちらにやって来た。

「どうも、今日の会議は終わったんですか?」

「うん、現状の共有だけだったからね。それでヴァニカはどう?」

昨夜の宴会でギルバートとは随分打ち解けられたように思う。最初は雑で馬鹿力のとんでもない奴かと思ったが、話してみると、なんというか愛すべき馬鹿と言った感じの気のいいあんちゃんだった。

「凄いですよ!身体能力もさることながら、根性が凄いです。殆ど休憩もせずにずっと向かってきますからね、娘さん良い剣士になれますよ!」

剣術についてはよく分からないが、かなりの素質があるらしい。

「そっかあ、頑張ってるんだね、偉いぞ」

「へへっありがと、お母さん」

ヴァニカの頭を撫でる。

「先生、もう一本お願いします!」

「いや、今日はここまで。魔女様の修行もあるだろう?」

「はいっ!明日もお願いします!」

汗だくで息のあがったヴァニカに対して汗一滴かいている様子も無いギルバートは手を振りながら町の方に向かっていく。あれで側衛騎馬大隊騎士の中では実力は下から数えた方が早いというのだから恐ろしい。

ただ、人に教えるということに関しては定評があるらしく、エリー直々にヴァニカの教育担当に選ばれた。

エリーが指定した教育担当四人の中では唯一会議に不参加であり、実質的に彼がヴァニカの師匠と言えるだろう。

「お母さん、ミシェルも会議終わった?」

「うん、終わったけど…先に水浴びしてこよっか、そのままだと風邪引いちゃうからね」

「うん!」

「じゃあ、お母さん着替え持っていってあげるから、水浴びしててね」

ヴァニカを見送り、私達の部屋に戻る。

着替えをもって井戸のある所に向かうと、彼女は気持ちよさそうに水浴びをしている最中だった。

傷や骨折、痣も治ってはいるが、どうしても傷跡が残ってしまっている。

それでもその体は出会ったばかりの頃とは違い、溢れ出るほどの生命力に満ちているように見えた。

特に髪の毛と尻尾の毛並みはガサガサだったあの頃とは違って、正に鳥の濡れ羽色に艶めいている。

「ありがとう、お母さん!」

ヴァニカがまるで犬のように体を震わせて水を飛ばす

「もー、つめたいよ」

「へへっごめんね」

タオルで髪の毛を拭いてあげると、少し照れくさそうにしている。

「お母さん…自分で拭けるよぉ」

「ふふっもう拭き終わったよ、後ろ向いて?」

「尻尾は自分でやる!」

ヴァニカは私の手からタオルをとると自分で尻尾を拭き始めた。彼女曰く、尻尾はくすぐったいから触らないで欲しいらしい。

全身を拭き上げて、新しい服に着替えるヴァニカ

「それじゃあミシェルのとこ行こうか!」

「うん!」

ヴァニカの手をぎゅっと握って歩き出す。

小さなヴァニカの掌は、何だか自身に満ちているような、力強い様な…少し、そんな気がした。

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