閑話十一 織田信広 広忠との戦い
岡崎勢の対応を命じられた信広が広忠を誘引して挟撃策を実行しました。
天文十六年十月 織田信広
十月下旬の頃、父信秀の美濃での勝ち戦の報を受けてより数日を経ずして、今度は以前より遠江を密偵させていた保長の手の者より今川動くの報を受けた。
直ちに父に書状を認め早馬にて届けさせると、陣触れを出し兵を募った。
父は未だ戻ったばかりのはずだが、程なく父より早馬にて返書が届いた。
曰く、
『此度の狙いは先ごろ獲た吉田城であろうから直ちに兵を纏め、安祥を経ず三河南部の西尾、蒲形を経て直接吉田城へ救援に向う。
吉田城は尾張の兵のみで救援に当たる故、安祥は呼応して動く可能性がある岡崎に対応すること』
これまで今川は、三河は松平を支援することで松平ごと取り込むという方針から、直接攻めてくることは無かったのであるが、先ごろの戸田攻めで敗戦し吉田城を獲られた為、遠江すら脅かされかねないという状況に、そうも言ってられなくなったのだろう。
吉田城は遠江への要衝であり、ここを抑えられれば岡崎への支援も以前より困難となり、現状山間部を抜けねば遠江から岡崎への連絡は取れぬ状況になっている。
故に岡崎の求心力は急速に失われつつあり、松平宗家を見限り安祥に帰順する国人が更に増えているのだ。
この機会に勝ちを獲らねば更に追い込まれるだろうな。
吉田城へは急ぎ追加の兵を送ると、守将の酒井忠尚殿に父が救援に向かっている旨を報せた。
そして、主だった将を集めると、此度の事に対する評定を開いた。
「保長の手の者より遠江の今川が動き出したという報を受けた。
我等が戸田氏を救援し吉田城を獲た事で、遠からず出て来るであろうと思っておったが…。
父上は吉田城への救援は尾張勢で行う故、岡崎に対応せよとの事だ。
故に、岡崎への対応を考えねばならぬのだが、意見があるものは申し述べよ」
暫し沈黙の後、我が軍師である勘助が意見を述べる。
「調略が進んでおったのもありまするが、先の戸田救援で南三河を吉田城に至るまで安祥の支配下としたことで、今川とは直接対決を避け、和戦両様で松平宗家の自壊を待つ、という我らの戦略が崩れ申した。
故に、今川が遠江から吉田城奪還の軍勢を出してくる事態となり、今後松平の岡崎との二方面に注意を配らねばなりませぬ」
「うむ。そうであろうな。此度は父信秀が尾張より救援の兵を差し向けてくれたが、常に来れるとは限らぬ故、吉田城の守備も考えなくてはなるまい」
それを聞き、保長が発言する。
「以前は我が手のものは服部の郎党だけでござったが、今は伊賀より他家も移り住み、より人が割けるようになりました。
此度の今川が動いたことを察知出来たのも、下働きに入り込ませた者よりの報告にて。
今や遠江、駿河の主要な城には手のものが入り込んでおりまするし、また殿に許しを得て駿府に出した店からの報告もありまする。
今川方が我が手のものを完全に出し抜いて大軍を動かすことは困難でしょう」
「保長の働きのお陰で常に我らは広忠に先んじてこれた。
これからもよろしく頼むぞ」
「はっ」
話を聞いていた松平信孝殿が次に意見を述べる。
「岡崎に関してでござるが、先の戸田救援の際、水面下で調略を進めていたとはいえ、三河南部を全て安祥に従えたのがかなり効いているはずです。
恐らく、今陣触れを出しても、以前の動員には到底届かぬでしょう。
しかし、であればこそ岡崎は今川が恐らく大軍で来るであろうこの機会に兵を出し、安祥より勝ちを取らねば先は有りませぬ故、必ず出てきましょう。
問題は、何処に出てくるかでござるが…」
吉が送ってきた本に書いてあった事があったな。
戦闘の原則といったか、そこにこう書かれていたな、『主導の原則・我が先に行動する事により、敵を思うように動かす』
ならば、何処に出てくるかではなく、何処に出てこさせるかを考えるべきだな。
「恐らく広忠は、我らを出し抜いて川を渡れると思って居るほど愚かではあるまい。
そして、今の岡崎にはかつてのように我らと河原で合戦をして渡れるほど余力はない。
故に、もしくるとすれば上和田であろう。
しかし、来ることがわかっているならば、わざわざ後手に回る必要はない。
我々の戦いやすい所に連れ出し、そこで叩いたほうが良い。
広忠は今川からも連絡を得ているはずであり、今川が動いて岡崎が動かぬでは異心を持ったのかと疑われるであろう。
負けても広忠の面目は立つ。
既に岡崎には今川の家臣が派遣されておる故、何が起きても不思議ではない。
勘助、我らが誘い込むとして、良き策は無いか?」
勘助は、暫し地図を見つめながら考えた後、策を話し出す。
「されば。
我らが此度兵を出すのは、今川が動いたからでありまする。
しかるに、尾張から備後様が救援の兵を出すのは、我らしか知らぬことであり、三河南が既に我らに従っている今、岡崎は知らぬままの可能性があります。
故に、吉田城には安祥勢である酒井殿と兵らが詰めており、本来後詰めは安祥から出すというのが道理。
ならば、殿が救援の兵を率いて川を渡り、吉田城の方面に進軍したならば、岡崎としては、目の前を敵が行くのを座視ししたとなれば、面目丸つぶれ。
岡崎はすぐにでも兵を出さねばならぬでしょう。
その先が、殿の率いる後詰か、それとも上和田城かの違いはあるやも知れませぬが。
何れにせよ、殿の率いる後詰に追撃を掛けたなら、上和田から兵を出し挟撃すればよし、上和田を攻めたなら殿が後詰を連れて引き返し、横槍を入れればよし。
何れにせよ広忠は引くしかありますまい」
策を聞き、集まった諸将も一様に賛同を示す。
「うむ。流石勘助、よき策である。
此度は、兵を後詰に五千、更に岡崎に気付かれぬよう、上和田に千の兵を入れよう。
それで良いな?」
勘助に確認すると勘助は頷く。
「はっ、それで良いかと」
それを聞き、皆を見て評定を締める。
「では、左様致す故、皆も準備をよろしく頼むぞ」
「「「ははっ」」」
数日後、将兵らを前に三献の儀を執り行うと訓示する。
「皆の者、我ら安祥勢の強さ、今川の白塗り侍共に教えてやろうぞ」
それを聞き、将兵の間から笑いが漏れるが力強い返事がある。
「「「応!!」」」
「では出陣!」
「「「応!!」」」
安祥城より出陣すると、一路上和田城へ向かった。
上和田城は、信孝殿が城主であるが、既に兵の増員を済ませ岡崎の動きを待ち構えている。
道中特に何もなく、上和田城前に着くと、馬上のまま信孝殿に目礼し、そのまま吉田城へと進路を取る。
今のところ岡崎の動きは無いが、既に陣触れを出し、岡崎にていつでも出られる状態にある事を掴んでいる。
しかし、我らは報せのないまま吉田城へ向けて街道を進み、本宿へ差し掛かろうかという所まで来た。
そろそろ引き上げるべきかと頭を過ぎったところで、騎馬の横槍を受けた。
ここに、山中城という今川方が詰めている城がある事は知っていたが、東三河であり攻めるには堅城の山城の上、少数の守備兵のみということで放置していた。
その山中城から騎馬が出ると横槍を受けたのだ。
岡崎はすぐに出て来るだろうと、高をくくりまさかここまで入り込むとは思っていなかったのが裏目に出た。
咄嗟の事で隊列が乱れた所で、二度、三度と騎馬が突入してくる。
騎馬というのは徒の兵からすれば恐ろしいものだ、踏み潰されるだけで悪くすれば死ぬのだ。
なんとか騎馬を避けようと徒の兵らは右往左往し、将らは槍衾を作れと声を上げるが、直ぐには対応が出来なんだ。
結果、今川の騎馬に何度も蹂躙され、ようやっと槍衾が出来上がりかけた所で、今川方は城へ引き上げた。
儂はそれを忌々しげに見送ると、死傷者の確認を命じた。
ところが、連携の有無は解らぬが、間の悪いことに岡崎から出陣した広忠らがすぐ後ろに付けていたことに気づいてなかったのだ。
勝ち戦続きで慢心があったと言われれば、否定できぬ失態だ。
恐らく、上和田を攻めるどころかここに急行したのだろう。
「信広ぉ!今日こそ、その素っ首貰い受ける故、覚悟せよ。
者ども突撃!」
広忠の罵声が聞こえると、岡崎勢が槍を連ねて突撃してきた。
すぐさま、上和田に背後をつくように伝令を送ると、儂はなんとか陣を整え槍衾を作るように命令する。
流石、混乱はすれど安祥の兵らは士気も高く、練度も高い。
更には、同じ三河兵なのだ。正直、尾張の兵らより粘り腰がある。
将らが懸命に号令すると、なんとか槍衾を連ねた。
しかし、混乱のせいで弓を撃つ間も無く、岡崎勢は目の前だった。
兎に角、兵力は互角、しかし、先ほどの騎馬の突撃で負傷者も多い。
上和田からの後詰が背後を突けば勝てるだろうが、それまで持ちこたえねば。
そこからは、乱戦であった。
名のある武士を討ち取り、また討ち取られ。
何としても生き残らねば。
広忠と儂は声をからして将兵を叱咤激励し、指揮を取りつつ自らも槍を振るった。
そして、双方崩れぬまま疲労が見えてきた頃、待ち侘びていた上和田よりの後詰が岡崎の背後より食いついた。
岡崎勢は乱戦に気を取られ、後詰の接近に気づいてなかったのか、たちまち崩れ、こうなっては勝ちはない、殿を残し広忠は周りを固められながら後退していった。
それを見ながら儂は声を上げた。
「追撃は無用ぞ。
殿も降伏するなら命は取らぬ故、降伏せよ。
これ以上の人死は無用である」
それを聞き、懸命に戦っていた殿の将兵らが降伏する。
「勝鬨をあげよ!
えい、えい!」
「「「応!!!」」」
例え、今までにないほどの混戦であっても、勝ちは勝ちである。
兵らを鼓舞せねば死んだものは浮かばれぬ。
しかし、此度は儂にとっては敗戦も同然だ。
方針は間違えてなかったはずだ。
だが、勝ち戦続きで慢心があったのは間違いがない。
広忠も愚かではないし、有能な家臣が居るのだ。
初心に戻らねばな…。
儂は、雑兵らで元気な者はその場で解放すると、敵味方関係無く傷の手当をするように命じ、重症者は矢盾に乗せて上和田城へと運んだ。
そこで、金瘡医の治療を受けさせた。
味方はもちろんのこと、敵であれ命は疎かにしてはならぬと言うのは吉の言葉であるが、それを守れば兵の士気は高まり、敵であっても降るものが多い。
もとより、雑兵などは家に戻れば三河の百姓である。大事にせねばならぬし、今は敵であれいつ我が領民となるかわからぬ故な。
最初は疑問に思う者もおったが、今は皆何も言わぬ。それが当たり前となった。
安祥へ戻ると、兵らを慰労し軍を解いた。
此度は五千で出陣したが大勢が負傷し、生きて戻れなかった。
安祥へ連れてきた降伏した武士に安祥に臣従するように命じると、解放した。
後日、安祥を訪れるものも居るだろうし、いずれまた戦場で会うものも居るだろう。
此度は散々な戦であったが、岡崎は暫く出てこれまい。
広忠は父の和議の提案を蹴ったが、此度の敗戦で如何致すか。
兎も角、戦の詳細を認めると、吉田城の父へ届けさせたのだ。
初心に戻り、吉が送ってきた本をしっかり読むとしよう。
まだ届いて日も浅いが、多忙のこともあって一部しか読んでなかったのだ。
もし、全部読んでいたなら、此度の結果は変わったのであろうか…。
信広は三河で何度となく広忠を退けてきており、ここ数年は年に何度も岡崎勢と戦を繰り返してます。
この度も勝ちはしましたが、信広には苦い経験となりました。