第百八十九話 姉と弟
勘十郎との対話です。
すっかり項垂れてしまった様子の勘十郎を見て、押さえつけていた津々木殿が手を離すと勘十郎の背後に控えます。
「哀れですね」
すっかりしょぼくれた様子の勘十郎を見て思わず言葉が出てしまいました。
私の言葉に勘十郎は顔を上げるとキッと睨みつけてきます。
「何故じゃ。
我は尾張守護代たる織田弾正忠家の嫡男ぞ。
何故我に誰も従わぬ。
何故誰も我を敬わぬ…。
皆、口を開けばその方の話ばかり。
その方は女であろう。
いずれ何処ぞへと輿入れし居なくなる身であろうに。
何故じゃ。
父上と共に住んでいる事を良いことに、父上の寵を独り占めにしておるからか」
勘十郎の口から吐いて出た恨み節。
どうせそんな事を考えているのだろうとは思っていましたが、実際に本人の口から聞けばもうため息しか出ません。
「そうですよ。
私は女です。いずれ輿入れして弾正忠家から出る身です。
そんな私に父上や色んな方々が言います。何故其方は男に産まれなかったのか、と。
また、私が男であれば父上の後継者として安心して後を任せられるのに、とも」
「我はその様な事、一度たりとも言われたことがない…」
「勘十郎、私がただ父上の寵愛を得ているだけで、〝男であったなら〟などと言われていると思ったなら、それは大きな勘違いも良いところです。
何故なら、私は父上にとっては只々不憫な娘でしかなかったからです。
だから、せめて人並みの幸せをこの娘に与えられたならそれで満足だ、と。
私は幼少の折は言葉が遅かったですからね。
勘十郎、あなたは〝不憫な子だ〟などと言われたことがありますか」
私の言葉が意外だったのか、驚きの表情を浮かべていた勘十郎は黙って首を横に振ります。
〝不憫な子〟というのは、つまり可哀想な子という意味ですからね…。
「だからこそ私は〝変わり者の姫〟と言われようと、せめて人の役に立てる人物になれるように人一倍勉学に励んできたのです。
その結果、この国で〝賢姫〟と囁かれるほどになったのです。
もっとも、私は自分が賢姫だと思うほど自惚れてはいませんけれど。
それに、そもそもあなたは勘違いしています。
確かに私は父と同じ屋敷に住んで居ましたよ。
しかし、産まれたときからあらゆるものを与えられていたあなたとは異なり、私には世話係の女中が一人付いていただけで傍に母は居らず、勿論母から姫らしい事を何も教えられることなく裳着の日を迎えました。
片や母と住み、母を独り占めにしているばかりか、那古野城を与えられ、傅役が四人も付いたあなたと私、果たしてどちらが恵まれているのです。
あなたは私が父上を独占していると言いましたが、これも思い違いも良いところ。
ところであなたは、私達に兄弟がどれだけ居るのか知っていますか?」
私の問にキョトンとした勘十郎が頭を巡らせた上でたどたどしく答えます。
「…七人程であろうか」
おそらく、それは勘十郎が知っている兄弟だけでしょう。
つまりは、信広、信時兄上、勘十郎、喜六、三十郎、市、そして私、の七人。しかし。
「違います。私が知っている範囲で二十二人。
私が知らない、もしかすると父すら知らない子も合わせれば何人居ることやら」
勘十郎は驚きで目を見開きます。
「母上が正室である事は知っておったが、父上には側室や妾がそれほどまでに居ったのか…」
「私は確かに父の屋敷で暮らしていましたが、父が屋敷に戻るのは月に幾度か。
それも、戻ったかと思えばすぐに出掛けることも多く、普段より月の半分も戻れば良い方で、戦で月を重ねる程居ないことが多ければ、会えるのは年に精々数度。
これでも私が父を独占していたと言えますか?」
私の話を聞き、勘十郎は力なく首を横に振ります。
「何故、誰もあなたを敬わないのか。
あなたはただ正室である母上の長男として産まれただけで、敬われる様な事をなにかしたのですか。
あなたがこれまで嫡男として皆が従っていたのは、父の後ろ盾があってこそ。
つまり、あなたに従っていたのではなく、あなたの後ろにいる父に従っていたのです。
現に、あなたのこの那古野城に出仕する者らはあなたの家臣ではなく、皆父上の命であなたに従っていた、父上の家臣なのです。
元服してまだ日の浅いあなたに自ら召し抱えた家臣が居ない事は致し方ありませんし、いずれ父上が隠居し父上の後を継げば父上の家臣団は皆あなたの家臣になっただろう事を考えれば、自ら召し抱えた家臣が一人も居なくとも困ることはなかったのかもしれません。
しかし、もしあなたが自ら召し抱えあなたに心服していた家臣が一人でも居たならば、例え命を失うことになったとしても、その者は父上ではなくあなたの命に従ったでしょうに」
弟は再び項垂れて悔しげに何かを呟きます。
そして、私を見ると問いかけます。
「ならば。
そういうその方は何をなしたというのだ」
「私が何を成してきたか。
むしろ何故それを知らないのですか。いや、知ろうとしなかったのですか?」
「我はその方を不肖の姉だと聞かされ育ったのだ。
不肖の姉が何をしようと我は関心など持たなかったのだ」
勘十郎の物言いに私は再びため息が出ます。
「私を知ろうとせず、私を知らない時点で、あなたは父の後継者に相応しくはないでしょう。
私は裳着を迎えてすぐに私の目や耳となる有能な家臣を召し抱えましたよ。
知るという事は万金の価値があるのです。
知らぬということは罪ですらあります。
まして、人の上に立つつもりの人物であれば」
「素っ破の類であれば我だって使って居った」
ならば何故その程度のことも知らないのでしょうね。
そう考えたところで、私は佐吉さんを殺されかけた事を思い出し頭に再び血が上りだしました。
「勘十郎、私が何も知らないなどと思わないことです」
そう言って冷めた目で睨みつけると勘十郎の目が泳ぎだします。
「では権六殿、私が何を成してきたのか、勘十郎に話して聞かせてあげてくれませんか」
権六殿は声をかけられると思っていなかったのか、驚いた表情を浮かべます。
「ええ、裳着の頃より暫く側仕えしてくれていたあなたなら私が何を成してきたのか、勘十郎に語って聞かせるのに適任でしょう」
権六殿は笑みを浮かべると頷きます。
「しからば、それがしから」
そう言うと、権六殿がとうとうと語りだしました。
権六殿が次々と語って聞かせる話に、勘十郎は目を丸くします。
そして、権六殿ばかりか私とこれまで直接つながりがなかった津々木殿までが、私が成したことというのを一緒に語り出しました。その話には私が知らない話が幾つもあり、つまりは津々木殿の話は、私が知らぬところで父の差配で私の成果物を広め活用し国を豊かにしていった、父信秀の足跡の話でもありました。
国力を数倍にしたとも言われる尾張の急成長。確かに私はそれに必要な諸々を提供しましたが、尾張全土でそれを成し遂げるほどの能力は、私にはありません。
私一人の力であれば、精々私の箱庭とも言うべき私の領地でのみの成果で終わった事でしょう。
全ては〝器用の仁〟たる父上の理解と尽力があってこそだと、津々木殿の話を聞いて改めてそう思いました。
二人の語って聞かせる話に、弟は放心状態になりました。
そして、ややして目の焦点が合うとポツリと一言。
「我と姉上では比較にもならぬということか…。
これでは、皆が口々に姉上の話をするのも頷けるというもの。
我は母上の寵愛を独り占めにして幼子のように甘えたまま育ち駄々を捏ねていた、と言う事か。
これでは帰蝶に見捨てられるのも致し方なかろう…」
権六殿が何か話そうとしたのを私が制して、代わりに私が答えます。
「それが解っただけでも成長したと言うことでしょう。
もはや遅すぎますが」
勘十郎は力なく頷いた。
「であるな。
事ここに至って気がついたところで、もはや全ては過ぎたこと。
姉上とこうやって話をするのが遅すぎた」
そうですね。
もう少し早く話せていたなら、ここ迄にはならなかったのかもしれません。
しかし、勘十郎は一度全てを失わないと気がつけなかったかもしれません。
「それで、あなたはどうするつもりなのです」
「我は廃嫡された身で在りながら、姉上を斬ろうとしたのだ。
ここにおる皆がそれを見ておる。
この上は、腹を召して父上に詫びねばならぬ。
それが、せめてもの弾正忠家嫡男としての意地だ」
私は思いつめた表情でそう語る勘十郎を見て、また重い溜息が出ました。
「あなたは、これまで殆ど関わりが無くとも血を分けた弟の死に目を私に見せるつもりなのですか。
それに父上に我が子の死を味わわせるつもりなのですか。
病や戦で死んだのであればまだ気持ちの整理が付きます。
ですが、姉を斬ろうとして失敗してその責任をとって腹を召すなどと。
それは父上を悲しませるばかりか、父上の顔に泥を塗るような事をしようとしているのですよ」
勘十郎はそこまで考えてなかったのか驚いた表情を浮かべ、そして狼狽しました。
「な、ならばどうすれば良いのだ。
我が姉上を我の不明から斬ろうとした事はもはや消せぬ」
もうね、私には溜息しか出ません。
「勘十郎、あなたは父上に命じられたとおり、寺に入りなさい。
そしてこれまでの事を振り返って反省なさいな。
それに、あなたには供養しなければならない人も居るのでしょう」
「美作…」
「良いですか。
ここでは何も起きなかった。
あなた方は何も見なかった。
ただ、私が病の床にある弟を見舞った。
それだけです」
権六殿や津々木殿、それに小次郎殿も少し考えた後、それぞれが頷き返事しました。
「姫様がそう仰るならば」
「承知致した」
「承った」
「千代女さんもいいですね?」
障子の向こうに隠れていた千代女さんがすすっと顔を出すと頷きました。
「わかりました」
「では、私はこれで帰ります」
勘十郎は平伏して涙ながらに返事しました。
「あ、姉上…。
忝なく…、誠に忝なく…。
姉上の恩情を胸に我は寺へ行きまする…」
平伏し咽び泣く勘十郎を背に、私達は屋敷を後にしました。
城の門へと向かう道中で、私達が帰るのを伝え聞いたのか林殿が見送りに来ました。
「姫様、よくぞご無事で…。
勘十郎様はなにか申されましたか」
「勘十郎は寺へ行くそうです」
「そうでしたか…。
これでやっと拙者も肩の荷を降ろせまする…。
殿の期待には応えられませなんだが…」
「林殿は父上のもとで、再びその辣腕を揮ってください。
何しろ父上の腹心なのですから」
私の言葉に、林殿の表情が漸く緩みます。
「これからも殿の下で益々励みまする」
「はい。それでは私はこれで帰ります」
「はっ、お気をつけて」
林殿と別れると古渡から来た者らとも合流し、再び馬車へと乗り込みました。
そして、今度は清洲へと向かいます。
一度母もいる屋敷へと戻らないと。
これで、勘十郎の一件は片付いたかしら…。
吉姫は父信秀の事も考え、勘十郎を許すことにしました。