第六十八話 古渡の年の瀬
長かった天文十六年も終わりです。
『於大さん』
天文十六年もいよいよ終わりが近づいてきました。
父が先日話していたとおり、水野氏のところから竹千代くんの母君の於大さんがやって来ました。
於大さんは私より六つ年上で、今年で二十でしょうか。
今の私の歳に広忠殿に輿入れし、翌年の今の時期に竹千代くんを出産、そして二年後の天文十四年に水野氏が織田に臣従したのを切っ掛けに離縁、実家に戻りました。
そして、竹千代くんが尾張に来た縁もあるのですが、水野氏の当主信元殿が織田と縁を結びたいと考えていた事もあり、織田に輿入れしてくることになりました。
相手はまだ決まってませんが、竹千代くんに不憫な事をしたくないという、父の思いもあって、一足早く熱田に来ることになったというわけです。
雪が積もる中、輿に乗って於大さん達一行はやって来ました。
一先ず、熱田の加藤氏の用意した離れに住むことになるようです。
於大さんは今の私とは違い、ふっくらとした女性らしい体型で、母性が滲み出そうな優しそうな感じの人です。
数えで二十という事は平成の世なら十九歳、まだ大学とか行ってる歳で、ここまでの雰囲気を醸し出す人はあまり居ない気もします。
四歳の時に別れたきりの竹千代くんは、二年ぶりにあった母の顔をしっかり覚えており、姿が見えるや、日頃の若君ぶりはどこへやら、外聞も無く抱きつき、涙の対面となったのでした。
はからずも私も目から汗が出て来て困りました。
そんなわけで立会はしたものの話をする機会もなく、久しぶりの母子の対面の後は水を差すのも野暮なので、加藤氏に挨拶をして古渡に戻ったのでした。
学校の方も、一月半ば位まで暫くおやすみです。
『卵料理』
屋敷の料理人に卵料理の話をします。
卵は城の鶏の世話をしている人に無精卵を用意して貰いました。
城の鶏って、主に時計代わりと観賞用らしく、飼育している数も少なく、実質ペットですね。
ちなみに、見事な雄の鶏は贈り物などにも珍重されるそうです。
さて、料理人ですが卵料理は初めてとの事で、あまり乗り気ではなさそうです。
仕方がないので、私が作って差し上げることにしました。
以前、清兵衛さんに作ってもらったフライパンに、ごま油をひいて、フライパンが温まったら、卵をポン。久しぶりに嗅ぐ、卵焼き独特の美味しそうな匂いがします。
そして、塩をパラパラ、用意しておいた、水を差して、蓋をします。
湯気がでなくなったら、出来上がり。
ヘラでフランパンから取ると、皿に盛って出来上がり。
後は、お好みで醤油を垂らして、召し上がれ。
胡椒が無いのがちと残念ですね。
料理人と半分こして食べると。
「んー、んまい!」
暫く振りに食べた目玉焼きに、思わずニッコリです。
料理人も私が美味しそうに食べるのを見て、箸を付けますが先が震えてますよ。
でも、一口食べると、驚いた顔をしてあっという間に平らげました。
「姫様、卵とはこれほど美味しいものなのですね」
「そうですよー。日本でも昔は普通に食べられていたそうですし、日本以外の国、例えば隣の唐国なども、日常的に卵料理を食べ、料理の種類だけで百はくだらないかもしれないですね」
実際の所は判りませんが、あの国ならばありそうな気がします。
それを聞いて料理人は驚きます。
「そんなに多くの卵を使った料理があるのですか。
殿様は美味しければ、食べたいとおっしゃってましたので、これは私も卵料理の研究をしなければなりませんな。
今食べた目玉焼きならば、もう作れると思いますが、他にも料理をご存じで?」
「ええ、目玉焼きは一番簡単な卵料理ですからね。そのくせ美味しい。
他にも教えましょう。ただ、今の古渡では鶏をそんなに沢山は飼ってないので、増やさないと沢山は作れないでしょうね」
そう言うと、作れそうなレシピを話します。
だし巻きに、ふわふわ卵、そしてキジの肉がたまたまあったので、親子丼、更には野菜を炒めて卵を溶かした炒め物、それに茶碗蒸しなど。
それに勿論、シンプルだけど意外に作るのが難しいゆで卵や、ゆで卵を使った煮物など、いろいろなレシピを教え、幾つかを実際に作ってみました。
試食会が終わる頃には料理人はもう卵の虜、料理人の伝手で近くの村で鶏を飼っているところがあるとかで、そこにいって卵を仕入れてくると話し出しました。
それを聞き、卵は新鮮なら問題なく、多少日持ちもするが、菌を持ってるので、必ず火を通して食べること、可能であればその日収穫した卵を食べることを念押ししました。
サルモネラ菌は怖いですからね。
そうして、古渡の食卓に、卵料理が並ぶことになったのですが…。
「ところで姫様、どこで料理を学ばれたのですか?
それがし、姫様が幼少の頃より、料理を作っておりますが、姫様に料理などさせたことは無かったかと存じますが…」
「えっ?
り、料理ですか?
料理をつくるのは今日が初めてですよ。
漢書の料理本を読んでいたので、今日実践してみたのです」
「ほう、誠ですか。
初めてにしては随分手際が宜しかったように思いますが…。
料理の才能があるのかも知れませぬな」
「そ、そうですか?
料理の才能があるだなんて、思いもしませんでしたよ。
ホホホ」
笑ってごまかしますが、口元がひくついています。
「それでは、よろしくおねがいしますね」
「はい、姫様、今日は有難うございました」
私は逃げるように調理場を後にしたのですが、千代女さんがジト目で私を見ていたのに気づきました…。
「千代女さん、居たのですか。
そんな所にいないで一緒に食べればよかったのに」
「た、卵など食べられません」
「美味しいですよ?」
「私は、結構です」
「そうですか、美味しいのに…」
「それより、姫様。いつ、料理の修行をしたのですか。
あんな嘘、直ぐにバレますよ」
「えっ、えーと。
千代女さん、殆どずっと一緒に居るのだから、私が料理などしたこと無いのは知っているでしょう」
「…、た、たしかにそうですが…。
初めてであんなに手際よくなんて、絶対ありえないです!」
そういうと、先に行ってしまったのでした。
いつって言われてもなあ、前世のクッキングスクールで修行しましたなんて言えないでしょうに…。
「千代女さん、それより美味しいお菓子頂いたので、お茶にしましょう」
「え?お菓子ですか?
直ぐ用意します」
すぐに弾んだ返事が聞こえて、とたとたという音が響きます。
今日は熱田の加藤殿に頂いた練り菓子がお茶請けですね。
『古渡の年の瀬』
天文十六年もいよいよ終わりです。
予想はしてましたが、本当に今年は波乱の年でしたね。
三河に美濃にと戦が続き、竹千代くんがやってきたり、武衛様と対面する事もありましたね。そして最後には美濃の守護様が急死したりと、事件つづきでした。
父は今年も順調に勝ち続け、主だったもので亡くなったものも無く、岩倉、清洲の両守護代家とも関係は良好です。
結局、勝ち続ければその分収入も増えますし、収入が増えれば大抵の人は機嫌が良いものです。
継続して行っている寺での講義も色んな人が来ますが、何度も顔を合わせれば顔見知りも増えるようで、皆和気藹々としている気がします。
一人寺で勉強中の天野又五郎君も中々優秀だと和尚が太鼓判を押していました。
将来は織田家の民生家として活躍してくれるといいですね。
そして、学校を手伝ってくれている丹羽万千代くん、彼はちょっと掴み所がないところがあるのだけど、史実通りと言うか実に優秀ですね。
先生をしてもらうので、先行して授業内容を教えたのだけど、あっという間に習得してしまい、もう十二分に先生が可能なのです。
気配りも出来るし、段取りも良いし、十二歳でここまで出来るって。将来は間違いなく内政エキスパートとして活躍すること間違いなしです。
かと言って、文だけの人かというと、勿論そんなことは無くて、武芸の方もしっかりと修練していて、武将としても活躍できるでしょう。
いわゆる、偶に居るスポーツも出来て頭も良いスーパーマン的な子ですね。
そのくせ、あまり欲がないというか、知識欲は凄いですが、大人びてて、将来は武衛様の元で父の仕事の後を継ぐのだと言っていました。
この世界の武衛様、私の思い描いている通りになるなら、万千代くんはきっと官僚として役に立つでしょう。
そう言えば、布団は好評の様です。
暖かく、寝心地が良いとのことで、早速評判が広まりつつあるようで、父から来年はもっと数を作るようにとのお達しがありました。
領地のみんなに布団が渡るのはいつの日か…。せめて敷布団だけでも用意したいですね。
父は、昨日から那古野の方に行っていて、例年では二日か三日まで戻りません。
今日は屋敷の者とのんびり年越し蕎麦を頂きます。
いつから始まった風習かは知りませんが、いわゆる蕎麦はこの時代にはありませんので、作り方を教えて作ってもらいました。
出汁醤油が出来てから暖かい饂飩は既に食べられるのですが、これで蕎麦も食べられるようになりました。
勿論、予め頼んでおかないと食べられませんが。
そして、目の前に居るのは加藤さんです。
美濃とは和議となったので、戻ってきてもらいました。
「加藤殿、今年も色々と働いてくれて、誠に大儀でした。
これは、餅代ですので、美味しいものでも食べてください」
そう言うと、用意しておいた小袋を渡します。
「ありがたく…。
拙者の方こそ、姫様の下で面白き仕事をさせて頂き感謝しておりますぞ」
「来年も色々と仕事を頼むと思いますが、よろしくお願いします」
「ははっ」
「ところで、加藤さんはご結婚は?」
「結婚にござりますか。
拙者は、この様な仕事をしておりますので、家族は難しゅうござる」
「そうですか…。
確かに、言われてみればそうかもしれませんね」
「お気遣いは有難く。
姫様、今年最後になりまするが、報せがありますぞ」
「はい、三河ですか?」
「左様、三河でございます。
先ごろ、備後様が今川勢を打払い、天竜川の向こうへ追いやりました。
そして、それに呼応した岡崎勢は再び負け戦で、少なからぬ討ち死にが出ました。
岡崎勢の負け戦は、今川が負けておらねばそこまでは深刻な話にならなかったやも知れませぬが、今川が遠江で敗れ曳馬城まで失った事は岡崎はもとより、東三河に激震をもたらしたのでござる。
岡崎、つまり松平宗家にとって、今川は大きな後ろ盾でござりましたから。
まだ山間部からの連絡は可能ですが、もはや宗家の求心力は地に落ちたも同然。
これまで松平宗家に従っていた庶家や国人衆の中にも鞍替えを考える家が出るなど、不穏な空気が流れておりまするし、なにより岡崎城には今川の与力が詰めているのですが、一触即発の状態にて、何か切っ掛けがあれば暴発するやも知れませぬな」
「そうでしたか…。
本来であれば、もう少し時間を掛けて自壊させ、取り込むというのが安祥の戦略でしたが、戸田氏が余計なことをしたせいで、そうも行かなくなってしまいました。
この上は、宗家そのものが先の和議を持ち出して和議を持ちかけてくるかもしれませんね。
結局は、今川に従っていたのも、三河を守らんがためですから。
わかりました、報告大儀でした。
明日、明後日は、屋敷で美味しいものでも食べてゆっくり休み、また情報収集の方お願いします」
「ははっ。
では、失礼致します」
そう言うと、加藤殿はまた静かに去っていきました。
今は屋敷もあるはずなんだけど、どんな暮らしを送ってるのかな…?
閑話休題、来年も頑張るぞー。
っと、抱負を胸に眠りにつくのでした。
天文十六年編 終
古渡の屋敷では卵料理が出るようになりました。
竹千代くんは後は忠広殿が臣従してくれば、また水入らずで暮らせるんだけどね。
何やら岡崎城は不穏の様子です。