第百九十三話 医学の進歩
人材が揃ってきた古渡のその後です。
天文十九年もすっかり風景は春めいて、新緑の季節になりました。
一月にやって来た新たな転生者であるなつさんが、古渡の城下街にある玄庵さんの所に移り住んで四ヶ月が経ちました。
環境が変わって体調を崩したりしないかと心配していましたが、特にそういう事もなく、新しい暮らしにも直ぐに慣れた様で安心しました。
なつさんが玄庵さんの診療所で薬剤師をやりながらまず手を付けたのは、尾張の薬事奉行である望月与右衛門殿の所で管理している薬と薬の材料である薬草などの薬種の分類分けでした。
というのもこの時代に使われている薬で、後の時代には薬効が薄いとか或いは効果が無いとか諸々の理由で使われなくなった薬がありますし、別の用途の方がより有効という事が分った薬などもある様で、前世の知識を活かして既に存在する薬の把握と並行して薬種の分類分けが行われたという訳です。
とはいえ、これ迄それらの薬種を管理し製薬に携わっていた与右衛門殿からすると、いきなり現れたまだ子供みたいな娘が好き勝手やるというのは、たとえ私の紹介状を持たせて頼んだとしても内心複雑な物があるでしょう。
そこで私は、尾張では守護、守護代の主治医であり、今や名医として名高い玄庵さんを通してお願いする事にしました。与右衛門殿の家である尾張望月党の人々も、玄庵さんには既に色々とお世話になっていますから影響力は絶大です。
特に、この時代は医師も薬を調剤して処方しますからね。
なつさんは元々そういう性格なのかも知れませんが、自分の居場所を見つけてからは水を得た魚のように精力的に仕事をしていて、その姿はとても子供には見えないのですよね。
私としてはこの分野が充実発展するのは喜ばしい事ではあるのですが、なつさんが年齢相応の暮らしを送らなくても良いのだろうか、という気もします。
殆どそれをして来なかった私がいう事では無いのかもしれませんが。
分類分けをしながらなつさんが今玄庵さんと取り組んでいるのは、抗生剤とサルファ剤の開発。
この時代に開発できるのかどうかは分かりませんが、なつさんの見立てでは、化学の専門家である梓さんが既に作り出した数々の化学物質や実験設備があれば、前世のテレビドラマで見た〝医師が江戸時代にタイムスリップして抗生剤を作り出す話〟よりは容易に作れるはずだ、との事。
もしこれら薬品の製造が実現すれば、この世界の歴史ではどうだったのかわかりませんが、私の前世の世界ではハンセン病で亡くなったとも言われている斎藤新九郎殿が、もしその病を得たとしても治すことが出来るかもしれません。
新九郎殿は父信秀もその能力を買っている逸材ですし、私の恩人でもありますから。
三十五歳で新九郎殿が亡くなってしまうという未来がこの世界でもあるのなら、何とか出来るものならばなんとかしたい、と私は思うのです。
ところで、以前から玄庵さんに要望されていた物の一つに注射器があるのですが、なつさんの登場により開発に拍車が掛かり、遂に佐吉さんから試作品が出来たとの知らせが届きました。
早速、佐吉さんの屋敷へと訪ねていきます。
佐吉さんの屋敷は古渡の城内にありますから、直ぐに訪ねていけるのが良いですね。
屋敷に入ると、同行してくれているお供の人達には母屋で待っていてもらい、早速いつもの離れに通してくれました。
普段は、先ず可愛い盛りの梓さんと佐吉さんの子供の顔を見るのですが、実験室である離れに用がある時はここに小さい子供を入れるのは危険なので、川田家から来ている乳母に預けています。子供は基本的には梓さんが母乳で育てているのですが、梓さんが忙しい事もあり、乳母が授乳している事が結構ある様で、その時は乳母の子供と一緒に面倒を見てもらっている様ですね。
この辺りは前世でも仕事人間だったらしい〝梓さんらしさ〟だと思います。
私が離れを訪ねると、既に離れには梓さんと佐吉さんが座って待ってくれてました。
「姫様、ご足労お掛けします」
私が入ると佐吉さんと梓さんが立ち上がって挨拶してくれます。
「お茶を入れますね」
梓さんがお茶を入れに席を外します。
この辺りはもうすっかり夫婦ですね。
「いえいえ。
注射器が出来た、との知らせを受けて飛んできました」
それを聞いて佐吉さんが笑います。
「ははは、そんなに急がなくとも逃げたりしませんよ。
では、早速見て頂きましょうか」
そういうと、筆箱の様な大きさの木箱を差し出してきます。
私は木箱を受け取ると、ちょっとドキドキしながら開けてみました。
見ると、やはりこういうのは壊れやすい代物なのか、シリンダー部分と注射針部分が分けてしっかりと箱に固定される様に収められて居ました。
先ずシリンダーはガラス製の筒で、大きさは前世でよく見た径が十五ミリ位の一般的なもので、落としても壊れないように金属製の覆いが付いています。そして表面には容量を示すメモリも付いていて、前世でよくみたプラスチック製の様にシンプルでは無いですが、レトロデザインというか古い映画で見た事のある昔の注射器のデザインになって居ました。
シリンダー内のピストンは金属製で、その先端部分には恐らくファクチスか何かだろうゴム状の物が付いていて、これが密閉を確かなものにするのでしょうね。
次に注射針ですが、こちらは子供の頃によく見た全金属製の注射針になっていて、高い精度で注射器に取り付けられるところが何とも素晴らしいです。
そして、これが注射針の肝心な部分なのですが、今の時点で既に針が結構細いですね。勿論、前世の病院で見た様な細さではないですが、それでも昔の映画や博物館で見た様な古い時代の注射器に比べれば、確実に細いと思います。
私はしげしげと、しっかりと穴が開いていて、しかもノズルの先端がかなり鋭利に仕上がっている注射針を眺めます。
これぞ〝匠の技〟というやつでしょうか。
実際に取り出して使ってみると、普通に注射器でした。まあ当然ですが…。
逆に言えば、既視感があるレベルの物をいきなり試作品として出してくるところが、なんとも佐吉さんらしいですね。
「よく、このレベルの物が出来ましたね…」
佐吉さんはそれを聞いて笑みを浮かべます。
「作り方を知って居ましたからね。
こういう物の製造装置も前世で手掛けた仕事にありましたから、再現してみました。
とはいえ、前世と違いモーターとかありませんからね。
何とか人力で作れるように色々と治具を作って作り上げる事が出来ました」
「モーターというか電気は今後の課題ですね。
それにしても試作品とは言え、この注射器は素晴らしい出来ですね。
これが有れば色々と出来る事が増えるでしょう。玄庵さんも喜ぶでしょうね」
「ええ、何とか期待にそえるものが出来て良かったです。
量産品を作るにはもう少し時間が必要ですが、診療所で使う分位は夏までには用意できるかと思います」
「流石仕事が早いですね。
玄庵さんには一度佐吉さんを訪ねる様に伝えておきます」
「はい」
「さて、お話も一段落したところでお茶にしましょうか」
そういうと、控えていた梓さんがお茶セットをテーブルに並べてくれました。
今日のお茶請けはドングリを使ったクッキーでした。
今回は佐吉さん夫婦の話となりました。