篝火
彼女が目を覚ますと、そこはベッドの上だった。
窓からは明るい陽射しが注ぎ込み、吹き込んでくる高地特有の爽やかな風は木々のさざめきと共に静かな森の喧騒を伝えてくれる。
ふと体に触れる柔らかな感触に気が付き隣を見やると、ヴァニカが穏やかに寝息を立てている。
「目が覚めたかい?」
ベッド脇の椅子に座るエリザベートが優しい微笑みを湛えながら聞いてくる。
「はい…ごめんなさい、迷惑をかけてしまったみたいで」
ミシェルは離れに入った所までは覚えているものの、その先は覚えていない。
だが、どうせ迷惑をかけてしまったのだろうと、心中に断じた。
「気にすることは無いよ、余程疲れていたようだったから、悪いが寝室まで運ばせて貰った」
(やっぱり迷惑をかけてるじゃ無いですか…)
どうしてこうも皆の足を引っ張るような事しか出来ないのだろう?どうしてこうも自分は役立たずなのだろう…
「ユーコは今、君がいつ起きても良いようにと、台所を借りて何やら作っている様だ。ヴァニカの事は君が体を冷やさないようにと布団の中に突っ込んでいったが」
こんな自分にこうも優しくしてくれる友人達、常であれば心を支えてくれるであろうそれが、今の彼女にとっては心の奥にチクチクと突き刺さる針の様にすら感じられていた。
不安定であるが故の心の揺らぎ、それは不甲斐ない自分への嫌悪という揺れを受け、よりその波紋を広げて行く。
「ふいー、出来たでき…あ、ミシェルおはよう!ご飯出来てるよ!食べる?」
扉を開け、お盆を手に入ってくる遊子の屈託のない笑み
「んぅ…ん?ミシェル大丈夫?」
起きてすぐだというのに他人の心配を口にするヴァニカの曇りのない瞳
「ふふ、まずは腹ごしらえをして、今日は一緒にのんびり過ごそう。たまにはこういう日があっても罰は当たらないさ」
ずっと傍らについていてくれたのであろうエリザベートの慈しむ様な眼差し
とても暖かく、掛け替えのないモノであるはずのそれが、今のミシェルには苦しく暗い想念を抱かせる。
「…といて」
そんなことを言っては駄目だと、心では分かっている。
「ん?どうしたんだい?」
「ほっといて下さい!!」
言ってしまった。
そんなことを言いたいわけでは無いのに、大切な友達なのに…
「ミシェル…何を…」
「もう良いんです、私のことなんてほっといて下さいって言ってるんです!」
まるで堰が切られた様に口から流れ出る言葉は留まること無く続いて行く。
「どうせ私なんかユーコさんみたいに賢くも無い!エリーさんもみたいに強くも、ヴァニカちゃんみたいに愛されてもいない!私は貴方達とは違うんです!どうせ貴方達だって私のことなんて友達だなんて思ってないんでしょ!だからもう…ほっといて…」
部屋の中に沈黙が訪れる。
こんな事を言いたかったわけじゃ無い、そんな顔をさせたかったわけじゃ無い…それなのに…
暗い情念に突き動かされるまま放った言葉の矢は、皆を傷つけてしまっただろう…
矛盾する気持ちに耐えられなくなったミシェルはベッドから起きると、足早に部屋を出て行った。
「ミシェル…」
「待って!ミシェル!!」
そしてもう一つ、小さな黒い影がその後を追いかけていった。
箒に飛び乗って逃げるように館を後にしたミシェルは、罪悪感と自責の念に押し潰されそうになっていた。
自分を心の底から心配してくれた人達に、なんてことを言ってしまったのだろう、と。
当てもなく飛び、辿り着いたのは森の中の小さな池の畔だった。
いつも辛いことがあると決まって彼女が訪れていた場所
一人で誰にも見られない様に泣いていた場所に、引き寄せられるように来てしまっていた。
取り返しのつかないことをしてしまった。大切な筈の宝物を自分の手で壊してしまった。
彼女は一人、声を上げ泣いた。
誰にも見られないこの場所で
誰にも気付かれないこの場所で
言葉に出来ない思いを吐き出すように
たった一人で、声を上げ泣いた。
どれくらいの時をそうやって過ごしただろうか…空を見上げれば太陽は西に傾き、今日という日との別れを告げるように、切なく赤く輝いている。
(皆、心配してるだろうな…)
彼女は膝を抱えて蹲る
(きっと怒ってるんだろうな…)
あんな酷いことを言ってしまったのだ。怒っていて当然だと、彼女は思う。
(もう、帰れないよ…)
このままどこか遠く、自分を知る人のいない場所に逃げ出してしまおう…そう、彼女は思う。特に宛があるわけではない。ただ、もうあの場所には戻れないから…
(どこか…遠い場所へ旅に出ようか…)
箒にのって自由気ままに旅に出る。
そんなことを想像して、しかし彼女の頭に浮かぶのは、楽しかった思い出
イミカミを送った後の宴、シラカバの街の湯治場でのんびり過ごした時間、ミズナラの街の外で開いた大宴会、エリザベートの剣を探して皆でわいわい騒いだ記憶、ヴァニカに遊子の話をせがまれた逃走中の出来事…
とても大変な旅の道中で出会った、しかし掛け替えのない旅の思い出が、かき消そうとしても、次々頭に浮かんでくる。
思えば助けて貰ってばかりの旅だった。それなのにあの二人は全幅の信頼を寄せてくれた。
こんな何も出来ない自分に…
イミカミを送った時、薬はあるか、呪文は知っているかとは聞かれたが、出来るかとは聞かれなかった。
シラカバの街で刺客に襲われ、師匠の元に逃げ込もうと言ったときも、師匠の身が危ないのでは無いかとは言われたが、判断を疑われることは無かった。
ミズナラの街では遊子の大切なヴァニカを何の躊躇も無く預けてくれた。
そんな大切な友達を裏切ってしまったと思うと、また涙が溢れ出てくる。
ふと、がさがさっと音がする。振り向くとそこにはボロボロに傷付いたヴァニカの姿があった。
「ヴァニカちゃん?!」
「あ、ミシェル…やっと見つけた」
弱々しく呟いたヴァニカは、片足を引き摺りながらミシェルに歩み寄る。
「帰ろう?皆、心配してる」
差し伸べられた小さな手
自分も怪我をしているのに、真っ先に他人を心配してみせる。
「大丈夫?泣かないで」
きっと自分も心細かったろうに、真っ先に他人の悲しみに手を差し伸べる。
誰よりも辛い経験を経てきたのに…いや、であるからこそきっとヴァニカは他人の悲しみに真っ先に手を差し伸べるのだろう。
彼女は思い返す。遊子もエリザベートも、耐え難い程の辛い経験を乗り越えて尚、他人に手を差し伸べ、ひたすらに前を向き歩き続ける。
(本当に強いなぁ…)
彼女らの強い光に照らされて、薄暗い影の様な自分の姿がよりはっきりと、醜く映し出される様だ。
「ミシェルなんで泣いてるの?嫌だよぉ、分かんないよぉ…」
ヴァニカの目に涙が溜まっていく。
「ごめんね…私皆に酷いこと言っちゃったから…だから、もう帰っちゃ駄目なの…」
「駄目じゃない!ねえ、一緒に帰ろうよぉ…」
二人して泣きながら、思いをぶつけ合う
話すのでは無く、ただ吐き出すように
「私が…私が…駄目だから…役に立たないから…私なんか…何にも出来ないから」
「駄目じゃない!ミシェルが、ミシェルが助けてくれたんだもん!ミシェルは凄いって、ミシェルのおししょうさんも言ってたもん!ミシェルは凄い魔女なんだもん!」
まるで子供の喧嘩のように、ただ吐き出すだけ。会話にすらなっていないやり取りを繰り返すうちに、辺りは薄暗くなってきていた。
疲れからか、二人のやり取りは徐々にトーンを落とし、穏やかなものに変わっていく。
「ユーコさんとエリーさん…きっと怒ってるから…」
「怒ってないもん…お母さんもエリーも…ミシェルのこと大好きだから怒んないもん」
「私、嫌われて無いかなぁ…」
「嫌われてない…だってあたしもお母さんもエリーもみんなミシェルのこと大好きだもん」
ミシェルはヴァニカをぎゅっと抱き締めた。
「私…皆のとこに帰りたいよぉ…」
「帰ろうよ…みんな待ってるよ…?」
胸の奥に溜まった澱が取れたように、くすんで見えていた景色に色が戻る様に、どこか晴れやかな気持ちでミシェルはまた声を上げて泣いた。
出来が悪かろうが、役に立たなかろうがそれが一体何だというのだろう。
そんな自分の事を、待っていてくれる人がいる。愛してくれる人がいる。その事に比べれば、他のことなど取るに足らないことだと思い至ったミシェルの、それは暖かい歓びに満ちた涙だった。
ミシェルとヴァニカの二人が雪冠の魔女の館に戻ってきたのは、日もすっかり暮れ、月と星々が満天を埋め尽くす頃になってからだった。
泣き疲れたヴァニカはミシェルの背に負われ、すうすうと穏やかに寝息を立てている。
(ありがとうございます、ヴァニカちゃん…)
危険も顧みず、自分の匂いだけを頼りに追ってきてくれた少女に心中感謝を伝える。
彼女がいなければ今頃は…と、考えるのも嫌だ。だから、考えないと思える程に、今の彼女の肩の力は抜けている。
ミシェルは決めていた。先ずは、謝ろうと
「二人とも、ごめんなさ-」
「ミシェル!!」
ミシェルの謝罪を遮るように、遊子が泣きながら抱き付いてくる。
「ごめんね、私が余計なことしちゃって、ミシェルに嫌な思いさせちゃったから」
「え…ちょ…ちょっと待って…」
「辛かったんだよね、大変だったんだよね…それなのに…」
「だから待って下さいってば!なんでユーコさんが謝るんですか…私の方こそ皆に酷いことを言ってしまって、本当にごめんなさい…」
「私、ミシェルに嫌われちゃったんだって…」
「嫌いになんてなるわけ無いじゃ無いですか…私の方こそ嫌われてしまったと思ってました…」
「へへっ、そっか…よかったぁ…」
「それはこっちの台詞ですよ」
抱き合い、泣き合い、笑い合いながらミシェルは思う。
そうだ、この人はこういう人なのだ。一体私は何を恐れていたのだろう…と
「ふふっ、二人ともそんなところで座り込んでいたら風邪をひいてしまうよ」
いつも通りの優しい微笑みで、エリザベートが言う。
「お帰り、ミシェル」
「はい、ただいまです。エリーさん」
少し遅い食卓をみんなと、そして何故か雪冠の魔女と囲む。
「ほらほら、ヴァニカちゃん、まだ眠いですか?」
「ううん…眠く…ない…」
ミシェルに続いて館を飛び出していったヴァニカは、たった一人で森の中を走り、彼女を追いかけていった。
恵みの子の走力であっという間に見えなくなったヴァニカはこうして無事にミシェルを連れて帰ってきてくれた。
「それにしても…心配だったのは分かるけど、一人で森の中に入っちゃ危ないって言ったでしょ?」
「うん…ごめんなさい…お母さん」
一応注意はするが、何分結果が結果だ。これ以上言う気にはなれない。
「うん、分かってくれればいいよ、ほらもう寝ようね?」
「んぅ…まだ起きてる…」
愚図るヴァニカを抱き上げてベッドに連れて行く。寝室に辿り着く前に眠ってしまった。余程疲れたのだろう。
ベッドに寝かせ、毛布を掛ける。
「お疲れさま…ありがとうね」
ヴァニカにキスをして暖炉の部屋に戻る。
「ヴァニカさん、余程疲れたんでしょうね」
雪冠の魔女が言う。
ミシェルを探して森を走り回ったヴァニカは自身も怪我をしているのに一日中走っていたというのだから、起きていたのも驚異的だろう。我が娘のフィジカル恐るべしである。
「本当にごめんなさい…皆さんに迷惑をかけただけじゃなく、ヴァニカちゃんも危険な目に会わせてしまって…」
「本当に心配したんだよ?」
「本当にごめんなさい…私のせいで…ヴァニカちゃん」
「そんなに暗い顔しないの!心配したのはヴァニカだけじゃ無くてミシェルの事もなんだからね?本当に二人とも怪我が無くてよかった…」
どちらかと言えば、ミシェルの方が危うい感じがしていた。あんなミシェルを見るのは初めてだったから
「まあ、もう少し帰りが遅いようなら迎えに行こうと思っていましたが、ヴァニカさんのお陰でミシェルも溜まったモノを吐き出せた様でしたから…それでも、この子がヴァニカさんを危険な目に合わせてしまって本当にごめんなさい」
「だから良いですって!二人とも無事だったんですから…ん?迎えに…」
「まさか師匠…」
「ええ、最初から全部見ていましたよ?いつもの池の所でしょう?」
森と一体になる。と言うやつだろうか?
「えぇ…それならそうと言って下さいよ…」
「ごめんなさいね、二人が危険な目に遭わないように目を離せなかったものだから」
結局ずっと二人はこの人に守られていたというわけだ。流石は偉大な六英雄の一柱と言うことだろう。いや、祖霊として祀られていたりもするがまだ存命だから一人…かな?
「胸の閊えは取れたようですね」
「はい…沢山心配をかけてしまいましたが、もう大丈夫です」
そういうミシェルの表情は、今までよりずっと自信…というか余裕の様なものが感じられる。もう、心配は無さそうだ。
こんこんっとドアをノックする音
「はーい、どうぞー」
ドアを開けて入ってきたのはイメルダ
「ユーコさん…頼まれてたもの…買ってきました…」
どすんっと両手に持ったガソリン携行缶を床に降ろす。
20l携行缶2本、ざっくり40kgだ。さぞや重かった事だろう。
「あら、イメルダお帰りなさい」
「あれっ…師匠、ミシェルお姉様、何でこんなところに?」
「皆さんとちょっと遅いお夕食を」
「ほらほら、イメルダも座って座って!帰ってきたばっかりでしょ?今スープよそうから」
大分疲れた様子だ。まあ、あれだけの重量なら当然か。悪い事をしてしまったなぁ…
取り敢えず労おうと、急いでスープを彼女の前に置く。
「あ、ありがとうございます…っていうか、ガソリンってなんなんですか?妙に重いし中で動いて運び難いし」
難しい質問だ。揮発性の高い石油生成物質…等と言っても、そもそも石油の採掘や精製があまり盛んで無いこの世界で通じるとは思えない。
「んー、よく燃える水?」
「酒精の様なものですか?」
「そうそう、まあ作り方とか入っているものとか細かいところに違いはあるけど大体そんな感じ」
酒精、エタノールは一時期ガソリンの代替燃料として騒がれていたこともあるバイオエタノール燃料なんてものもあった。腐食性がどうのとか、原料の生産の環境負荷がどうのとかで最近はめっきり見なくなったが…
「そんな物が入っていたんならそりゃ重いわけですね…」
軽くむくれた様子のイメルダ。まあ、他にも買い出しがあったろうから、大変だったのは想像に難くない。
「まあ良いです。そのかわり約束はちゃんと守って貰いますからね!」
「分かってるって!」
「約束?何の話です?」
「そっか、あの時ミシェルはいなかったもんね。ガソリン買いに行く変わりに私達の裸を見たいん-」
「わーっ!わーっ!!わーっ!!!」
イメルダが遮るように騒ぐ。あちゃあ、言っちゃ駄目な奴だったか…
「わーっ!じゃありません!!全く貴方って子はまた…」
「お姉様ごめんなさいぃ…つい出来心で」
ミシェルに怒られて小さくなるイメルダ
「ユーコさんごめんなさい。この子研究熱心なのは良いんですけど、珍しい人種の方を見ると誰彼構わずこんな調子で…」
「ん?私は普通のウェスタリア人だが…」
これに関しては出来心というより下心だ。まあ、黙っておこう。
「多分王族の方が珍しいからだと思います」
「ふふっ」
ミシェルの勘違いに雪冠の魔女が小さく吹き出す。あ…見てたなこの人…
「この子のしたお願いは忘れて下さい」
「そ…そんなぁ…」
「そんなもこんなもありません!!」
「ミシェル、折角頑張ってガソリン買ってきてくれたんだからそれくらい別に大丈夫だよ?」
「ユーコさん…」
苦手な錬金術師のところにも行ってくれたのだ。それで何も無しだと可哀想すぎる。
「それに女同士だし、変なことはしないでしょ?気にすること無いって」
「そうだね、私も構わないよ」
まあ、少なくとも私とヴァニカには、だが。
「うーん…ですけどぉ」
「ミシェル、遊子さんと殿下が良いというのですから、今回はお言葉に甘えさせて貰いましょう。ただしイメルダ、次同じ事をしたらお説教ですからね」
「は、はいっ!!」
年をとると説教は長くなるが、3700才である。きっとえげつない程長い説教なんだろう。
「そういえば、クヌギの街に変な連中がいました。あれなんなんでしょう?」
「変な連中とは?」
「なんかフードを深く被って見るからに怪しい連中なんですけど…なんて言うんでしょう…近くにいると凄く気持ちが悪いっていうか…嫌な感じがするんですよね」
「それって…」
嫌な予感がする。
「ええ、例の刺客ですね。何日か前からこの辺りを探っているみたいですよ」
「みたいですよって気付いてたんですか?」
「ええ、まあ彼らはこちらに手出し出来るほどの力はありませんから、放っておいても特に害は無いでしょうし」
この余裕である。とはいえ、これ程近くにいるとなると油断できたもんじゃない。
「だが、彼らは貴方の師匠の復活を目論んでいるのだろう?止めなくて大丈夫なんだろうか…」
エリーの懸念は最もな話だ。それこそ雪冠の魔女はその為に悠久の時を生きているのだから。
「ふふっ、大丈夫ですよ、彼らのやろうとしている方法では復活は絶対にあり得ませんから」
「どうして言い切れるんですか?」
雪冠の魔女は微笑み、首元のロケットペンダントを開き、小さな赤茶色の石を取り出す。
「ひっ…」
「い…いやっ…」
ミシェルとイメルダの二人が小さく悲鳴をあげ怯え始める。
「怖いものを見せてしまってごめんなさい」
「これってもしかして…この間言っていたエリクサーですか?」
あってはならない物質と言っていたあれだ。
「そう…これは固体として有り様を固定する事で不活性化していますが、死者の復活にはこれが必要なんです。二人とも大丈夫ですよ、もう仕舞いますから」
またエリクサーをロケットペンダントにしまう。二人はまだ震えが収まらないようである。
「不活性化って…不変の物質なんじゃ無いんですか?」
「よく気が付きましたね、これはあくまで霊薬…完全に近いだけのものです。ほぼ完全な物質であることに変わりはありませんがあくまでほぼ、というだけの不完全なものです。魂を引き戻す必要が無ければ、この程度でも死者は蘇ります」
「では、それがあれば白雪の魔女は復活する…と?」
その問いに雪冠の魔女は首を横に振って否定する。
「これは賢者のエリクサー…正確にはだったものですが、不完全なこれですら、賢者と呼ばれたあの女以外には作り出せた者はいませんし、復活のためにはこれに対して愚者のエリクサーと呼ばれる仮説上の霊薬も必要なんです。しかも愚者のエリクサーはあの賢者すら作り出せなかった」
机上の空論…という事なのだろう。
「それに、それだけ揃えたとしても、復活するのは体の機能だけ」
「魂が…いやでも魂を呼び戻す必要は無いって…」
「ふふっ、遊子さんはあの者達と同じ勘違いをしている様ですね」
「というと…どういう」
「師匠の魂は大いなる循環から外れてこの世界に留まっている。それ故に、師匠が定めたモノを満たさなければ魂は肉体には戻らない。あの者達はそもそも師匠の意志を無視している。その間は師匠を復活させる事など何万年たっても出来はしませんよ」
エリクサーは魂を作るわけでは無い。となれば、本人の意志を無視して呼び戻す事は出来ない。そしてその意志とは
「世界の循環が乱れるとき…」
「そう…師匠が最期に言い残した言葉の意味…あれは負け惜しみでも何でも無く、文字通りの意味…未来を生きる私達に向けたメッセージだったというわけなのです。世界の循環が乱れれば現世に舞い戻り、人々に死を齎してこの世界を救うという…」
「そう言うことなら…暫くは安心できそうですね」
怯えから立ち直ったミシェルが言う。
「私が世界と一体になったとき、世界の輪は閉じて響きは遍く全てに降り注いでいましたから」
ん?どういうことだろう。言葉がふんわりしていて何も分からない…ただ、雪冠の魔女が満足げに肯いているところを見るに正しいのだろう。…多分
「それならあの連中も、自分達のやろうとしていることが間違ってるって分かれば解散してくれませんかねぇ」
そう、追ってこないでいてくれるのならそれ以上の事は無い。
「それならばよいのですけれど、何せ3500年ぐらいの間その教義を信じてきた狂信者達ですからね…そもそも話して分かる相手だと思います?」
「ですよねぇ…」
しかし、悲しい人達だ。
ずっと間違った教えに従い、その事にも気が付かず何代も何代もに渡ってずっとその為だけに生きて、死んでいく…
「あのぉ…」
そんな話をしているとイメルダが小さく手を挙げる。
「なんかエグい話をしてますけど…私が聞いててよかったんでしょうか…」
ああ、目撃者ではあるとはいえこの中では彼女だけがこの件に関しては無関係だ。
「ふふっ、他言無用でお願いしますね?」
「は、はいぃ…」
イメルダ、可哀想に…
正化8年6月4日 雪冠の魔女の館
イメルダから呼び出されたのはミシェルが帰ってきてから3日後、雪冠の魔女とミシェルが儀式の準備のため出掛けて暫く経ってからだった。
「それじゃあ、服はこの駕籠に入れて置いて下さい。じゃあ、先ずはヴァニカさんから失礼しますね?」
全裸で放置されるのは中々に恥ずかしいが、イメルダのやっていることは本人の言葉の通り真っ当なものの様だ。
メジャーを使って体の各部のサイズ、特に骨の長さを測っている。他にも唾液や髪の毛を少し貰ったり、爪を切ったり、鼻に綿棒を入れて何やら採取しているようだ。
「それじゃあ最後に血を採らせて貰いますね?」
ああ、採血か…私はミシェルの後ろに回って体を押さえる。
「それじゃあ、ちょっとだけチクッとしますね」
「痛っ!」
可哀想だが、暴れると危ないだろう
「ヴァニカ、我慢我慢」
この世界には注射器が無いので、イメルダは瀉血の様な手法で血を採っている。
「はい、よく我慢できましたね」
イメルダがヴァニカの頭を撫でる。
「よく我慢できたね、偉いよ」
私もヴァニカを撫でる。二人に褒められて彼女はどこか得意げだ。しかし痛みに強いのは良いのだが、そうなった経緯を考えると、手放しでは喜べないところではある。
「血液に異常が無いかも調べておきますね」
「うん、お願いね」
検査込みなのは有難い。ヴァニカの境遇を思えば心配しすぎるということは無いはずだ。
「それじゃあ、次はユーコさんお願いします」
「はーい…じゃあ、ヴァニカはお洋服着よっか」
「うん!」
私の体もサイズが測られていく。が、脚の長さを測って首を傾げたりエリーと見比べたりするのは止めて欲しい。裸だと腰の位置の違いが顕著に見える。
「えっと…異界の方は皆さん上半身と下半身のバランスはこういう感じですか?」
直接聞いてきやがった!
まあ悪気は無いのだろうが…
「うーん、そういう民族だからかなぁ?私達の世界にもエリーみたいな体型の民族もいるしね」
まあここまでのプロポーションの人間はそうそういたもんでは無いが
「そうすると…肌の色もそうでしょうか?」
「そうだよ、私達みたいな肌の色の人間は黄色人種って言われてるし、貴方達みたいな肌の色は白色人種、黒い肌が黒色人種で基本的にはこの三種類。混血だとか、それぞれの細かい分類とかもあるけどね」
モンゴロイド、ネグロイド、コーカソイド、オーストラロイドの様な呼び名の方が分類学的には正しいのだろうが、内容が複雑なので省略して良いだろう。
「ということは、黄色人種と黒色人種というのは恩恵種の様なものでしょうか?」
「いやいや、3つとも大して変わんないよ。精々個々人の個性程度の違いしかないしね…」
「なるほど…」
たった三つしか無い色で差別しあう地球人の姿を彼らに見せたら驚くだろうなぁとおもう。何しろ全く見た目や個性の異なる人と恩恵種が尊重しあって暮らしているのだから。
「ん゛っ?!え…そんなとこまで?」
「え?ああもう終わりました」
「良いけど言っといてよ!」
「あはは、ごめんなさい。じゃあ後は血を採って終わりです」
血を抜き、すぐに止血する。手際の良さは流石だ。
「はーい、終わりです」
「お母さん泣かなかったね!偉い!」
ヴァニカが褒めてくれたしまあいいか
「それじゃあエリー様はこちらで」
エリーが衝立の後ろに誘われていく。
「それじゃあエリー、ヴァニカの教育に悪そうだから先に戻ってるね」
「え?それはどういう…」
ささっと服を着て、ヴァニカと共に離れに戻ることにした。
「まだ落ち込んでるの?気にするほどでもないでしょ?」
昼食を食べ終わってもまだエリーはうーうー唸っている。
「うー、私だって嫁入り前なんだぞ!あんな…あんな…」
どんなことをされたのかと思えば、私やヴァニカがやられたのをちょっと念入りに調べられたというだけの事のようだ。初心だねぇ
正化8年6月27日 雪冠の魔女の館
ミシェルの独り立ちの儀の準備が整ったのは、ここに来てから一月近くが経った、夏の気配も近い6月の終わりの頃だった。
「見学してみますか?」
雪冠の魔女にそう聞かれた私達はその申し出を受けることにした。
門外不出らしい独り立ちの儀を見学して良いのかと聞くと
「他言無用でお願いしますね」
等と気軽に言われてしまった。そんな感じで良いんだろうか?
魔女の館の一番奥、巨大な木の根が這っている地下室の中、厳かな雰囲気の中で今、儀式が始まろうとしていた。
雪冠の魔女の足元に置かれている香炉から立ち上る煙を見つめながら、ミシェルは呼吸を落ち着ける。
「万象五属遍く萬に広がりたる精霊よ」
雪冠の魔女が精霊に呼びかける。
「広き恵みを齎したもう我等の源よ」
言葉に応じるように、声に乗せて踊るように、種々様々の精霊がこの場に集まり、軽やかに舞い始める。
「大いなる輪と我等を繋ぐ新たな道の成る様を寿ぎ給え」
光り輝く精霊達が、その踊りの激しさを増してゆく
「高く貴き力を持って、我が愛し子を寿ぎ給え」
ふわりと意識が天に昇っていく
「雪冠の名を以て、我が愛し子に新たなる命をあたー」
全ての音が途切れる。
ただ、響くのは力の音色
前にも聞いた世界の鼓動
ゆっくりと力強い世界の鼓動に合わせて、木の精霊がミシェルの体の周りで踊り出す。
新たな門出を寿ぐ様に、生まれ来る新たな命を寿ぐ様に
やがて鼓動はその体の中に宿る
暖かな力の鼓動、胎内より感じるのは世界と彼女の共鳴り
そうか、こういう事か…彼女は理解する。
魔女になるとはどういうことなのかを
精霊をその身に宿すとはどういうことなのかを
やがて意識は己の身体へと戻っていく
「える。新たなる我が愛し子を寿ぎ給え、彼の者の名は篝火」
ほんの一瞬、瞬きの内にその身に宿った胎内の共鳴りは、しかし確かに今も彼女の内にあった。
雪冠の魔女が息を吐く
「これで終わりです。気分はどうですか?」
「なんというか…こういう事だったんですね…」
「ええ、おめでとうございます、篝火の魔女」
ほんの短い儀式が終わる。
私には何も起きていない様に見えたが、しかしミシェルの顔つきが明らかに変わっているのはすぐに分かった。
何が起きたのか…ファンタジー力ゼロの私には何も分からない。だが、ミシェルの中には何かがあったのだろう。
彼女は一人前の魔女になったのだ。
「皆さん、終わりましたよ…どうか寿いであげて下さい。篝火の魔女の誕生を」
雪冠の魔女に言われ、私達はミシェルの元に歩み寄る。
「おめでとう、ミシェル…よかったね…本当に、本当に…」
自信を無くして逃げ出した時の面影は最早どこにも無い。本当に一人前として独り立ちを迎えたのだと思うと、何故だか涙が零れてきた。
「ありがとうございます…ほら、泣かないで下さい」
私の目元を拭ってくれるミシェル、これじゃあ今までと逆じゃ無いか
「おめでとう、ミシェル…いや篝火の魔女殿」
「ありがとうございます。まだ慣れないですね、そう呼ばれるのは…」
ミシェルとエリーが固く握手を交わす。
「…ミシェルから木の精霊様の匂いがする」
「ええ、魔女になりましたから。どうですか?」
「良い匂い!おめでとうミシェル!」
「ふふっ、ありがとうございます」
ヴァニカは自慢のその鼻で何かを感じているようだ。
「篝火の魔女ミシェル」
「はい、雪冠の魔女様」
優しい口調で雪冠の魔女が言う
「水の精霊に愛されその身に木の精霊を宿す貴方は、火の精霊に愛された恵の子の助けを得て、今こうして一人前の魔女となりました。これから貴方は愛する人々を、そして世界を照らし出す光となるように、水に育まれた木が、人々を照らし暖める火を生み出すように…相生相剋する世界の循環を守り育む光となる様にその名を選びました。本当におめでとう、ミシェル」
「ありがとうございます、師匠」
師弟が抱き合う。
暖かくめでたい新たな魔女の誕生
それはしかし、ミシェルとの別れを意味している。
それでも、私は心から彼女を祝福しよう。
大切な友達の、晴れの門出を…




