一章:「顰(3)」
車が、道路のそばに体を寄せ、どこか間の抜けた甲高い音を鳴らしながら後ろに下がり始め、まるで自棄を起こしたかのように唐突に止まると、振動で体が微かに揺れる。
目的地に到着したのであればよかったが、生憎そうではなく、寄り道を依頼主が提案した為であった。
車窓の中には微かに茜に染まった雪に覆われた廃教会が、古典宗教の衰退により既に訪れぬ人々を静かに待ち続けていた。
緩慢な動きで自ら開こうとするドアを無理矢理開け、入り込む空気を受けながら外に出る。
一瞬、鼻に冬の匂いを感じる。無論、私の肉体では実際に感じるはずなどないのだが、未だ私の脳は度々遠い過去に郷愁を覚えてしまうようだ。
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私が外であたりを見渡している内に、彼女らも後から車を降りてくる。丁度足首まで積もった雪に降りる彼女らの足元を見て、ようやく一つの疑問、と呼ぶには余りにも些細な違和感が解けた。
辺りは遠くに望む人工の山々と、それを背に居座り続ける廃教会以外は何も無い雪原が広がっていて、道路を挟んだ向こうには、その頑固爺を物珍しげに眺める様に、見慣れた近代的な建物が点々と並べられている。
不揃いに雪が踏み固められる音だけが続き、やがて教会へ続く階段に着く。
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先に着いていた何人かが開けようとしていた様だが、白磁のような少女達の腕では在りし日の空気を溜め続けた巨大な古扉を開ける事は容易ではなかったらしく、石畳の階段を上る私に一人が目で扉を開けるよう促してくる。
「別料金だぞ。」仕方なく私は扉の前へ立ち、青銅色の取っ手を掴む。
人間二人分はありそうな扉を、壊さずに開けられるか?と考えるが、よもや気にする者もいないか、と思い至る。
足に力を溜め、握り締めた取っ手を、拳や腕、背中に力を入れながら徐々に引く。最初は沈黙していた扉も、やがて蝶番が鈍く軋む音、氷や錆が剥がれる乾いた音で啼きながら開く。
丁度一人入れるほどの隙間が開いたところで取っ手が外れてしまった為、後は扉に手をかけこじ開ける。
痛覚のない肉体は便利だが、感覚の鈍さゆえに加減をしにくいのが玉に瑕だ。
教会の中は、久々の新鮮な空気に喜ぶように多量の埃が舞っていたが、少女達は構わず、正面に嵌められた夕日の光を受けた巨大なステンドグラスが、薄暗い室内を橙に焼く様に見とれるように、中へ入って行く。
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教会の内部は恐らく放置されて数十年は経つであろう割には、全体的に古めかしさは伴うもののあの古扉のおかげか、寧ろ時代ごとここに閉じ込められていたのではないかと思えるほどその形を保っていた。
最後の一人が入ったところで、多少動きに融通が利くようになった扉に免じ、壊さぬように静かに閉じる。
祈りたい。それが、彼女らがここへ寄り道した理由だと言う。
かつてこういった宗教的建造物を世界各地に立て、思想や戦争を扇動し、人の人生や歴史にも大きく関わった一連の組織とそれに関連する大小様々な集団は、世界統一事変後急速に衰退し、今では史書や、一部の人々の生活習慣や道徳観念にその痕跡を残すのみとなっている。
しかし、「祈り」だけは、多様な宗教観が薄れ、独善的なカルト組織が現代宗教の代表となった現在でも依然人々に残り続けている。
人は「それこそかつての神々が未だ人々に息を吹きかけている証左。それに我々は無意識に気付いており、故に人は祈る」といい、又ある人は、「世界規模で日常化した行動を人類規模で形状記憶しているだけであり、救済に対する一種の生理的現象」とも言う。
彼女らがここへ祈りをしに来たのは気まぐれだったのか、神の導きか。「生きた心地」を忘れつつある私には、知った所で最早理解は出来ないだろう。
私の中の命と神は、疾の昔に死んだ。
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教会を煌かせていた夕日は徐々に紫を帯びた冷気を伴う夕闇へ姿を変え、天体のまさに天文学的に遅々とした時間の流れとは似つかぬ速さで急速に夜が訪れる。
少女達がどこからか持ち出した蝋燭で室内にぽつぽつと明かりを点けている姿を見て、あの歳で蝋燭の扱い方を知っているのは今や彼女ら位だろうと考えながら、暇つぶしに長椅子の置かれた広場の端の柱が並ぶ廊下を歩き、暗がりに地下へ続く螺旋階段を下りる。
階段の先は暗闇に包まれているが、私には問題ない。
短い階段を降りきり、正面の扉を開くと、手前の壁際に置かれた二脚の木製の椅子に挟まれた小さな円形のテーブルと、その奥に等間隔で並べられた六つの2メートル強はある長方形の石版が幾つも地面に嵌め込まれている部屋に続いていた。
埃で埋もれた石版を指で線を引くようになぞると、光沢のある表面には名前が彫られているのが見え、これが石棺であり、ここが、様々な名誉ある遺体を安置している教会の地下墓所であると把握する。
私が石板に刻まれた様々な嘯きを流し見ていると、誰かが螺旋階段を伝い降りてくるのが聞こえた。
恐らくはあの無言の秘匿集団の中で一番おしゃべりな少女だろう。
足音が比較的軽く、蝋燭で先を照らしながらであるものの軽快に階段を下りる音からも容易に判断がつく。
彼女が降りてきた後も、別段あいさつなどをする必要性を感じなかった為再び石板の文字を読み続けていたが、彼女が蝋燭の明かりの先に静かに石棺を覗き込む人影を見つけ、はっと息を呑み静かに戦慄しているのを感じ、おもむろに顔をあげそちらを向くと、彼女は強張った表情を崩し安心した顔で息を吐いた。
「貴方ですか、少し驚きました。」微笑みながらそう言うと、テーブルに蝋燭を置き椅子に腰かける。少し、というのは先ほどの彼女の慄きを表現するにはいささか不足気味に感じるが、言葉には出さない。
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「ここが何処か分かるか?」誰かと会話をしたいとは思わないが、彼女は依頼人であるし、特に社交の機会を拒否する理由もない。
「教会の地下の、倉庫?」顔の上に答えがあるかのように空を見ながら答える。
「倉庫か、不要な物を放置する場所という意味ではあながち間違いでないが」ここがかつて、地元の名士や名家を専門に扱っていた墓所だと説明する。
「墓所…じゃああの石がお墓ですか?」彼女が、先ほど私が覗いていた石棺を指差す。
「そうだな。かつて、血筋や己の存在が特別だと信じていた人間は、その死後も特別なものにしたがった。その結論がこの部屋だ。死後も威光を放つため、荘厳な教会の荘厳な地下室に荘厳な石棺を厳かに置いた。」いつの時代も、他者と場所を隔てる事は身分を誇示するのに効果的な手段だ。
何の為に?と彼女が聞いてくるので、私が、神の寵愛を真っ先に受けようとでもしたんじゃないか、と適当に答えると、彼女は微かに、神、とだけ呟き、蝋燭の上で揺らめく炎を見つめたまま沈黙する。
彼女が何を思っているのか、私には分からない。この体になって、人を破壊することは容易になったが、人を理解することはほぼ不可能になった。理屈は把握できても、同情や気持ちの分かち合いをすることは出来ない。だが幸いにも、私の稼業でそのスキルを要求されることもほとんどない。
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「私たちが、この仕事を依頼することになった理由ってお話ししましたっけ。」
しばらくの沈黙あと、静かに彼女がそうこぼす。視線は相変わらず蝋燭に注がれている。
「さあ、話してないんじゃないか?」言いながら私はテーブルの側の壁から突き出るようにしている四角い柱に背中をもたれる。空いた椅子があるものの、この仕事を初めてからか、座るより立っている時の方が落ち着く。
私の受け答えが淡白であったからか、彼女はそうですか。とだけ呟くと、昼間の様子とは打って変わりまたもや黙り込む。
「興味がある、話してみろ。」私がそう言うと、彼女は思わずといった調子で私の顔を見る。まさかこの女に興味という概念が存在していたとは。とでも思ったのだろうか。実際彼女は本当に?と聞き返してくる。
本当だよ。私はそういったが、半分は嘘だ。彼女たちの過去や境遇には何の興味もないが、これまでで私が建てた彼女らに対する推理ににも似た憶測がどれほど的を得ているかには微かに興味を持っていた。
じゃあ。と彼女は滔々と語り始める。
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先ずは彼女がアンジェという名前で、グロウサイド郊外に住む中流階級の出身であり、暮らしは贅沢とは言えぬものの安定していて、幸せだった事。しかし一年前父親が仕事中の事故で死亡し、それにより母親は多大なショックを受け、アンジェは学校にも行かせてもらえず母親は家に篭る様になり、ネットに入り浸る内赤き螺旋の教義に傾倒していった事。それはアンジェ自身が情報化不全症であることが一因であるという。
父親が死んだのは夫と自分が機械の肉体へ換装したことへの罰であり、娘が換装出来ない体なのは神がもたらした必然であり救済への唯一の導だと思い込んだのだと。
そして傷心に都合のいい教義を流し込み救われた気になった母親は、今から2か月前、アンジェを赤き螺旋の教育施設へ送った。
最初こそアンジェ自身も、もう二度と家へは戻れぬことを知らず母親を喜ばせるために施設へ行くことを受け入れていた。実際最初の一か月は同年代の子供に囲まれ、規則正しい暮らしと赤き螺旋により歪曲してはいるものの様々な事柄を学ぶのは、父親亡き後部屋で一日中モニターを見続け、家事もろくにしなくなり、家族の愛というものが欠落した母親との色のない暮らしに比べると楽しかったのだという。
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しかし、その生活もその施設で名誉理事をしていた赤き螺旋の幹部。私が先刻殺害したスピゲル・オーマンによって特別学級の生徒に選ばれてからは一変したのだという。
更なる神の寵愛を理解するに足る子供達として選ばれた彼女たちには、もといた教育施設とは別の人工林の森の奥深くにある旧式の建築様式で建てられた屋敷に移された。
結論から言えば、そこはスピゲルと彼と同じ欲望を抱く高位の教団関係者が、神から齎された祝福を享受するという名目のもと美しく無垢な少年少女を自らのしたいままに穢すことを目的とした施設であった。
その様な社会では到底容認されないだろう事態が影ながら横行しているのは良くある事だが、スピゲルは彼女たちを時間をかけ徹底的に教団の教義や神性を沁み込ませた上であくまでその行為を儀式として行っていた為最早拒否するものはおらず、中にはその行為を自分がなすべき使命であるかのように語る少女や、実際その後教団の正式な構成員となった者もいるという。
その中でもスピゲルは常軌を逸しており、特別学級の中でも特に自らの好みに合う少女を別館へ招き、足首に真鍮の重りを焼き付け、舌を焼き切り神への贄として死ぬまで監禁していた。
これが、私が初めて彼女らと出会った時に足音で性別を読み違えた事と、みなからだの特長が似ている事、アンジェ以外誰も喋ろうとしない事の理由である。
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そしてその特別学級はその実態を、失踪者など日常茶飯事な教団内部に知られることなく長い間存在し続けていたものの、スピゲルはここで大きな過ちを犯す。
未だ赤き螺旋に染めきっていないアンジェを、自らの別館へ招いたのだ。彼女はその理由を判りかねている様だったが、私にはおおよその見当は付いていた。
その理由は恐らく、彼女が自身の好みに合致し、更にひと際端正で可憐な容姿をしていたという単純な理由だろう。少女を信仰の名の元、個人的に拷問し殺害していた事からすでに精神が破綻していただろう事は想像に難くはなく、美しさの面で際立っていた彼女を無垢なまま己の手にかけたいという思いにいても立っても居られなくなったのだろう。
自らの欲求や利益の為に手間を怠るとろくな事にならないのは既に彼を含む私が手にかけた様々な者達が実証している。実際アンジェは他の少女と共に逃走した。
もし、他の少女であれば逃げ出しはせど他の者達も逃がすような事はしなかったかもしれないが、彼女は理知的な性格に関わらず驚くほど世間知らずな上に恐れ知らずだったのだ。殺し屋と日常会話を楽しめる程に。
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そして森の中をひたすら駆けた彼女達は、森を出た先で教団の中でも良識派のグループに保護され、そこで彼女らの話を聞いた良識派グループのリーダーが、兼ねてより異常な行動が目立ったスピゲルを外部の人間に殺害させる計画を思いついたのだと言う。
その良識派は近々赤き螺旋からの独立を計画しており、それによる螺旋からの圧力を懸念した彼らが、スピゲルを旧体制への見せしめにする為、殺しの成果をネストの中で大々的に宣伝することで知られている殺し屋の人間に依頼する事と、少女達を赤き螺旋の歪んだ教義の犠牲になった被害者の象徴とする事を目論んでいたようだ。
その依頼がどんな依頼でも受ける私に来たのは、恐らく偶然だろう。
そして、独立する日までその事実を隠していたい良識派は、あくまで自らは関わらず、少女たちに依頼をさせ、金と完全自動運転の車、私の斡旋者の連絡先を与え自分達だけで良識派の隠れ家へ行くよう命じた。
だが彼女たちは殺害依頼が完了した後私と接触し、追加の依頼を申し入れた。それは良識派の人間も予期していない事態だろう。
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こうして今に至る。アンジェは話し終えると大きく深呼吸を一つついた。まるで話の最中思い出した様々な感情を体から追い出すように。
「驚いたな」私は話を聞き終えそう言うが実際驚いてはいない。足音や誰も話さない事から途中である程度の彼女らの境遇に対する予想はついていたし、赤き螺旋の中には生身の肉体が感じる快楽や感覚を性行為や薬物で感じる事を主にしている派閥が複数存在している事も知っていた。
実際ネストには、そうした経緯をもった娼婦や犯罪者は多い。
彼女もそれを感じたのか、顔を緩ませ、まあ、よくある話なんでしょうけど。と肌寒いのか首をすぼめ手繰り寄せる様に外套で体を包みながら言う。炎に照らされた金色の髪が柔らかく揺れる。
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「それで?どうしてその良識派を壊滅しようと思ったんだ?」私は、彼女たちに追加で依頼された内容について聞く。助けてくれた相手を、そいつらが与えた金で殺そうとする事は中々ない話だ。
「彼らは、自ら良識派を名乗っていて、確かに赤き螺旋の中ではそうなのかもしれませんけど、結局は私の母のような人間を利用して利益を得ようとする団体に変わりはありません。それに、彼女たちを被害者の象徴として世間の目に晒すなんて、あまりにもかわいそうです。」彼女は上で祈りを捧げているだろう少女達を覗くように石造りの天井を見やる。
だから殺すのか。と聞くと、彼女は上を見たまま頷く。
「それに、もういいんですよ。」彼女は視線を下ろし私の顔を見る。その表情は一度車内で見せた様な、機械じみた冷たさを感じさせた。
「どうせ私はもう母の元には戻れないし、彼女たちも、舌を切られただけの人もいるけど、もう元の生活は出来ない。だから、」
彼女はそこで一度間を置くと静かに、復讐してやるんです。と言った。
私には、少女らしい振る舞いをする彼女と、氷のような冷徹さを見せる彼女と、どちらが本来の彼女なのか判断できない。
ただ、依頼を遂行するだけだ。