第五十四話 吉姫の学校
吉姫の学校が開校です
『又五郎くん寺へ行く』
その後、天野又五郎君は本来ある筈のなかった勉学へのチャンス。寺への切符の誘惑に抗しがたかったのか、寺へ行くことになりました。
彼だけ、快川和尚の預かりと言うことになり、寺の宿坊へ移っていきました。
彼曰く、快川和尚の名声はすでに東三河へも届いており、そこへ子供を送れる安祥方を羨ましく思う者は多いらしいのです。
確かに、快川和尚が寺に来て子供たちに教えだして、尾張の子供たちの水準は確実に上がってると思うのだけど、安祥を安定させ、大いに富ませている信広兄の軍略や政治が快川和尚に薫陶を受けたものだと言うことになってると言うのが三河では大きいのかも?
兎も角、これで年長の又五郎君が居なくなったので残りの子たちの年齢が揃いました。
又五郎君は寺へ講義に行く時に、じっくりと取り込ませてもらいましょう。
表では華々しく無くとも、彼のような真っ正直な心根の民生家こそ屋台骨。我が家で是非役に立ってもらいましょう。
なにしろ共に学ぶ子らの多くは織田家中の子供たち。ここで友を作り、尾張の現実を知ればこのまま留まり要職を目指したほうが天野家にとっては良いと解るはず。
『戸田氏救援の顛末』
天文十六年の八月も中旬を過ぎた頃、九月に予定されている父上の出陣も近づき、古渡も活気づいて来ました。
戸田氏への救援は今川が海からの後詰を想定していなかった事もあり、東三河の湊に入港した大小のダウ船団は無事に戸田氏の田原城を攻囲する今川軍の後方へ軍勢を上陸させ、後方より襲撃、同時に田原城より呼応した戸田勢と挟撃して散々に打ち破ると今川勢を遠江へと追い払いました。
その後、予てより調略の進んでいた三河南部を傘下に収め、渥美半島との陸路の連絡路を繋げることに成功したのです。
これにより、岡崎方は勢力範囲を更に狭め、安祥方は直接今川の遠江と接する事になったのです。
そして、来年雪斎率いる今川の大軍が攻め寄せてくることになるのでしょう。
『吉姫の学校』
又五郎くんを寺へ送った後、熱田の加藤殿に人質の子らを教育するという話をすると、敷地内の建物を提供してくれました。
この建物に長机を並べて教室にし、授業を行うことにします。
こうなると、黒板とチョークがほしいところですが、確か一番最初に作られたチョークは石膏を焼いて砕いて水で溶いて再整形したものですが、石膏は犬山の善師野で取れた気がしますね。
加藤氏にその話をすると、人をやって調べてくれるとか。
この時代では石膏というのは漢方で使われる薬の材料として知られている筈です。
チョークの作り方を書面に書き、加藤氏に制作を依頼すると、黒板の制作もついでに頼みました。チョークだけが完成しても意味がないですからね。
それらの制作の間に、教科書の執筆を進め、寺から来てもらった小僧さんに手分けして写本を頼みます。
小僧さんは初めてみるアラビア数字に面食らってましたが、ナゾの記号だと割り切ることにしたのか、先ずはせっせと写本を頑張ってくれました。
草書ではなく、楷書の文字を書く機会は殆ど無いので、かなり面倒だったでしょう。
こういう時、全てを修行と割り切ってくれる小僧さんの根気は助かりますね。
そうして、なんとか初歩的な算数と国語の教科書が完成しましたので、授業を始められる運びとなったのです。
しかし、誤算が有りました。
何故か私が熱田で学校を開くという情報が何処からか漏れ、生徒が増えてしまったのです。
加藤氏のご子息をはじめ、熱田や津島の商人の子供たちや、近隣の武士の子供たちが何処で噂を聞きつけたのか、子を連れた親たちが挨拶に訪れ、なんと四十名近い子供たちを教える羽目になってしまったのです…。
どうしてこうなった…。
父の「大事な御仁達の子息故よろしく頼む」という書付を、満面の笑みの加藤氏に手渡されたのはその後でした。
開校日をすでに告げた後の事故、もはや遅れることは父の顔に泥を塗る事にもなりかねません。教科書の増刷の為に、寺より応援を頼み、人海戦術で写本しましたとも。
そして、開校日、最初広すぎると感じた建物の部屋にはキッチリと人数に合せて長机が並べられ、黒板がおかれ、出来たてのチョークの箱が有りました。
後から発注した黒板消しも間に合っています。
最初に入ってきたのは三河からの六人の子供たち。
広い部屋に自分たちの人数では到底座りきれない数の長机に圧倒され、怪訝そうな顔を私に向けます。
竹千代くんが問います。
「我らに手習いを教えてくれるという話であったが、この部屋は我らには広すぎるのではないか。それに、この机の数は明らかに我らより多い」
私は作り笑顔を引き攣らせながら疑問に答えます。
「竹千代くん、私が学校を作ると聞いた近隣の子らが一緒に学びたいと言ってるの。
君達六人では寂しかったでしょうが、これで楽しくなるでしょう?」
竹千代くんは驚きます。
「なっ、我らは客人として扱われてはいるが、実のところは人質であろう。そのような近隣の子らと一緒にして困るのはそちらなのではないか。
我らがその子らに紛れて逃げたらどうするのだ」
それはもっとも。
「松平宗家の嫡男たる竹千代くんは譜代家臣の家柄の又五郎くんを見捨てて逃げたりしないでしょう。
それに、近隣の子らが望んで学びに来る私の授業を受ける機会を無にしてしまってもいいの?」
というと、その澄んだ瞳をじっと見据えます。
竹千代くんは顔を赤くすると慌てて答える。
「も、もちろんだ、我は譜代の家臣を見殺しにしたりせぬ。
その授業とやらにも少しは興味がある故な、お前を困らすのは止すことにしよう」
私はそれを聞き竹千代くんに微笑んで見せました。
「それが良いわね」
そんな話をしてると、始業の時間が近づきぞろぞろと学校にやって来た子供たちが姿を見せだします。
そして、めいめい好きな席に座ると、前を向いて静かに待つ。
先に来ていた竹千代くんらの正体は彼らには明かしていないため、単に先に来ていた見知らぬ子という程度にしか認識されていないはずです。
この時代の子らは躾が良いのかたまたまここに来た子らの育ちが良いのか、平成の小学生の様に勝手にうろついたり雑談したりする子はいませんね。
全員が揃うと、皆に声を掛けます。
「皆さんおはようございます。
私が皆さんの勉強を教える、吉先生です。
今日から、よろしくお願いしますね」
すると、皆が一斉に声を声を発します。
「「「吉姫先生おはようございます!!今日からご教授よろしくお願いいたします!!」」」
みんな元気で礼儀正しいですね。
そんなわけで、私の学校は始まったのです。
授業は週二日の午前中に行う予定です。
それ以外は、ドリル的な物を宿題に出します。
そして、何故か守護様の家臣筋の筈の丹羽万千代君が補佐役としてここに居ます。
和尚曰く、万千代くんは大変優秀ですでに手習いの範囲を終えており、元服はまだまだ先だが、更なる勉学も兼ねて吉姫の学校の補佐役になることを名乗り出たのだとか。
既に守護様やお父上の許可も得ており、守護様の書付も持参という手回しの良さ。
流石、米五郎左なのでしょうか…。
そんな彼の補佐もあり、授業は滞りなく進んでいくのです。
詰め込み学習バンザイ。
しかし、さしもの万千代くんもアラビア数字とゼロの概念には最初面食らったのでした。
ここで万千代くん登場。
これで、アラビア数字と算数を使いこなす更に有能な官僚になること間違いなしですね。