閑話弐 快川紹喜
今回は別視点の閑話になります。
快川和尚が時折、吉姫の瞳を覗き込むのはなぜかが語られます。
天文十年某月 快川紹喜
拙僧が凌雲寺に招かれてもうすぐ二年。
城のある山の中腹にあるこの寺は環境もよく、人々もあたたかく、ここに来てよかったと今は思っている。
京より戻り、美濃の寺を巡っている頃に尾張の織田弾正忠殿にご息女と家臣の子等の手習い師範を頼まれたが、あの話を聞かされなければ断ろうと思っていた。
まだ決まっては居なかったが、崇福寺に戻り住職にという話があったのだ。
しかし、あの時聞かされた織田殿のご息女の夢の話。
あの話を聞いて、咄嗟に神仏のお導きだと感じたので手習い師範の話をお受けしたのだが、何故拙僧の名前を数え五歳の子が知っていたのか。
屋敷から殆ど出たこともないのに、織田殿にもわからぬという。
それこそ、神仏のお導きでもなければ理由がつかぬ。
織田殿の屋敷で初めてあった吉姫は、まだ小さな子供であった。
物腰は静かで、普通の五歳の子供のように騒ぐこともはしゃぐこともせず、目が合えば微笑む。
そんな感じの姫様で、手習いのときも静かに、さながら求道者の様に黙々と筆を走らせる。
目についたところは直して差し上げたが、直す前に既に形が出来ているような。
そんな不思議な感じを受けたのだ。
そのくらい、文字を書くことに手慣れていた。
そして、驚くほどの早さで覚えていく。
一言で言うならば、吉姫は神童なのやも知れぬ。
しかし、神童とも何か違う気がするのだ。
拙僧はこれまで幾人もの人の教授をしてきた。
中には神童と呼ばれる子に教えたこともある。
真っ白な子供に一からものを教えたこともある。
だが吉姫は、どうも所謂神童ではなく、また真っ白でもないようなきがするのだ。
織田殿に聞けば、幼少の折より書庫で書を読んでいたというから、そこで覚えたのやも知れぬ。
だが、手習いを始めて日も浅く、まだ十分に文章を読むことすら出来ない子供が、織田殿の書庫で書を読んで意味がわかるのであろうか。
拙僧の思い過ごしなのかも知れぬが…。
もしや、吉姫は既に文字は勿論のこと、書の内容も知っておられるのではないか。
そんなことを心のうちに思いながら、一年が過ぎ、そして吉姫が寺に通われるようになった。
初めてお会いした頃より大きくなられ、長じれば美しくなられるであろう片鱗が感じられる。
そして、他の子らと同じように寺で手習いをはじめられた。
その後、寺に通うことにも慣れられた吉姫は、手習いが終わると寺に残られ、拙僧と話して帰られることが多くなった。
話される内容は多岐にわたり、ある日は孫子の一節であったり、またある日は論語の一節であったり。解釈について聞かれたりその深い意味について聞かれたり。
吉姫との話は、なかなかに興味深いものではあるのだが、話していると目の前の人物の年齢がわからなくなるのだ。
七歳の子供のはずが、まるで拙僧と歳の変わらぬ大人と話をしているような。そんな錯覚を受けるのだ。
そんな不思議な感覚を感じるたびに、つい吉姫の瞳の中を覗き込んでしまうのだ。
その瞳の奥に何かが見えるのではないかと。ばかげた話だが…。
こんな話は、吉姫本人には勿論、織田殿にも、誰にも話すことは出来まい。
拙僧の胸のうちに秘めておくのが良いのだろう。
つまり、薄々バレてるわけです。
さすが和尚、鋭い。カッコイイだけじゃない。