第三十九話 兄との対話
信広兄と色々お話します。
『兄との対話』
部屋に下がると、暫くして信広兄が訪れました。
前回は、山本殿と服部殿を伴っていましたが、今回は兄一人です。
兄が人払いをしてくれと言うので、侍女の千代女さんを下がらせ人払いを頼みました。
二人で向かい合って座ります。
兄と会うのは、昨年の私の裳着の時以来でしょうか。
ちなみに、私は今年で一つ歳を取り十三歳、戦国の数え方だと数えで十四歳です。
「さて、兄上。お話とはなんでしょうか」
「まずは、去年に送ってくれた模型、感謝する。
随分精巧なものだったが、あんなものよく作れたな。
まあ、吉ならありえるとは思ってたが…。
最初は、観賞用の置物かと思ったぞ。
一緒に届いた書付をみて塩田施設の模型だと言うことがわかったが。
あれを腹心の勘助に見せたり、三河で塩を作ってるものに話を聞いたりしたが、あのようなものは何処にもなかった。
模型の中でまずは驚かされたのは揚水機だ。
あの螺旋の入った筒を、見たことがあるものは誰も居らなんだ。
試しに、領内の腕のいい大工に作らせ、池にて試してみたが、手で回せばそれほど労力をかけずとも、驚くほどの水が揚水される。
あの揚水機は、吉は塩田施設用に作ったのだろうが、農業で使う水を揚水するのに非常に使い勝手がよかったぞ。
揚水機一つで、あれほどの効果がある。人と銭を掛けてでも塩田も作らねばと思い、試しに三河の塩を作っている浜の一角にこしらえてみた。
作るには大勢の人手と然るべき期間が掛かったが、その成果は実に素晴らしい。
これまで多くの人手と労苦を経て作られていた塩が、あの模型の施設なれば、格段に少ない人手と労力で、これまで以上の多くの塩を作ることが出来る。
お陰で、塩田の村は生産量を大幅に向上させ、これまでは三河での使用分を賄った他は甲斐などに少しを売っておったのが、今や西三河の特産品の一つになった程だ。
労苦を大幅に減らしたことで、村人からも大いに感謝されたぞ。
塩田の事、感謝致す。これのお陰で資金面もかなり改善した。
この度の塩田もそうだが、家臣たちの事といい、三河平定の献策といい、吉には助けられてばかりだな」
三郎兄はそう語ると、なんだか恥ずかしそうに笑った。
「兄上、お力になれたようで何よりです。
安祥は我が弾正忠家のみならず、武田や今川の侵攻から尾張を守る大事な要衝。
兄上が、三河を平定できれば、尾張は美濃に専念できます。
三河と、美濃と、北伊勢、この三国を我が勢力圏とすることが出来れば、尾張は実質無風の地と出来、これまでにない安定を民にもたらすでしょう。
この豊かな尾張が安定すれば、恐らく貫高と人を倍増させることが出来るでしょう。
安定するということは、人が死なぬと言うこと。
人が死なぬと言うことは、作り上げたもの全てが壊されること無く、継承されていくという事なのですから。
そして、尾張が豊かになれば、必ずその周辺国も豊かになります。
三河は勿論、美濃、近江、伊勢、或いはその向こうの駿府まで、その豊かさが波及するやも知れませぬ。
そうなれば、もはや今川は攻めてくることは無く、寧ろ合力し、その豊かさを共に享受することを考えるようになる筈。
義元公は油断ならぬ御方であると同時に、銭の力を知る抜け目無き御方故、それがどれだけの物をもたらすのか、すぐに思い当たりましょう。
しかしながら、それは未だ今暫くは先の事にて兄上は今川相手に一度は大きく勝たねばなりませぬ。
勝って容易な相手ではないと思い知らせねばなりませぬ。
そうすれば、兄上は三河一国を制覇出来ましょう」
静かに聞いていた兄上が、大きなため息をつく。
「やはり、これまでの献策は全て吉の策であったか。
そうだとは思っておったが、今の話を聞いて確信致した。
吉にもはや齢の話しをするのは愚かというものだろう。
これが吉なのだと、そういうものだと納得する方がわかりよい」
そう語ると、笑い、また語りだす。
「吉の話した策は、まこと理にかなっていると思う。
ただ話を聞いただけなら、絵空事だと笑いもしたろう。
しかし、昨日の父の話を聞き、これまでの数々の献策や振興策を見れば、それは十分に実現可能なのだということが解る。
儂も、尾張はそうあるべきだと思う。
国が豊かに強くなれば、豺狼の如き周辺の国は我が国を侵そうなどと思うまい。
豊かさはそのまま人の多さに繋がり、人の多さはそのまま軍の強さに繋がるからな。
それが実現すれば、少なくとも我らが領域は、乱世を他人事と出来るやも知れぬ」
「そういうことです。兄上。
これを富国強兵策と言います。
その豊かな国と誼を通じて、銭を持って交われば、更に銭を生み出す。
豊かな産物はその領内全てに行き渡り、豊かな民が物を買えば更に銭を生み出す。
これを銭の相乗効果というのです。
恐らく、尾張の生み出す豊かさを受け入れた国は、同じく豊かになり、もはや戦などする必要はなくなるでしょう。
戦もせず、領土を増やさずとも豊かに成れることは、既に実現して見せました。
日ノ本の民が、これだけ困窮し、明日をも知れぬ暮らしを続けているのは、ただ偏に戦乱のせいです。
戦は七飢に勝るという言葉は、まさに今の日ノ本を表しているでしょう」
「うむ。まさにそうであるな。
吉の言うとおりだと儂は思う。
以前よりは良くなった程度ではあるが、今の西三河もそういう状態だ。
民を慰撫し、争いを無くし、皆を豊かにすれば、諍うこともない。
結果、東三河より流民が流れ込むという有様。
西三河は今豊か故、仕事が溢れており、流民が流れ込んできても、それを血肉とする余力があるのだ。
吉の語る国の在りかたは正しいといえる」
「日ノ本より戦がなくなれば、日ノ本の民が皆豊かに平和に暮らせましょう」
「そうだな。そういう日が来るよう、儂も励むとしよう」
にこやかに語っていた兄が、表情を引き締める。
「吉よ、今川との大戦の話だ。
勘助も同じことを言っておった。
岡崎の松平広忠は、何れ自壊するだろう。
既に広忠に不満を感じている者は多く、松平宗家の求心力も地に落ちた。
戦しか知らぬ広忠がそれを挽回するには、安祥に、儂に勝つしか無い。
しかし、今の安祥を岡崎が攻める程の国力はもはや無いと見ている。
そうなると、恐らく今川に手を借りる可能性が高い。
今川は恐らく、今の広忠に下手に肩入れするより、広忠を利用して東三河を勢力下に入れることを考えるであろう。
ならば、今川より後詰は来るだろうが敵わぬほどではないだろう。
広忠を今一度追い払えば、二度と独力で立ち上がれまい。
そうなった時、今川は広忠を取り込み、三河に本格的に兵を出してくる。
これを撃退すれば、既に依る所無く、多くの松平分家も安祥に臣従している故、三河の国人達はこぞって安祥に臣従しよう。
これで、三河の平定はなるだろうというのが勘助の見立てよ」
昨日、叔父達に話していた話しを兄は再びしてくれた。
「兄上が今川を撃退すれば、恐らく今川は和議を言ってくるでしょう。
今川は甲斐と北条という強敵が隣りにいますから、弱体化すればいつ領土を侵されるかわかったものではありません。
今川が和議を言ってきたら、和議を結び、以降は北の武田に警戒しつつ、民を案じ、国力を増していけば良いでしょう。
武田もまた北に敵がおり、北条も関東や伊豆に敵が居て、三河や駿府に気軽に兵を出せるような余力は本来ないのです。
少なくとも、義元公が健在の限りは、今川との和議が壊れることはないでょう。
そうなれば、尾張は後背を気にすること無く、美濃や北伊勢に専念出来るのです」
兄は大きく頷く。
「うむ。恐らく、吉の見立て通りであろう。
しかし、言っても詮無きこととは言え、やはり吉が女子というのはいかにも惜しい。
儂も吉が嫡男であったならと、思ったことは一度や二度ではないぞ。
吉が嫡男で、何れ親父殿の後を継いだなら、儂は喜んで仕えるのに。
儂は上手くやっているなどと言われておるが、実のところは吉の助けが無ければここまでにはなっておらぬだろう」
そうは言われても、私は信長ではありませんよ。
「兄上、私をかってくれるのは嬉しいですが、兄上の尽力あってこそですよ」
「吉は相変わらず奥ゆかしいな。
しかし、吉よ。儂は気がかりだ。
分かっておろうが、弾正忠家の姫故、何れ何処かへ輿入れせねばならぬ。
だが、既にこれだけの才を周囲に見せてしまっておる。
吉はどのくらい自覚しているのか知らぬが、この尾張どころかその名は近隣の国にまで広がっているのだぞ。
尾張の弾正忠家に賢姫がおると。
その、姫を迎えることができれば、その家は大きく伸張するだろうと。
そう言われておるのだ。
父は頭を悩ましておる。吉が輿入れするということは、これまでもたらした知識も全て嫁ぎ先に持っていくということだからな。
全ては吉の頭の中から出てきた事ゆえ、留めておくことも出来ぬ。
ならば家臣や一族に嫁がせば、国外に行くことはないが、嫁いだ家は大きな力を得ることになり、家中が揉めるもとにもなりかねぬ。
自分でも少しは考えておいたほうがいいだろう。
おっと、気がつけば随分長居をしてしまったな。
明日には三河へ戻る。
吉には返せぬほどの借りがある故、吉に何かあれば儂はすぐに飛んでこよう。
ではな」
というと、慌ただしく部屋から出ていった。
私がそこまで知名度があるっていうのは初耳ですが、相手に関しては考えぬことはないのですよ。
とはいえ、兄に言われたとおりのことなので、思考停止中。
このまま将来は尼さんにでもなるのかなあ…。
なんて。
信広兄は薄々吉の秘密について気づいています。
ただ、あまりに荒唐無稽なので、馬鹿な話だと思ってるだけです。
さて、正月の話もこれで終わり。
また話は動き出すのです。
誤字脱字など有りましたら教えて頂けると幸いです。
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