第百八十七話 那古野城へ
那古野城の勘十郎の下へと向かいます。
「弟は、私と最期に会いたいので那古野まで来て欲しい様ですね」
私の言葉に権六殿と津々木殿、共に驚きの表情を浮かべます。
どうやら二人は、手紙の中身を知らなかったようです。
権六殿が動揺を抑える為か一度言葉を飲み込んだ後、声を押し殺して口を開きます。
「…姫様、勘十郎様に会われるのは危険では御座りませぬか」
津々木殿も頷きます。
「勘十郎様はここ暫くは自暴自棄の気色が強く見受けられますれば…。
ただお会いになられて話すだけで済むかどうか、わかりませぬ」
「ですが、この機会を逃せばもう会う事は二度と無いかもしれません。
弟からは一方的に嫌われて来ましたが、実の所まともに話をした事がありません。
今更関係を改善しても最早仕方のない事かもしれませんが、このまま会わないままにしてしまえば、私の心の中に後悔が残りそうで…」
私についての事情をある程度知っている権六殿はうーんと考え込んでしまいます。
津々木殿も何か言おうとしましたが飲み込んでしまいました。
「それに何かあったとしても、護って下さるのでしょう?」
そういうと、小次郎殿、そして権六殿、最後に津々木殿を見回します。
間髪入れずに小次郎殿が張りのある声で請け合います。
「勿論にござる」
それを見て元は私の警護役の一人だった権六殿も、身を乗り出すように胸に手をやり答えます。
「それがし、姫様には恩義ある身。
身を挺してでもお護り致す所存」
二人の決意を聞いて津々木殿も頷きます。
「それがしは勘十郎様の近習なれど、備後守様より何かあれば勘十郎様をお止めする様命じられておりますれば」
前世ではどうだったかわかりませんが、どうやらこの世界での津々木殿は、勘十郎の監視役も兼ねていた様ですね。
「では、よろしくお願いします」
早速私は林殿に一筆認めると、千代女さんを呼んで那古野城の林殿に届ける様に頼みます。
そして、明日那古野城へ出掛ける旨を話して、その準備を頼みました。
翌日、準備を済ませていた馬車で那古野城へと出発します。
林殿からは昨日のうちに『来訪の件、承った』との返事が届いており、また勘十郎にも、那古野に戻る津々木殿に『会いに行く』旨書いた手紙を託してあります。
そんな私の警護には小次郎殿の他、古渡に詰めている常備軍の兵士が五十名ほど、それに千代女さんと弥之助が加わり、他には荷物持ちの小者など、総勢で七十名程が馬や馬車に分乗して那古野に向かいます。
現在の尾張の街道は、駅詰めの兵士らが定期的に巡回していて治安が維持されているので、馬車の旅は随分安全だと思うのですが、私が出掛ける場合、周囲は父に命じられているのか、私の意思に関わらずそれなりの人数がお供に付いてくるのです。
仰々しいのは嫌なのですが、致し方ないですね。
整備された街道をバネ付きの馬車が軽快に北へと進み、四半刻掛からず那古野の城下へと到着しました。
那古野の城下街は、古渡から北の那古野に続く街道沿いに存在し、古渡から那古野へ歩いても半刻掛からない位で到着する程近く、古渡の城下街の北の外れから那古野の城下街の南の外れまでは目と鼻の先程度の距離しか離れて居らず、隣り町の様なものです。
那古野の城下街は、那古野の元々の主である尾張今川家が熱田の北にあった街道沿いの寒村に、京から駿河迄続く街道の中継点として那古野城を築城したのが起こりで、その後城下街として発達したこの街は、今では尾張でも有数の大きな街でしょうね。
しかし私は、実はこの那古野にはあまり来た事がありません。
と言うのも、古渡からはすぐ南に熱田の門前町がありますし、大きな買い物をする時は船で津島まで行きますから、那古野には殆ど用が無いという事も有るのですが、弟がいる城下街、という事も多少なりとも影響しているかもしれません。
勿論、用事で街道沿いに北の方に行くこともありますから、傍を通った事は何度も有るので、知らない街という訳では無いのですけれど。
そんな那古野の街を馬車は通り抜け、武家屋敷が並ぶ区画も通り抜けて、城に向かいます。
やがて城に到着すると、先着していた弥之助の手を借りて馬車を下車して城の前に降り立ちました。
城の前では林殿と権六殿が出迎えてくれました。
「林殿、出迎え有難うございます。
弟がご苦労をおかけしています」
私が林殿にねぎらいの声を掛けると、笑顔を浮かべますが疲労が深そうですね…。
「よくおいでくださいました。
お気遣い忝く、これがそれがしの務めなれば…。
姫様、勘十郎様がお待ちになられておられます」
「わかりました。
弟の具合はどんな感じですか」
「今日は多少具合が良い様ですが、相変わらず食事はとられませなんだ」
「そうですか…。
兎も角、弟と会いましょうか」
権六殿にも会釈すると笑顔で返してくれますが、緊張しているのが目に見えてわかりますね。
古渡から護衛して来た兵士達とはここで一先ず別れ、彼らは帰り迄待機していることになります。
また、勘十郎が居る奥の部屋へは小者の弥之助は入る事は出来ませんから、ここからはエスコートしてくれる林殿と権六殿、それに小次郎殿と千代女さんで向かうことになります。
部屋へ向かう途中、素襖姿の武士がさりげない風に合流してきました。
その武士とは、昨日から那古野城に入って貰っていた加藤殿です。
小次郎殿が、何時の間にか見知らぬ武士が傍に居たので一瞬警戒しましたが、直ぐに加藤殿だと気づき警戒を解きます。
あまりにさり気無く合流してきたので、先導する林殿、権六殿ばかりか那古野城の者は全員まるで気づいてないようで、相変わらず見事な物ですね。
加藤殿が例の響かない声で私に耳打ちしてきます。
「姫様、勘十郎様は奥の部屋で臥せっておられる様子で、食事はとられておりません」
「どの程度衰弱していますか」
「身体を起こされるのも辛そうな様子にござるが、眼光は未だ生気を失っておらず、さながら幽鬼の様でござれば、十二分に気を付けられた方がよろしいかと」
やはりただ会いたいだけで呼んだのではないのかもしれません。
「そうですか…。
弟の為に動く者は居そうですか?」
「それがしが見た所では、那古野城は林殿が掌握している由。
近習の都筑殿と小姓が数名側仕えをしておりまするが、いずれも備後守様が勘十郎様の下へ付けた者らにて…」
津々木殿も、父が付けた近習なのだと自分で言っていましたし…。
弟が少し可哀想になってきますね。
那古野城の屋敷の奥の、勘十郎の部屋に到着すると林殿が立ち止まります。
「こちらに勘十郎様が居られます」
「わかりました」
「勘十郎様、吉姫様が参られました」
林殿が中へ声を掛けると、中から勘十郎の声が聞こえてきます。
「入って貰ってくれ」
「はっ。
では、姫様」
林殿が障子を開けてくれると、部屋には布団に臥せっている勘十郎が居ました。
食べていないせいか顔色はあまり良くなく、頬がこけて見るからに衰弱している様子が見えます。
しかし、私を見るその目は眼光鋭く、確かに幽鬼の様です。
林殿が先に入ろうとすると勘十郎が止めます。
「佐渡守、ご苦労だった。下がってくれ」
林殿が心配して私の方を見ます。
私としては林殿も居てくれた方が心強いのですが、林殿にこれ以上負担を掛けるのは気の毒なので頷いて外してもらいました。
「では、拙者はこれにて」
「はい」
林殿が戻っていきます。
それを見た勘十郎が声をかけてきます。
「姉上と二人にしてくれぬか」
権六殿が声を上げようとしたところで更に言葉を重ねてきます。
「家族で話をするのだ。
気を利かせよ」
「それでは障子の向こうに控えておりまする故」
勘十郎はそれを聞いて不機嫌そうな表情を浮かべますが、私が入ろうとしないのを見て受け入れます。
「わかった。
ではそのようにせよ」
「はっ」
柴田殿と、小次郎殿、それに千代女さんが障子の側に控えます。
流石に完全にさしで話をするのは勘弁してほしいのです。
加藤殿はいつの間にか居なくなっていました。
私は勘十郎の居る部屋に入ると、後ろで障子が閉められます。
この時代の武家屋敷は大体似たような作りになっていて、勘十郎の寝所の襖の奥に小姓や近習が控える部屋があります。
恐らく、津々木殿はそこに控えているのでしょう。
勘十郎が奥に声を掛けると小姓が出て来て私に座布団を用意してくれ、また奥へと戻っていきました。
私は用意してくれた座布団に座ります。
弟も私が座ったのを見て、布団の上に座ります。
確かに衰弱している様子で、座るだけでも力が入らないのか辛そうに見えます。
私は勘十郎をジッと見つめると口を開きました。
「願い通り来てあげましたよ」
いよいよ対面シーンまで来ました。