第八十七話 近代的クロスボウの完成
一先ず、弩が完成しました。
『近代的クロスボウの完成』
天文十七年三月、先日の牛さん来訪の時より五日後、城は既に出陣準備を整え父の下知を待っている状況、恐らくここ数日中に出陣となるのでしょう。
そんな中、牛さんこと、太田又助殿と、弓師さんこと、山田七郎殿が二人で訪ねてきた。
「吉姫、やって来ましたぞ」
「吉姫様、今日を楽しみにしておりました」
「お二人とも、出陣前の準備で忙しい中、よく来てくれました。
今日は私も楽しみにしておりましたよ」
既に佐吉さんからは完成したと連絡を受けています。
早速お二方と、千代女さんで鍛冶場へ向かいました。
鍛冶場へ到着すると、清兵衛さんが出迎えてくれます。
「清兵衛さん、忙しい中、また邪魔しますよ」
「姫さん、出陣の準備は一先ず終わりやした。
お二方も忙しい中、よくお越しくださいやした」
そう言うと、現物が置いてある奥の一室に案内します。
すると、途中の作業場に新しい物が増えていました。
なにやら既視感のある代物ですが。
私がそれを見てると清兵衛さんが説明してくれました。
「ああ、あれですかい。
あれは、佐吉が今回の仕事みたいな細かい仕事やるのに机が要るって言うんで、熱田の大工にこしらえさせたんでさ。
細かな作業をする為の専用の作業台なんでやすが、中々使いやすいんで」
「なるほど、そうですか。
確かに、細かな作業をするにはこういうものが必要でしょうね」
どう見ても、所謂ワークベンチですねえ…。
とはいえ、こういうのは似たようなのはこの時代の大工も持ってますし、ヨーロッパとかではそれこそローマ帝国の時代からあるものですし、発明家の気のある佐吉さんが思いついても不思議では無いですね。
さて、奥の一室に行くと、佐吉さんが既に待ってました。
「姫様、よくお越しくださいました。
こちらの方が、姫様に頼まれた物です」
机の上の布を外すと、恐ろしく完成度の高いアイアンサイトが搭載されていました。
先日のポンチ絵からこれを作るなんて、やはり天才なのかもしれませんね。
早速、手にとって狙いを取ってみます。
ズシリと重いクロスボウは、安定性は良さそうです。
アイアンサイトで遠くを狙うと、上手く照準が合うように見えます。
しかし、このアイアンサイトもそうですが、既にこの二人にとってはネジは当たり前の部品と化してるようですね。
「佐吉さん、見事な出来栄えですね。
まさか、ここまで完成度の高い物を一回目から作り上げるとは正直思わなかったです」
佐吉さんが褒められて恥ずかしそうに頭を掻いてます。
人柄も悪くないし、この人は手元に置いとかないと危険な人な気がしてきました。
見たくてウズウズしている弓師さんに手渡します。
「では、山田殿、どうぞ」
弓師さんは受け取ると私のように構えて狙いをつけてみます。
「こちらの手元のこの部分と、先のこの部分。
この手元の輪っかに的を入れて、そしてこの先の飛び出ている部分の先端が輪っかの真ん中に来るように安定させるのです。
そうすると、この弩は水平が取れているので、その場所に飛んでいきます。
距離が伸びる場合は、この手元のここを動かせば、輪っかが上に動くので調整出来ます。
論より証拠、先ずは射てみましょうか」
弓師さんから弩を受け取った太田殿が次はしげしげと眺め、そして狙いをつけてみます。
「ふむ…、この照準器と言うもの、簡単な仕組みながら狙いやすいですぞ。
弓にも応用が効くやも。また戦から戻ったら考えてみますかな」
そうして、弓師さんに戻します。
「では、練兵場へ行きましょう」
先に人をやった後、練兵場へ向かいます。
流石に、出陣直前だけに、閑散としています。
この弓の練習場を管理している人がやってきます。
「これは姫様。
また、こちらの方で何か試されるので?」
「ええ、平安の世に使われていた弩を再現して作らせたので、それの試射にきました」
「弩にございますか。
文献で前に読んだことがありますが、今はあまり使われていない物にございますな。
何を用意しましょう」
「それでは、通常の弓の的をお願いします。
場所は、十五間、三十間に置いてください」
「はっ、承りました」
程なく、的が置かれ、準備が整いました。
「では、早速射てみてください」
弓師さんは黙って頷くと矢をつがえ狙いをつけます。
その格好は様になっていて流石本職の弓衆の一人です。
一瞬の沈黙の後、ビンっと独特の音を発して矢が飛んでいきます。
ちなみに、このクロスボウは中世のクロスボウで使われていた太くて短いボルトタイプの矢では無く、60センチ弱の専用の矢を使います。
十五間の的には難なく命中、二射目の三十間の的にも難なく命中です。
「姫様、この弩に付けられた照準器は中々の優れものですね。
狙いやすく、思った所に当たります。
ここから更に距離が伸びると、狙うのに難儀しそうではありますが」
すると外から清兵衛さんがやってきました。
「姫さん、こいつを試してみやすか」
持ってきたのは板金鎧です。
と言っても、完成品ではなくて、まだ製作途中の物です。
「仕掛りの品ですが、胴丸は既に完成してやすから、試し胴の役には立ちやす。
俺もその弩とやらがどの程度の威力を発揮するのか、見てみたいんでさ」
そう言うと、先日の鉄砲の試し胴の位置に置いてきます。
「さあどうぞ。
なに、穴が空いたって構いやしやせん。
又叩いて直しやすから」
そう言って笑います。
そして、更に矢をつがえて撃ちます。
「では、お言葉に甘えて」
ビンっと音を立てて飛び出した矢はものの見事に鎧に命中し、まるで空き缶を貫くように貫通しました。
回りからどよめく声が上がります。
清兵衛さんが鎧を取ってきます。
備え机に乗せて皆で囲んでみます。
「ほう…、見事なものですな」
太田殿が先ず声を上げます。
そして、清兵衛さんが裏返してみてみます。
「こうも簡単に貫かれるとは。
正直、複雑な気持ちでやすよ。
少なくとも、先日の試し胴には耐えやしたから」
千代女さんは目が点になって声も出ない感じです。
そして弓師さんが感慨深げに話します。
「新しく作られたばかりの板金鎧をこうも簡単に貫いてしまうとは。
姫様、確かにこれはとんでもない代物です。
しかも、矢をつがえるのにそれほどの怪力が必要な訳でもなく、慣れれば結構な間隔で射る事が出来るでしょう。
弩ですから、そこから更に力が要るということもなく、じっくり狙って後は引き金を引き絞るだけ。
発射音も、それほど大きなものではありません。
難点といえば、この重さとカラクリの精密さ故、大事に使わねば壊れてしまいます。
ましてや、普段使っている弓の様に打ち合うなんて事をすれば使い物にならなくなるでしょう。
そして、勿論これは作るのに時間と費用がかかります。
鉄砲と比べるとどうかは判りませんが、弓よりは確実に高いでしょう。
ですから、射るのが弓より格段に楽とは言え、御貸具足の様に数を揃えて雑兵に射させるというのは、中々難しいかもしれません。
数は揃えられても、無事に壊れずに返ってくるかどうか。
とは言え、熟練者が大事に使えば強力な武器になりましょう」
それを聞き太田殿が。
「そうでござるな…。
七郎の見立て通りでござろう。
それと、もう一つ付け加えるならば、正直ここまでの威力が必要かどうか。
この板金鎧がありふれたものになればまた別でしょうが、今のよくある鎧であれば、拙者が使っている弓で十分役に立ちますぞ」
なるほど、そういう見解もあるのですね。
それに鉄砲は、カラクリが付いているとは言え、この弩よりは格段に頑丈ですから。
「なるほど、確かに山田殿や太田殿の言われるとおりかもしれません。
鉄砲の普及で恐らく鎧はより貫きにくくなると思いますが、そうなるまではここまでの威力は必要ないかもしれませんね。
とは言え、作ってみたのは無駄ではなかったと思います」
作った弓師さんが大きく頷きます。
「勿論そうです。
今はそうですが、いずれ必要になる時が来るやもしれません。
何しろ、鉄砲に近い威力でいて、射るときの音は静かですから、先ごろの鉄砲撃ちを太田殿が射たようにはならないでしょう」
「それはそうですな。
この弩で隠れて射られれば、何処から射られているのかわからぬやも」
更に弓師さんが続けます。
「更には、この照準器、これは良いものです。
きっと鉄砲に付ければ良き働きをするでしょう」
佐吉さんがまた照れてます。
「そうですね。
この完成度の高い照準器であれば、鉄砲にすぐ取り付けられ、効果を発揮するでしょう。
それでは、一先ずこの弩についてはこれで一区切りとします。
この弩は山田殿に預けますが、当面は秘密として、扱いに注意をお願いします。
いずれ使う時が来るかもしれませんが、それについては山田殿が判断して使ってもらっても構いません」
「わかりました、姫様。
こちらの弩は暫く秘密としておきます」
「拙者も、この弩に関しては記録は残すが、表には出さないようにしますぞ」
「それでお願いします。
では、お二方、ご武運をお祈りしておりますよ。
無事に帰ってまた元気な顔を見せてください」
「はい、必ずや」
「応とも。拙者はそう簡単にはくたばりませぬぞ。
では、今日はこれにて失礼いたしまする」
そうして、二人は慌ただしく帰っていったのでした。
「佐吉さん、この度の仕事は中々に見事でした。
こちらの方を報奨として差し上げますから、ますます励んでください」
佐吉さんに臨時ボーナスの支給です。
ずしりと重たい袋を受け取ると佐吉さんは目を丸くして驚き、喜びます。
清兵衛さんもよくやったと褒めています。
こういう師弟関係は気持ちが良くていいですね。
そろそろ佐吉さんを直雇にしても良いかもしれません。
多分、清兵衛さんも喜ぶはずです。
屋敷に戻ると千代女さんが話しかけてきます。
「姫様、あの重たそうな弩は威力は凄いですが、使い勝手は悪そうですね。
私が先日お願いした小さい弩の方は如何でしょうか」
「今考えているところです。
簡単な操作で、そこそこの威力で女でも使え、騎馬の状態でも使える。
そんなのを考えています」
それを聞くと、千代女さんの目が輝きます。
「それは素晴らしいですね。
それなら使い勝手が良さそうです。
楽しみにしてますよ」
千代女さんは上機嫌です。
「ええ、また図面ができたら見せてあげましょう」
「必ずですよ」
さて、クロスボウは兎も角、父上はここ数日中に出陣でしょう。
加藤さんがそろそろ帰ってくる筈ですが。
『遠江事情』
父の出陣に先立ち、加藤さんに遠江へ偵察に行って貰っていたのですが、その日の夜に戻ってきました。
夜自室で図面を引いていると、障子の向こうから声がします。
「姫様、只今戻りましてございます」
「加藤殿、遠方まで大儀でした。
さあ、こちらへどうぞ」
加藤さんがまた静かに入ってきます。
「それで、遠江は如何でした」
「はっ、遠江は備後様が国人のその多くを安堵したため、混乱は少なく、今は曳馬城の井伊家を中心に遠江衆として纏まっているようにござります」
「そうですか、流石遠江で永く根を張る国人だけあり、上手くまとめていますね。
有力国人だった飯尾殿が父の家臣となったことも大きいのかもしれません」
「飯尾殿は東三河や奥三河、遠江に伝手がござりますから、今も備後様が調略を進めているかと思いまする」
「父上のこの度の遠江への出陣に際し、先の戦での井伊家の様な有利に戦を進めるための鍵と成るような国人をまた味方に出来れば、有利に進めることが出来るでしょう。
それで、如何でしたか?」
「はっ、調べましたる所、先の遠江での敗戦の後、今川家は遠江の引き締めの為、新たな人質の要求や粛清をやったとのこと。
その中で、姫様が調べるように仰られた二俣城の松井宗信殿にござりますが。
宗信殿はお父上を人質に出して居られたのですが、先の遠江での戦の折、重傷を負われ生死を彷徨うほどで、すぐに動くこと叶わず備後様の慈悲にて吉田城で暫し療養し、二俣城に戻られたそうにござります。
それを、今川方は宗信殿は備後様に臣従したと判断し、お父上を殺したのでござります。
宗信殿が戻られてからも、今川方から謝罪があるどころか、厳しい詰問に晒されたとの事で、一先ず誤解は解け今川方に復帰はしたのでござるが、忠義一途に来られた宗信殿も此度の事で流石に身の振り方を考えておられる様子にござります」
「なんと、そのような事があったのですね…。
私は、地理的に松井家を味方につけることが出来れば、北部から天竜川を渡り、今川方の裏をかくことが出来ると思い、調べてもらったのですが。
よく調べてくれました。
松井殿をどう調略するのか考えるのは父上ですが、良き情報だと思います。
また遠江への戦に同行して貰うことになりますが、一先ず休んでください。
こちらの方が、今回の良き仕事に対する報奨です」
「有難く。
では、拙者はこれにて失礼いたします。
また、備後様が出陣の折には遠江に同行し、戦を見てきて報告致します」
「はい。ご苦労でした」
「はっ」
そうして、また静かに加藤さんは戻っていきました。
松井宗信というと、三代に渡って忠節を尽くし感状を何度も貰い、そして桶狭間で義元公を守り討ち死にしたという人物です。
生死を彷徨う程の重傷ですから、吉田城に担ぎ込まれて、治療していなければ恐らく史実よりずっと早く討ち死にしていたのでしょうが、運命の悪戯は怖いです。
兎も角、一つ良い材料を手に入れました。
恐らく、近々また父が出陣の前に訪れるはずですから、その時に伝える事にしましょう。
この度の遠江の戦で勝てば、恐らく義元公は和議を申し入れてくるはず。
その上で同盟関係を結べば、三河も落ち着き、尾張から駿河迄の商圏、銭の道を作ることが出来ます。
経済で結びついた同盟関係は利害だけの軍事同盟などより遥かに切り難いのは歴史が証明しています。
これで、父の目標である尾張を一足先に安定させ、争いのない土地にするという事に大幅に近づくことが出来るでしょう。
弩は完成しましたが、直ぐには必要なさそうです。
遠江情勢も入手し、いよいよ戦です。