閑話八 第二次加納口の戦い
天文十六年九月 信秀視点での加納口の戦いの顛末です
天文十六年九月 織田信秀
前年、朝倉孝景殿と斎藤利政殿の間に和議が成立し、朝倉が支援する守護家の土岐頼純様が新たに守護となられた。
我々が支援してきた頼芸様は隠居、妹の居る近江の六角氏を頼るという話であったが、近江の影響力が美濃に及ぶことを儂は良しとせず、引き続き我が織田家が面倒を見ることにして、頼芸様は大垣城に寄寓する事となった。
果たして斎藤利政殿は新たに守護となられた頼純様を蔑ろにした挙句、大桑城に幽閉状態に追い込んだのだ。
結局、頼純様の窮状を聞いた朝倉孝景殿が美濃に兵を出すことになり、前回出兵した我らにも出兵の依頼が来たのだ。
斎藤利政殿を除くことが出来ずとも、また美濃にて勝利を重ねることは、大垣城の支配をより安定させ、斎藤方の北尾張の国人や、西美濃の国人らへの影響力が更に強まり、織田家へ鞍替えする家も出てこよう。
たとえ領地を切り取れずとも、我らに損はない。
大事なことは、将兵を無駄に損じること無く、負けぬこと。
吉の言うとおりというわけだ。
古渡を出陣し、いつもの様に那古野にて出陣式を終えた儂は、一路美濃へ向かい行軍する。
途中、清洲の守護様の家臣たちと清洲織田勢、更には岩倉織田勢などと合流すると、木曽川を渡り、物見を先行させつつ、加納口を前に陣を敷いた。
此度は、吉の策を事前に信友殿と談合し、さも不仲なふりをしてここに来ている。
陣の配置も明らかに下位の位置に付け、我が勢と守護様の重臣らが我らが本陣に臨席している。
信友殿は今も当たり散らす演技をしているのが見えるが、事情を知らねば余程不仲なのだと思うだろう。
そして夜の内にまた陣替えをし、翌朝城攻めとなった。
此度は、岩倉は守護様の軍勢とともに死地に伏せてある。
先手は我が弾正忠の先手衆。
清洲勢、そして我が弾正忠家の軍勢が寄せ手として城を囲むよう布陣している。
朝倉勢も無事この金華山へと攻め寄せ、また搦手より攻め上る手はずだ。
陣太鼓がなると、先手衆が矢楯を前に攻め上っていく。
稲葉山城から弓矢が降り注ぐといういつもの城攻めの光景が眼前に広がる。
先手衆が取り付こうかという所で、兼ねての打ち合わせ通り、信友殿が怒り心頭とばかりに派手に怒り出し、清洲勢が勝手に陣を引き上げだす。
儂も、それを見て怒り心頭の演技をし、伝令を幾度か走らせるが清洲勢はそのまま下がっていく。
陣立てに大きな穴が空き、ここに突入されれば大変なことになるだろう。
本当ならばな…。
果たして、吉がくれた地図のうちの一つの間道から騎馬が出たと報告を受けると、ややすると騎馬の突入をその大きくあいた穴に受けた。
騎馬はそのまま清洲の背中を食い破らんと猛追し、それをなんとかしようと陣を動かそうとして混乱する我が勢にさながら横槍を入れるように、別の間道から槍が押し寄せてくる。
我らはそれを見て、大混乱の風体で兼ねての打ち合わせ通りの動きで死地へと美濃勢を誘い込んでいく。
勿論、踏みとどまって戦おうとする者も居るが、うまく間合いを取って下がるように命じてある。
この度は美濃勢は三つの間道から軍勢を繰り出し、これが本当だったら我が軍勢は多くを討ち取られ、木曽川で溺れ死ぬこととなったろう。
清洲は犠牲を出しつつも、騎馬をなんとか引き込み、上手く木曽川の手前まで誘い込んだ。そして、木曽川を前に覚悟を決めたとばかりに陣を整え騎馬を迎え撃つ。
前回、ここで美濃勢を散々に討ち果たしたのだ。
我が弾正忠の軍勢も、傍目には無秩序に、侍が悲鳴に近い号令をあげながら、上手いこと敵を死地に誘導した。
此度の作戦は、二つに分けた我が軍勢の間に清洲の軍勢を置き、清洲の軍勢が下がる所に、騎馬の突入を予測した。
それに対応しようと陣を動かしたところで、背後から横槍が入ると見た。
その、横槍を上手く下がりつつ交わしながら、敵の軍勢を上手く中央に誘導し、我が軍勢が今度は上手く回り込み、そして戻ってきた先手衆と合わせて敵の軍勢の蓋をする。
その後、伏せておいた左右よりの横槍により、包囲殲滅というのが作戦だったのだ。
果たして、前回より少なからぬ犠牲者は出たが、上手く敵を気持ちよく戦わせて誘導し、我が軍勢で蓋をした。
そこで合図の陣太鼓を鳴らし、伏せておいた岩倉と守護様の軍勢で横槍を入れた。
以前の惨敗をもう忘れ、既に勝ち戦を確信していた美濃勢は、たちまち大混乱に陥り、散々に討ち果たされた。
なんとか囲みを突破して逃げた者も勿論居たが、それを見逃すのも前回と同じ。
またしても、我が軍勢の大勝利であった。
あとは、また陣を整えて城を遠巻きにし、朝倉から城へ使者が出て、和議となった。
結果、守護様へ利政殿の娘が和議の証として嫁ぐ事になり、それぞれ引き上げたのだ。
此度の戦の勝因は、やはり地図の存在が大きいであろう。
吉より地図をもらい、勿論あの段蔵の存在も知っておったから、いい加減なものではないとは思っておったが、甲賀の者に調べさせたらあまりにも正確で、驚いておった程だった。
これのお陰で、事前に間道の存在を知り、敵の奇襲経路を予測できた。
更には、無駄のない兵らの移動を可能にし、敵の誘導に成功したのだ。
この敗北で美濃はまた多くの将兵を失った。
これで暫くは動けぬだろう。
此度の先手衆を率いたのは三河より参った吉右衛門殿であったが、実に見事な働きであった。
流石、名に聞こえる猛将、尾張の兵らを見事に使い、城攻めと引き上げの際の犠牲も少なく、包囲後の死に物狂いで戦う美濃勢を寄せ付けぬ奮闘ぶりだった。
あの活躍を見れば、もはや新参者などと侮るものも出てこないであろう。
他にも、柴田権六や佐久間半介など、更に若い世代の活躍も見事であった。
我が家の次代の成長を見れば、まだまだ儂も励まねばという気持ちになる。
我らはそれぞれの居城へと意気揚々と凱旋し、儂と守護代殿達は清洲の守護様に戦勝のご報告に上がった。
守護様は大いに喜ばれ、慰労くだされた。
この度は少なからぬ犠牲は出たものの、美濃での戦果から考えれば軽微と言ってもよく、なにより主だったものは皆無事に帰還したのだ。
那古野での弾正勢の戦勝の宴はこれまでになく豪勢なものとなった。
此度帰らなかった者に対しても、吉の進言に従い残された者に慰労金を払い、寡婦の世話をし、不具となったものにも仕事の手当もせねばな。
それによって我が弾正忠は益々強くなると吉は言うが、そのとおりなのであろう。
全ての手配を終えると、那古野に凱旋して幾日も経っておったわ。
さて、儂も古渡へ凱旋し吉の顔を見るとしよう。
第二次加納口の戦いは再び大勝利に終わりました。
次回も加納口での閑話を挟む予定です。