第五十二話 戦の日は近い
天文十六年の更なる大イベント、大戦は迫るのです。
『父との対話』
竹千代くんとの対面から二日後、戦の準備で多忙な父と先日の話と次の戦の話をします。
「吉よ、松平の嫡らはどうであった」
「はい。嫡の竹千代、国人らの子、いずれも長じれば優れた武将となるでしょう」
「そうか。ならばこそ、我らに取り込まねばならぬな」
父はそう言うと静かに笑った。
「教育が人を作るとも言います。織田でしっかりした教育をすれば、必ず我らに取り込めましょう。既に、年長の天野氏の子は私がした尾張の話に興味を示した様子。
国人にとっては、主君への忠誠も結局は自ら生まれ育った基盤である領地を守り富ませる為の事。今の安祥や西三河の有り様に無関心では居られ無いでしょう。
ましてや、それを後援する織田弾正忠家ともなれば」
「うむ。そうであろうな。
子らの教育については吉に策があるのだろう。
先日話した通り、任せる故、必要なことがあればまた言ってくると良い」
「はい、父上。
ところで、嫡をこちらで預かってる旨を知らせる使者を立てるかと思いますが、どのような話にするか決められましたか?」
「いや、まだ考えておる最中だ。
高圧的に出るのか、それともいっそ出さぬのも手かなとも思っておる。
つまり、行方知れずと言うやつだ。知らせる義理は無い故にな。
無論、いずれ時期を見てこちらで保護していることを公表するだろうが。
吉、何か策があるなら参考にする故、話してみるが良い」
「はい。
私は、この機会に和議を申し込むのが良いかと思います。
勿論、ただ和議を申し込むのではなく、和議を結ぶと同時に、武衛様への臣従を要求するのです。
岡崎が既に後詰も見込めず、軍に囲まれ籠城中で風前の灯という状況ならば兎も角、まだ懲りもせず安祥に攻め寄せるくらいの余力がある現状ですから、相手側にも多少の利は見せねばなりません。
もし、和議を受け入れ、武衛様に臣従するのであれば、松平宗家は岡崎安堵。
これまでの遺恨は一切水に流し、これからは同じ守護を奉じる同盟関係として、戦の続いた東三河に対して、尾張から技術や物資の支援を行う。
という、好条件を出します。
この条件は、守護様の名で国人や民にも公表します」
「ほほう。随分と大盤振る舞いだな。
だが、それだけではないのだろう?」
「この条件であっても、広忠殿は受け入れないでしょう。
広忠殿にも松平宗家の意地がありますし、既に今川に深入りしすぎました。
現に先の戦では今川勢が出てきました。
この和議の提案は、広忠殿に向けた提案ではなく、三河の松平一族や東三河の国人たちへ向けた和議の提案なのです。
尾張の織田は、松平と和議を結ぶ用意がある。更には、長きに渡る戦乱に苦しみ続ける三河の民を支援する用意もある。と。
つまり、この和議の提案は、広忠殿の後に向けた提案なのです。
救いを求め続ける民や先が見えず不安な国人達は、見える先がほしいのです。
その先は既に川向うの安祥にある。
これほどわかりやすい話はないでしょう。
それに、もし広忠殿が和議に応じても良いのです。
その場合は、これ以上松平相手に血を流す必要はなく、全てを取り込めるのですから」
父は膝を叩いて同意する。
「その策は良い。実に良い。
確かに、三河が取り込める事を考えれば、大盤振る舞いでも何でも無い。
吉の言うとおり、織田の持ってくる将来を語って聞かせただけで、松平が降ろうと降るまいと、同じことをいずれにせよすることになるのだから、何も変わることはない。
三河が安定し、今川がそうおいそれと入って来れなくなればそれで良いのだ。
よし。その策で行くか」
「はい。参考になったようでよかったです」
「吉のいう、『心を攻める』であるな」
「その通りです。
ところで、父上、そろそろ戦が近い様に感じましたが、如何でしょうか」
「うむ。まだ何処にどのようにという所までは見えておらぬが、朝倉殿に呼応し、美濃へ兵を出すつもりだ。
しかしながら、三河で動きがあり、安祥の手に余り後詰の必要がある位であれば三河へも兵を出す。
既に救援の要請が来た戸田氏は安祥からは陸を通っては遠すぎて全て城を落として行くのは無理故、船で後詰を出す予定にしておる。
吉の作ったあの三角帆の船、あれを去年から更に大きなもの、小さなものと幾つか型を作って、大急ぎで作らせておいたのだ。
それが間に合った故、それなりの兵を送ることが出来よう。
あの船は良い船よ。風向きに依らず船を動かし、矢楯を並べれば戦船。外してしまえば商船としても使える。
戦にしか使えぬ関船より余程良いな」
えええ、あの船のこと何にも言わないと思ったら、既に量産中でしたか…。
「なんと、そうでしたか。
上手く後詰できるといいですね。
美濃への出兵ですが、この度はどのようにされるのですか?」
「この度も、結局は前の時と同じで、朝倉殿が土岐頼純殿を立てて兵を出し北西より攻め上がり、織田勢で加納口を攻めることになるであろう」
「稲葉山城を落とすつもりで行くのですか?」
「いや、稲葉山城は落とせぬだろう。
故に、なんとか城から引き摺りだして叩き、また和議であろう。
朝倉殿も儂も美濃の斎藤が動けなくなればそれで良い。
守護の土岐様は何れにせよ、もはや昔のような力は取り戻せまい。
無駄に将兵を損じることだけは避けねばならぬ」
「父上のお考えどおりかと思います。
それで、策はもう決まったのですか?」
「いや、まだ検討中だ。
同じ策に乗るほど利政殿は愚かではない故な」
「ならば、出てくるようにしてやればどうでしょう。
機を見て敏であるほど、刹那の好機は見逃しますまい」
「ほう、どうやるのだ」
「事前に兵を伏せ、死地を作るのは前回と同じです。
今回は予め噂を流し、そして敵の前で噂は事実だという茶番をやるのです」
「詳しく話してみよ」
「はい。
今現在、岩倉と清洲の織田家とは今までになく関係が良好です。
しかし、他国はどうしてもそういう情報は遅れて入るもの。
特に、清洲は実際の力関係は兎も角、守護様を擁しており、清洲織田家、つまり織田大和守家は守護代で、我が弾正忠家はその奉行であり主家でもあります。
普通に考えれば、大和守家は台頭する弾正忠家が面白いわけがないのです。
実際、今は父上とも関係深い因幡守達広殿の子で大和守家へ養子に入った信友様が当主故、ここまでの関係になったのですが、元々の大和守家の重臣たちは必ずしも快く思っているとは限りません。
この度の美濃攻めも守護様の家臣は勿論、岩倉も清洲も参陣するのだと思いますが、これを利用するのです。
清洲の大和守信友様は守護様の手前もあるので父上に仕方なく力を貸しているが、ここ最近の勝ち戦続きで、弾正忠家が増長していると考え、内心憎々しく思っている。
故に、この度の出兵も守護様の命で出陣をするが、総指揮を執る父上の扱い次第では爆発しかねないところまで来ていると。
信友様と予め示し合わせておいた上で、美濃や斎藤方の間者達に噂を流すのです。
実際に、戦地まで口も聞かぬ位の芝居をしてやるのが良いでしょう。
そして、清洲織田の軍をわざと格下の位置に配置してやるのです。
その行為に、信友様は大いに立腹され、兵を勝手に引き始め、戦線に大穴が空いてしまう。
父上は突然の離脱に驚き、怒り、焦る、そんな芝居でも見せてやれば尚良でしょう。
それを稲葉山城から見下ろしている利政殿が見たら、今こそ好機と、またもや兵を繰り出してくるでしょう。
普通なれば、またとない好機ですから。
強襲の兵を出してくれば、清洲勢は驚き無様に死地まで算を乱したフリをして逃げて行く。
斎藤方が食いついたところで、清洲勢は兵を返し応戦し、同時に両側より横槍、そして父の軍勢で後背より攻め掛かり、散々に叩いてやるのです。
なんとか囲みを突破したものはそのまま逃してやればいい。その恐怖を城で語って大いに士気を下げてくれるでしょうから。
その後は、また利政殿は閉じこもって出てきませんから、和議の使者を出して和議をして、悠々と兵を引けばいいでしょう。
我らが大垣城を長く保持すればするほど、西美濃に織田家の支配が浸透します。
もしかすると、後で更なる和議を利政殿の方から言い出して来るかもしれません」
じっくりと話を聞いていた父はまた膝を叩いて頷きます。
「うむ。これもまた良き策だ。
それなれば、稲葉山より斎藤方を引き摺り出せるであろう。
今は噂を流す技に長けた甲賀の者も多く抱えておる故、彼らの活躍を見せてもらうとしよう。
吉が先日くれた地図。あれのおかげで何処に陣地を置くか、何処に兵を伏せ、どこから斎藤方が兵を繰り出してくるかを検討するのに実に役立って居る。
こちらの監視の者を予め伏せておくこともできる位だ。
感謝するぞ」
「父上のお役に立てて良かった」
それを聞き、父の顔が少し曇る。
そして静かに話しだした。
「…これは言わぬ様にして居るのだが、本当に吉が男であったならなと思わぬ日は無いのだ。
男なれば、三郎の名を継ぎ、嫡男として儂の後を継いだのだ。
家督を継ぐ前に、既にこれだけの知名度と実績がある嫡男がどれほど居ようか。
もし男なれば、尾張を一滴の血も流さずに一纏めにも出来よう程に。
儂はな、お前の母の祥のためとは言え、不憫な事にしてしまった吉には女子として幸せになって欲しい。
それだけが願いだったのだ。いや、今でもそうなのだ。
いずれ良き相手に輿入れし、子を産み育て良き家で幸せに暮す。
それだけがなれば良いと思っておるのに、吉よ、お前というやつは…。
何故これ程の事をしてしまったのだ。
お前が不憫故、お前が望むことをなんでもさせてやった儂が悪いのかも知れぬ。
そして、その結果、儂は望外の結果を得たのもまた事実。
だがその代わり…。
まだ輿入れには早いが、十四ならば輿入れの相手が決まっておっても不思議では無いのだ。
お前の相手は中々に決まらぬかも知れぬ。
考えが無いわけではないが、今更刻を戻すことは叶わぬ故。
それだけは覚えておいてくれ」
「父上…」
それはわかっては居るのです…。
吉姫の策は『釣り野伏せバージョン弐』でした。
父の心中とは裏腹に、吉姫は父の寿命を延ばすべく頑張るのです。