第六話 寺にやってきたぜ、へヘイヘイ。
寺通いはじめました。
そして、父が凱旋し、兄は運命の地、安祥城に残りました。
『寺にやってきた』
父達が出陣したが、お屋敷の中はいつもとたいして変わらない生活が続く。
私も七歳になったということで、そろそろ寺に通うことになった。
それに、身体もぼちぼち鍛えないと…。
正直、これまで屋敷からほとんど外に出ず、運動どころか子供らしい遊びもしたことがないので、とんだもやしっ子なのでござる。
古渡城から凌雲寺は凡そ二里、一刻の距離であり、信長も幼少の折にてくてく歩いて通ったのだろう。
というわけで、私も遅ればせながらお寺に通います。
男子は早い子は五歳から寺通いしてるそうな。
朝早く、動きやすい袴姿に着替えると、お供の女中さんや使用人の男性に連れられて古渡を出発。
田園風景の中てくてくと、休みをはさみつつ歩き、そして村を通り過ぎ、漸くお城が見えて来ると、お城のある小山の中腹にお寺がありました。
なんとか頑張って山道を登り、階段を登り、お寺に到着。
お堂では既に習い事が始まっていて、小さい子達は手習いの書写を、年長の子達は素読をやってるのが見えた。
お寺には大体五歳から十二歳くらいまでの子供が通っているらしい。
私が到着すると、快川和尚が出てきて、よく参られましたと、挨拶をくれたので、子供らしく元気にハイと挨拶すると、和尚が笑い、いい声です。と褒めてくれた。
そして、いま習い事をやってる子供たちとは別の部屋に通されると、そこでまた習い事の続きを始めた。
慣れてきたら他の子達と同じ部屋で学ぶことも出来るらしい。
私は勿論、それが一番の目当てなので、早く他の子達と一緒に学びたいですと答えた。
昼時になると、習い事が終わり、子供たちが部屋からばらばらと出てくる。
そして、和尚がでは昼食にしましょうと声を掛けると、
お供がいる子はお供から、一人で来てる子は自分で、めいめいが弁当を食べ始める。
私は、お供の女中さんからお弁当の包を貰った。
この時代のお弁当というと、味噌を焼いたものと雑穀入りのおにぎりが定番なのか、みんな概ね似たようなお弁当を食べている。
和尚は小僧さん達と日課としての昼食をとってるようだった。
そして、お弁当を食べ終わると、私が目新しいのかぞろぞろと食べ終わった子が集まってくる。
見られながら食べるのは嫌だから、さっさと食べ終わって湯冷ましで流し込むと、集まった子たちに改めて挨拶をする。
弾正忠が娘の吉です。皆さんよろしくね。と。
男子たちが一瞬あっけにとられた顔をしたが、大慌てでめいめいが自己紹介を始める。
居ましたよ柴田権六、元服直前の十三歳、もう手習いの歳ではないが、父信秀が美濃から良い僧侶を招いたと聞きつけて、軍略を学びに来たとか。
既に身長は一般的な大人より大きく、体格は正に細マッチョ。顔つきは父信秀が所謂塩顔ならば味噌顔だろうか。
一般的な日本人よりは造形の彫りが深く、平成の世でも普通にモテそうな?
ややイカツイ感じの兄さん、そんな感じ。
他にも万千代こと丹羽長秀が居ました。
まだ五歳らしいけど利発そうなしっかりした美少年でした。
よく考えたら、知られている信長の幼馴染って犬千代にしろ松千代にしろ、まだ一歳とか二歳とか、そんな歳なのでここに来るとしたらまだ数年後。
他の子供達も聞いた事があるような父親の名前だったり、名字だったりするのだけど、すぐには思い出せなかった。
柴田権六が吉姫様が来ていると聞けば牛助のやつも来るかもしれませんよ。
と、言っていたのだけど、牛助って誰?
女子の参加者は少なく、初対面でなおかつ主君の娘相手に、そこまで会話が弾むというわけでもなく、後は当たり障りのないお話をしてお昼の時間は終わりましたが、皆礼儀正しいのが印象的でした。
閑話休題、柴田勝家の初対面の印象は悪くなかったと思う。
『ここはお寺です』
そして午後の部。
なんと、健全な肉体に健全な学問が宿るのかどうか知らないけど、午後からは手習いではなく、お寺の掃除を全員でやり、その後は座禅…。
私は初めてなので見てるだけでいいと言われたが、よく考えたら臨済宗って禅宗…。
前世でも体験だけならしたことのある、お堂で座禅を組み、精神統一。
そして、乱れが生じたら容赦なく警策でパーンというあれデス。
年長の子供たちは既に経験済みなのか、どっしりと落ち着き揺らぎ無く、年若い子はやはりツライよう。
しかし、和尚に指導されても泣かずにしっかりしてるのはさすが武士の子。
柴田権六さんは当然のように背筋も伸びて形がきまってます。
意外なのはさすが後の丹羽長秀。
万千代君は五歳の子の中では唯一注意を受けず、やはり小さい頃から優等生なのか…。
年少の子らは四半刻、年長の子らは半刻、座禅の時間が済んだら、寺での日課は終わり。
後は自由時間で、すぐに帰る子も居れば、境内で遊んでいる子も居る。
このあたりは、昔も今も変わらない風景。
私は初日ということもあるので、和尚に挨拶をすると早々に家路につく。
帰り道もてくてくと、一刻ほど歩いて屋敷に戻った頃には既に夕方だった。
毎日通うわけではないけど、そのうち苦もなく歩けるようになるのかなあ。なんて。
ちなみに、その日は早々と爆睡してしまったのでござる。
子供は楽でいいね。
『父上の凱旋』
寺通いが始まり、秋になる頃、三河安祥で勝利を収めた父が凱旋してきた。
既にどこかの城で着替えたのか、出陣したときと同じく、威風堂々とした人たちが城門を抜けて帰って来た。
門の周りに集まった人たちから声が上がると、父信秀が片手を上げながらそれに応えていた。
戦帰りの兵士は顔つきが変わると聞くが、流石に戦に勝ってからここまで何日も時間が経ってるので、みんな出陣したときと変わらない。
違っているのは、緊張した顔や、悲壮感漂うような顔の人は居らず、安堵したようなそんな表情の人が多いのが印象的であった。
どのくらいの人が戻ってこなかったのかは判らないが、お城の人も戦から戻った人もみな嬉しそうで、屋敷の前で整列すると、父がひと声かけて、解散となった。
久しぶりに見た父は、やはり貫禄があり、カッコイイ。
私を見つけると満面の笑顔で近寄り、抱き上げると吉、勝ったぞ。と笑ったのだ。
そんな近くで見つめられると、と内心ドキドキしながら、父上、勝ち戦、おめでとうございます。と祝った。
すると、父は破顔してギュッと抱きしめてくれたのだ。
いかん、これはファザコンになってしまう。危険だ危険。危険でござる。
と、内心茶化してなんとか平静を保つように努力する。
普通の七歳なら、素直に喜べるのに。
と、この時ばかりは転生したことを恨んだのだった。
その夜の夕餉はいつもより豪華だった。
しかし、この時代ってこんな時でも妻って来ないのかな…?
と、父の笑顔を見ながら内心思ったのだった。
実は、あとで知ったのだが、先に那古野城に凱旋し休養を取った後、古渡城に戻ってきたのだった。
出陣したときも、那古野城に集結して出陣式を行い、三河安祥に向かう途中に古渡城に立ち寄ったのだった。
まあ、よく考えたらそれもそうかと。
確かに、信広兄は居たけど、出陣式なんて無かったし。
そして、その信広兄は史実通り安祥城の城主として三河に残った。
兄上、吉は兄上のためにやらかしますよ。と密かに心に誓ったのは内緒だ。
『万松寺建立』
父信秀は、那古野城の南側に織田家の菩提寺になる万松寺という、那古野城の規模にも劣らぬ広大な敷地に、壮大かつ荘厳な曹洞宗の大寺院を建てはじめたらしい。
凱旋後の父は内政に力を入れているのか、屋敷にも偶に顔を出すくらいで、精力的に動き回っているようで、一緒にいる時間はかなり短くなってしまった。
戻るたびに、今回はどこそこに行ったという土産話と一緒にお菓子などを持ち帰ってくれるから、嫌われてるわけではないと思うけど、不安だ…。
その頃の私はというと、寺通いにも慣れ、ヘトヘトにならずに時間までに寺にたどり着けるくらいの体力面での前進があった。
だがしかし!
柴田権六殿はその後元服し、また顔を出すとは言っていたが、一先ず寺通いは卒業してしまったのでござる。無念…。
牛助とは佐久間半介、例の退き佐久間こと信盛殿で、一度だけ権六殿と一緒に挨拶に来た。
歳も近く、同じくらいの時期に元服したそうで。
半介殿も権六殿と同じく細マッチョでかなり鍛えてるのが服の上からでも分かる感じで、割と普通の感じの人ってイメージ。
万千代くんは真面目なのは良いけど、どうにも一線引いてるというか、君臣の関係を崩さないというか、難攻不落なのだ。
そんな私の最近のマイブームは、勿論快川和尚ですよ。
習い事が終わったあとに、和尚と色々とお話するのが楽しいのです。
やはりこの人はすごいですね。物知りです。
でも、偶にいやらしい意味ではなくて、目の中を覗き込むようなそんな不思議な視線を感じるんですよねえ…。
今回は、寺に行った話と、安祥城のお話でした。
いやあ、当初書いてた寺はストーリー的に良かったんですが、あまりにも遠すぎたんですよね。
で、他にも良い寺がないか探したんですが、これがまたないんです。
そいで、結局信長が通ってた寺に来てもらったことにしました。
勘十郎は城の中に寺を作って、そこに来てもらってることにしてます。