第百八十八話 那古野城
那古野城へと到着し勘十郎の下へと向かいます。
『那古野城』
「願い通り来てあげましたよ」
勘十郎は、この私の言葉が勘に触ったのかはわかりませんが、ギロリとひと睨みします。
そして、忌々し気に言葉を返します。
「その方のせいで、我はもう終わりよ」
勘十郎が歪んだのは、恐らく勢力拡大の為とはいえ幾つもの婚姻を重ねて方々に側室や妾を作ってそれにかまけてしまい、勘十郎と親子らしい事を殆どやってこなかった父と、一人目の子に嫡子を産めずしかも物言わぬ娘を産んでしまった為、次に生まれた嫡子勘十郎に誤った愛情を注いでしまった継室である母による、一言で言ってしまえば大人の事情のせいでしょう。
何しろ弾正忠家、そして実家の土田一族の期待を一身に背負い嫡子を求められた母に対するプレッシャーが相当な物だったのは、想像に難くありません。
それも有り、待望の嫡子勘十郎が産まれ、自ら授乳するほど溺愛して自ら子育てする事を望んでいた母。しかしその母から勘十郎を僅か三歳で取り上げ、早々に那古野城を勘十郎に与えた父は、腹心たる有力家臣を四人も傅役に充てるという、武家の父親としては考えうる最良の布陣で嫡子養育に臨みましたが、勘十郎自身には殆ど家に居ない父に対しての言い様の無い寂しさがあったのかもしれませんが。
そして母は、すでに放置気味であった私を置き去りにして勘十郎と共に那古野城に入るという、まあ普通の武家の妻では考えられない様な選択をした、と云う訳です…。
しかしそうなればなったで、ただでさえ忙しく不在気味の父のこと、母の許へ渡ることは極端に減るでしょうし、一方でまだ若い母の事、更に寂しさは募り、結果として父と同居し父と会う機会が多そうに見える私に対する悪感情を勘十郎に吹き込みながら更に溺愛するという悪循環に陥ったことは、前世での人生経験もある私には容易に想像できます。
ですが今の勘十郎は、元服を果たして既に母の許を離れ、結婚もして子供も出来て自分の家族が居るのです。
なぜいつまでも信濃攻めの時の失態を引き摺るのでしょう。幼少期よりの腹心だったのかもしれませんが、なぜ美作殿の死を糧としてそれを乗り越えようとしないのでしょうか。
考えている中に段々腹が立ってきました。大体、初陣の失敗を私のせいにしていますが、私は全知全能ではないのです。
そもそも村上攻めの作戦を考えたのは父であり、ここを勘十郎の初陣の場としたのも父なのです。私は武田攻めに勘十郎が参加するなんて、想定すらしてませんでしたよ。
にも関わらず、この期に及んでまだ私のせいにする勘十郎に、さすがの私も頭に血が上るのを感じます。
「私のせいだと?
私が一体何をしたというのですか。
人のせいにばかりして。
守護代でもある父の言葉に耳を貸すこともなく、拗ねて殻に籠もっていたから父に愛想尽かしをされたのでしょう。
自業自得というものです」
以前佐吉さんを殺されかけた件があり、またこれまでの様々な出来事もあり、私は自分でも気づかないほど勘十郎に対して大きく溜め込んでいたのでしょう。
普段なら考えられないような強い口調で次々と攻撃的な言葉が口をついて出てしまいました。
勘十郎に一通り言葉を投げつけて頭がやや冷えてくると、思わず『しまった』と自分の軽はずみな発言を後悔しますが、既に後の祭り。
只でさえ不機嫌そうだった勘十郎の土気色の顔がみるみる赤く染まり、憤怒の顔へと変わり憎々しげに呟きます。
「よくもぬけぬけと…」
そして、気怠げだった様子が嘘であったように、カッと目を見開くと大きな声で控えの間に呼び掛けます。
「蔵人!」
「只今っ」
スッと控えの間のふすまが開くと、先日古渡に来た津々木殿が入ってきました。
勘十郎が私を見据えて指さして、津々木殿に命じました。
「この女を斬れ!」
中のただならぬ様子に、私の背後の障子の向こうが慌ただしくなります。
しかし、命じられた津々木殿は澄ました様子で返事します。
「其の儀は御容赦頂きたく」
それを聞き、勘十郎の顔色が更に変わります。
「なっ。
もう良いわ、どうせ我には先はない。
ならばこの手で」
勘十郎は素早く枕元近くの床の間に掛けてあった、刀に手を伸ばそうとします。
しかし、何時の間にか控えの間から音もなく入っていた小姓が、勘十郎が刀を取る前に素早く大小を抱えると、控えの間から出て行ってしまいました。
「し、新介、何をするっ!」
慌てて小姓を追おうと立ち上がろうとしますが、津々木殿が勘十郎の肩を押さえつけ、立てないようにしました。
「蔵人、気でも触れたか!」
「気が触れたのは勘十郎様の方でしょう。
それに備後守様の命により、勘十郎様をお止め致すのが某の役目にござれば」
一連の騒ぎと同時に障子が開き、廊下で控えていた小次郎殿や権六殿が飛び込んできました。
「姫様、大丈夫にござりますか!」
「はい。大丈夫です」
私は恐らくこうなるだろうと思っていましたから、勘十郎の様子にひやりとはしましたが驚きはしませんでした。
ですが、それは加藤殿の働きで事前に事情がわかっていたからこそで、それがなければ肝を冷やしたことは間違いないでしょうね。
流石に目の前で荒事を見るなど、ほとんど経験が無いですから…。
勘十郎は津々木殿に押さえつけられて身動きが取れず、また恐らく絶対の信頼を寄せていた小姓にまで裏切られた事に、すっかり意気消沈して観念してしまいました。
自ら招いた事とはいえ、ここまで人望がないと可哀想になってきますね…。
勘十郎の人望の無さが露呈しました。