16、老婆(その2)
「そこに座れ」
老婆は鎌の柄で指したが、家の中に床は無く、室内全てが土間で筵が引いてあるだけだった。
「外と変わんねぇじゃん」
柴崎がまた毒づいた。
老婆は入り口を背にして座った。海月の方を見ると
「おぬし、常陸の国の者か?」と聞いた。
海月は
「はい、常陸の国の筑波郡でございます。京には3年前より白拍子の修行に出ておりました」
と答えると、老婆は涙を浮かべながら
「そうか、おぬしは筑波より出か。わしも近郷の真壁郡の大串郷の出じゃ。こんな所で同郷の者と出会うとは思わなんだ。さっきは悪い事をしたのう?」
と鼻をすすった。
「大串の!お婆さまはどうしてこちらに庵を結んでおられるのですか?」
老婆は声を上げて泣き崩れると
「おうおう、よう聞いてくれた。わしはな、ここに住んでもう10年にもなろうか。郷里にいた頃、わしの家を1人の商人が訪れたのじゃ。その商人は病にかかっておったので、わしは外の田屋に泊らせてやった。しかしその男は疱瘡をわずらっておったらしく、2、3日のうちに死んでしもうた。商人の世話をしたわしも、疱瘡の毒気に侵されたらしく倒れてしもうた。7日7晩うなされて気がついた時には、村の4人に1人は無くなっておった。村の衆は商人を泊めたわしを大層怒って、息子夫婦に娘全てを村から追い出す事に決めたのじゃが、村長のとりなしでわし1人村を出ていくことで許してもろうたのじゃ。わしは方々歩いたがどこに行っても、この疱瘡をわずらった顔を嫌われ、疱瘡の毒気を消すために、この霊峰富士の御山の麓に住み着いたのじゃ」
海月は老婆の肩に優しく手をおくと
「おばあさま、しっかりなさって下さい。私が郷里に戻って、おばあさまの事を御家族に話して、何とかおばあさまが故郷に帰れるようにとりなしましょう」と言った。
柴崎が小声で俺に聞いた。
「俺達、みんな天然痘の予防接種って受けてたっけ?」
宇田川が答えた。
「おそらく受けてない。近年の日本では天然痘は絶滅したからな」
「マジかよ・・・」
柴崎が少し後ろに下がった。
老婆は海月の手を取ると
「真か!そうならば是非頼む。わしは夢にも見るのじゃ。生まれ故郷を今一度この足で踏んで死にたいと。娘も今はとうに嫁に行って子をなしておろう。その孫の顔も一目なりとも見たいのじゃ」
と涙をボロボロこぼしながら言った。
吉岡が冷静に聞いた。
「おばあさんはこんな夜中に、何故焚き火なんてしていたのです?」
老婆は顔を上げると
「海側の山の方角より、夜半からうなり声のような物が聞えてな。土地の者は皆あそこには近かづかん。以前は豊かな海じゃったが藤原様直轄の荘園となってからは、昼でも雲も無いのに雷鳴が轟くようになってな。ある者はどでかい龍や化け物を見たそうじゃ。今は雷鳴は無くなったが、都の兵士や舎人があの地を守っておる。そこからうなり声がしたので、魔除けの護符を燃やしておったのじゃ。そこにおぬしらが参ったのじゃ」
なるほど、俺達が脱走したサイレンが鳴ったせいか。
「ささ、狭い所じゃが夜露くらいはしのげよう。今夜はゆっくり眠ってくれ」
老婆は俺達に一応筵の方を進めてくれた。
自分は外の薪小屋で寝るからゆっくりしていいと言う。
「寝てくれったって、ほとんど地べたにゴロ寝じゃねえか」
柴崎は気に入らないらしい。
「おまけになんか変な臭いがするぜ」
たしかに据えたような臭いがする。でも吉岡が
「まあまあ、夜露に濡れて寝るよりマシだろ」
と横になった。
でもこの家、10畳もないので5人が寝るといっぱいだ。宇田川など一番入り口側で竈のところで
「足は伸ばせないし、寝返り打つと外に出る」
と言って不満を表わしていた。
それでもみんな疲れきったせいか、10分後は深い眠りに入っていた。
夢の中で馬に乗った騎馬武者が海月を追いかけていた。
海月は全裸だった。長い髪をなびかせて騎馬武者から逃げている。
俺は離れた所から見ているのだが、体は金縛りにあって動かない。
だんだん海月と騎馬武者の間隔が狭まってきた。俺は声を出そうとしたが声も出ない。
いつの間にか馬の顔が龍に変わっていて、海月を一息に飲み込もうとしていた。
あせる。だが体はピクリとも動かない。
馬のひずめの音だけが耳に響いた。




