閑話六 佐久間半介
佐久間半介が何故吉姫のお供をしているのかという顛末です。
天文十五年六月 佐久間半介
拙者が吉姫様に初めてお会いしたのは、元服を終えたばかりの頃。
高名な御坊が稲葉地城の寺に招かれ、そこを訪れていた権六に備後様のご息女が寺に通われだしたと聞き、一度どんな方が見てみようと、寺を訪ねた時のこと。
齢七つと聞く吉姫様は、歳に似つかわしくない背の高い大人びた感じの姫であった。
拙者は既に備後様にお仕えする事が決まっておったので、再び寺に通うという事もなく、父に付いて領地を巡ったり、武芸を磨いたり。権六らと共に、三河出兵に参陣し初陣も経験した。
その後、未だ家督を継いだわけでもなく、決まったお役目も無かった拙者は、次の戦を待ちながら、家業や武芸に精を出すという日々を送っていた。
そんな折、権六が吉姫様が寺で興味深い講義をしているという話しを教えてくれたのだ。拙者は、あれより数年たったとは言え、まだ齢十の姫様が講義などと、にわかに信じがたく、滑稽に感じたのだった。
しかし、実際にその講義を受けた権六がいたく感心しておる様をみて、拙者ももう一度訪ねてみようと思ったのだ。
果たして講義を聞いてみたら、これが十歳の子の話かというような、拙者の理解を越えた内容であった。
この方は、常軌を逸した人物なのだと思ったのだ。それと同時に、いかにも危うい。
汎ゆる知識を誰彼と無く、惜しげもなく教える姫様を見て、なんと器の大きな方だろうと感じる反面、この方はこのような知識を惜しげもなく語って、どのような影響を齎すのか、想像しないのだろうかと…。
そう感じたのだ。
その内、参加する者達の要望に併せて、本格的な戦の机上演習などを交えた講義をやりだした。
その講義は、例えば既に三国志などで知られている十面埋伏の計などを具体的に地形を描いた地図や駒を用いて、実際に戦の推移に合わせて駒を動かし、机上で策を実現してみせるという、斬新でわかり易いやり方で、拙者自身大いに学ぶ所があった。
そんな策を解りやすくやってみせ、説明することもあれば、様々な武具の解説や運用法などを図面を引き、語って聞かせることも有る。
姫様は、それら全てを実によく理解して居られ、聞く者を唸らせるような内容なのだ。
その講義は、身分年齢問わず、誰でもその場に居合わせれば聞くことが出来る。
それ故か、参加者は既に元服を済ませた大人が殆どで、中には何処かの家中の家老らしき御仁まで来て居られた。
しかも、尾張だけでなく、三河や伊勢、近江など近隣の国の者まで見かけた。
吉姫様の講義は、戦の策の話ばかりではなく、中国の古い時代の故事の話や、まつりごとの在り方、戦そのものの考え方、或いはこの国全体の日ノ本の国としての話や、この国の外の話など多岐にわたる。
特に、偶に小耳に挟む、南蛮の真実については聞くもの皆が衝撃を受けた。
この国は、できるだけ早く戦乱を終えて、再び一つになり、外敵に備えねば滅ばされてしまう。その言葉は、実に重く深かった。
拙者は吉姫様の話を聞き、深く感銘を受けた。
そして、ここ数年、大いに勝ち続けておられる備後様の用いられた策は、恐らく吉姫様の献策によるものだろうと、思い至ったのだ。
実際に、備後様が用いられた策は以前吉姫様が机上演習で説明して居られた釣り野伏で間違いない。
美濃でのあの鮮やかな勝利、そして三河での鮮やかな勝利、どちらもそれを見事に成し遂げた備後様や岩倉家中の将ら、そして三郎五郎様らの手並みあってこその実現なれど、あの策がなければあそこまでの勝利は無かったろう。
特に、美濃での戦は、あれが策ではなく現実に岩倉が崩れていたら、木曽川を前に引くことも出来ず、大敗していたのではないかとも思うのだ。
吉姫様は恐らく、今後も献策なされるだろう。
そして、あの危うい姫様が備後様の勝利を影で支えていると勘付く者達が必ず現れる。
それが家中の者やお味方であればよいが、隣国の者なれば姫様を拐かしたり、悪くすれば害する事を画策する者らが出ぬとも限らぬ。
姫様はあまりにも警戒心が薄く、危うすぎる。
故に、拙者は、心に決めたのだ。この方をお守りすると。
そんな決意をした翌年、姫様は裳着の日を迎えられた。
普段の凛々しい眉を落とされ、盛装された姫は眩いばかりに美しく、この方を妻に迎えられる方はどれほどの幸運だろうと思ったのだ。
そのお姿を見た拙者は、覚悟を新たにし、既に部屋に下がられて居られた、備後様を訪ねたのだ。
備後様は拙者の突然の来訪に少々驚いて居られたが、にこやかに来意を問われた。
この方の誰であれ粗末に扱わぬ器の大きさは、我が事ながら良い主に仕えることが出来た幸運を思わずにはいられない。
備後様、吉姫様の裳着の儀お目出度うございまする。
この佐久間半介、裳着の儀を終えられました、吉姫様の側仕えのお役目の頂戴をお願いしたく罷り越しました。
何卒、お考え願えますよう伏してお願い申し上げまする。
平伏し、備後様の返答を待つ。
備後様は、暫しの沈黙の後、静かに笑われる。
そして。
面をあげよ。それでは話せぬだろう。
半介よ、確かに大人の仲間入りをした、吉には側仕えも必要となろう。
しかし、佐久間の嫡男たるその方を姫の側仕えなどに出来るわけがないであろう。
嫡男は次期当主となるべく、父に付いて学び、時には父の代理もせねばならぬ。
いくらその方の申し出とは言え、姫の側仕えなどにしては、その方の父に申し訳が立たぬ。
その方は、その方の父にこのことを相談しておるのか?
我が父に、こんな話をしたら叱責され嘆かれるに違いない。
しかし、備後様に嘘はつけぬ。
いいえ、拙者一人の独断にございます。
それを聞いて、備後様は溜息をつかれる。
なぜ、その方は吉の側仕えを申し出るのだ。
拙者は、姫様をお守りすることが、家中の大事と思いました故。
それに、姫様の側にお仕えすれば、色々と学ぶことも多くござりまする。
備後様は腕を組み、暫し考えられる。
そして、ふむ。と言われると。
半介よ、実は既に吉の側仕えは一応居るのだ。
その方と同じように、側仕えを希望し、我が家中に仕官してきた者が。
滝川彦右衛門という、近江は甲賀出身の者だ。
中々の人物だったので、召し抱え吉の側仕えとすることにしたのだが、他家の間者の可能性もある。故に、吉と親しいと聞く権六に、彦右衛門の監視と吉の警護を既に頼んだのだ。
他にも、以前より吉には影守を付けてある。
彦右衛門が他家の間者などでなければ、そのまま希望通り吉の側仕えとして仕えてもらうつもりだ。
故に、今のところ側仕えは足りておるのだが、万が一彦右衛門が他家の間者だった場合、儂の見立てではあの者は相当な腕に見えた。権六が勝てぬとは思えぬが、一人ではどうにもならぬ場合がある可能性がある。
あくまで、役目では無いが、暫く吉についていてやってくれと、頼むことは出来る。
それで良ければ、暫しの間、吉の側に付くことを許すが、どうだ?
というと、拙者を見据える。
はっ、暫しの間、吉姫様のお側に付かせて頂きます。
と、平伏した。
備後様は、頼む。と一声掛けられた。
それから、拙者は権六に色々言われつつも、備後様に頼まれた事を明かすこと無く、暇な無役として、吉姫様の行かれるところ、お供仕った。
寺に行くこともあれば、津島に行ったこともあった。吉姫様のご領地にも、幾度となくお供した。
備後様の仰る通り、彦右衛門は相当な使い手の様で、所作に無駄が無く、隙きもない。
側仕えとして、周囲に気を配り警護の任をこなしながら、吉姫様が話された事などを時折帳面に記録しているのが散見される。
話を聞けば、近江国甲賀の国人滝川家の者だそうだが、武者修行がてら家を出て浪々の身の所、寺の噂を聞き、寺で吉姫様の講義を聞き、感銘を受けて暫し側仕えとして仕え、勉強をしているのだと言っていた。
話自体は辻褄は取れているが、間者であるという疑惑は晴れない。
実際話には応じるが、我らと打ち解けている様子もない。
終始笑みを絶やさず、受け答えは丁寧。しかし、目が笑ってないのだ。
そんな彦右衛門を交えた男三人に、備後様の使用人の男、女中を勤める佐々家の長女。
この五人で吉姫様のお供をした。
吉姫様は、領地に行くたびに、その知識を惜しげもなく使い、新たな農機具を作らせ、油を搾るための設備を作らせ、瞬く間に領民に受け入られた。
また、焼酎という美味い酒を作り、備後様の秘蔵の酒とするだけでなく、紀伊から醤油を取り寄せたりもした。
或いは、守護様の家臣太田殿と交友関係を結び、その伝手で弓師を紹介してもらったりと、裳着の後は兎に角精力的に動かれたのだ。
そして、特に何事もなく季節は移り、夏が感じられ出した頃、吉姫様は権六と拙者に西洋の武将が使うという、見たこともない変わった槍を、これまでの供の褒美として下さったのだ。
拙者は自ら望んでお供となり、大した功も成していないのに、このような物を頂いて、大いに感激したのであるが、これを吉姫様の拙者らに対する期待と取るべきか、或いは別の意図があると考えるべきか。
吉姫様は常軌を逸した御仁故、拙者には理解が及ばぬ。
拙者に出来ることは、この扱いの難しい新しい武具を使いこなし、お役に立つことだけであろう。
拙者は、この新たな武具を風切りと名付けた。
この槍を振るうと、風を切る様な音がするのが由来よ。
これからも益々励まねば。
佐久間半介は権六とはまた違ったタイプの人物です。