第百九十六話 火急の知らせ
何やら動きがあった様です。
天文十九年六月中旬、田植えのシーズンも終わり、それに引き続く綿花の植え付けが、そろそろ始まって居る頃でしょうか。
私の化粧地での様々な事業は、一先ず私がしたかった事は一段落したので、以前ほどには顔を出していません。ですが代わりに、月に一度くらい村の人が旬の作物を届けてくれるので、その時に村であった出来事などを聞かせて貰っています。
殆どは他愛も無い雑多な世間話ですが、たまに村であった慶事などを聞かせてくれます。
多分、話には出てきませんが、私の知らないところで亡くなった方なども居るのかもしれません。流石に主だった人が亡くなったり臥せったりすれば知らせてくれると思いますが、そういう話をする事は避けている様に感じますね。でも、昔に比べると医療体制がかなり向上しているので、死亡率も下がっている筈です。
以前とは異なり、今の尾張や三遠では医療行為を安価で受けることが出来ます。また教育を受けた医療従事者が増えた事や医療体制が整って来たので、人々の健康状態は大分改善されている筈です。しかし、医療水準は上がったと思うのですが、それでも人口当たりで考えれば医療従事者の数は圧倒的に足りていない事は間違いないです。
そこで私は、漢書の医学書を前世の私の、素人に毛が生えたレベルですが、医学知識でリライトした、なんちゃって家庭の医学本的な小冊子を作成していました。しかし現在玄庵さんとなつさんは、家庭の医学水準を底上げすべく、その小冊子をしっかりした医学的知見に基づいた本格的な〝家庭の医学本〟にしようと、時間を見ながらですが、改訂執筆中の様です。
この本には様々な症状に対する、医学的知識に基づいた説明や対処法の他、なつさんが持つ和漢薬の知見による山野で採れる薬草などの解説も内容に含まれる予定なので、完成の暁にはきっと実用性のある素晴らしい本に仕上がる事でしょう。
六月も半ばを過ぎた頃、藤三郎殿が慌ただしい様子で訪ねてきました。
藤三郎殿は、普段は古渡の熱田湊に程近い今川屋敷で今川家の外交窓口を勤めながら、私が出掛ける時などは同行してくれたりします。
立場としては今川家の家臣ですが義元公の希望で、私が出かける時には同行して傍で学ばせて欲しい、と頼まれているので、どこかへ出かける時にはお誘いしている、という感じになって居ますね。
私の様な小娘に同行して何か学べるところが有ると良いのですが…。義元公の頼みでもありますし、本人も希望している様ですから何かあるのかもしれません。
さて、藤三郎殿が訪れた用向きは、私はてっきり来月、七月に予定されている義元公の尾張来訪の話かと思ったのですが、ちょっとその来訪が早まる様です。
なんでも駿河より急ぎの船便で知らせが届いたのですが、それによると重要な用件が出来た為、至急武衛様と父との会見の場を作って欲しいとの事。
これだけ急な話というのはこれまで無かった事で、余程の事があったのでしょう。
重要な用件の内容については知らせには何も書かれておらず、これは会見の場で義元公が直接話すという事なのでしょう。これ迄は駿河から要人が来る場合、事前にある程度用件の内容が知らされていて、藤三郎殿が必要な資料を集めたり、事前の情報収集を行ったり、場を整えたりといった事を行ってきましたので、今回は異例という事です。
藤三郎殿は私にその事を伝えると慌ただしく清洲へと向かいました。
〝重要な用件〟とは一体何でしょうか。
もしかして、北条家に何か大きな動きが…と考えましたが、史実通りならば、確かこの時期は天文十年より永らく続いた関東での戦乱が、北条方の勝利に終わった河越夜戦で一先ず終止符が打たれ、しかしながら永かった戦の影響や、天文の飢饉やこの時期に度重なったと言われる地震など天災の傷も未だ癒えておらず、疲弊しきった領内を立て直す為、内政に専念していた時期の筈です。
有名な公事赦免令を発令したのもこの時期だった筈。
そう考えると、今川家の緊急を要する重要な用件というのは〝北条家の西進〟というのは考えにくいです。そもそも、もし北条家の侵攻があるなら、義元公が駿河を空けて自ら尾張に足を運ぶわけがありませんからね。
恐らく、重要な話であれば後から父上が話してくれると思いますが、一体どんな話なのでしょうね。
ネットも電話も無いこの時代ですから、重要な話をするには実際に会わなければなりません。
果たして義元公が話す内容とは何でしょうか。