閑話九十二 なつの顛末
なつ視点の顛末です。
天文十九年一月 なつ
私は前世では、愛知県北部の街で三代続く薬局の一人娘として生を受けた。
物心ついた頃から親や祖父の背中を見て育った私は、いずれ私も家業の薬局を継ぐのだ、とそういう意識が子供の頃からあった。
努力の甲斐あって関西にある難関国立大学薬学部への進学を果たしたが、私が関西で大学生活を送っている間に、祖父が亡くなった。
家業の薬局は祖父亡き後も父がしっかりと受け継ぎ、私は六年の間薬学を修めた結果、目標の薬剤師の資格を取得することができた。
しかし、すぐには家業を手伝う道には進まなかった。
薬学部で創薬の仕事に興味を持ったことと指導教授の勧めもあり、製薬メーカーで創薬の仕事に携わりたいと考えたからだ。
この進路について父に相談したところ、父も歳を取ったとはいえまだまだ現役でやれるし、またかつては自分も製薬メーカーで仕事をしてみたいと一度は考えたことがあった、と打ち明けてくれた。そして製薬メーカーで創薬の仕事、つまり研究職に就く機会は今しかないので、私の希望する進路に進むことを応援してくれたのだ。
そして教授の推薦もあって関西にある製薬メーカーの研究室に就職が決まり、念願の創薬の仕事に携わることになったのだった。
研究の仕事は忙しかったがやりがいもあり、打ち込んでいたらあっという間に二十代を駆け抜けてしまった。
三十路が近づくと母親から、結婚する相手は居ないのか、などと心配して連絡してくることが増え、また帰省するたびにそんな話を聞かされる事に辟易としていた私は、仕事が多忙だったこともあるが実家への足が自然と遠のいて行ったのだ。
この事は、後に大きな後悔として残ることになった。
私が三十を過ぎたころ、私の実家の地方にも大きなショッピングモールが出来た事もあって、実家の薬局があった商店街への客足が減り、シャッターが目立つようになっていた。
当然ながら、長らく地元民が掛かり付けの薬局として来てくれていた私の実家の薬局も、世代交代が進むにつれて客が減っていき、それでも困る人がいるからと店を続けていたが、父が体を悪くしていた事もあり、私が三十二の時に店を廃業することになった。
つまり、私が継ぐべき薬局が無くなってしまったのだ。
父はその後快癒することはなく廃業から二年後、帰らぬ人となった。
そして残された母は、関西の私の家に同居する話も断って実家に住み続けていたが、私が三十五歳の年に父の後を追う様にこの世を去ってしまった。
悪い事は続くというか、私が手掛けていた伝染病の治療薬の開発は、全く新しい方法で開発された特効薬の登場で過去の物となってしまい、研究室自体が閉鎖。
私もそのまま契約終了となった。
私が在籍していた製薬メーカーの研究職は、ある時期から年契約となっていたので契約終了は致し方ないのだが、折からの会社全体の合理化で人減らしが進んでおり、一般社員として別の部署に残る道も残されていなかった。
それに、ヘッドハントされたとかでなければ、他社で再び研究職の仕事に就くということも難しい。
勿論、薬剤師の資格があるから私は調剤薬局なり就職先に困るということは無い筈なのだけど、ずっと勉学に励み研究室で仕事をしてきた私はあまり人付き合いが得意といえず、対面の仕事ができるかどうか正直不安だった。
実家を継いだ場合は父も居るし、お客も地元の子供のころからの顔見知りが多いので、人付き合いのその辺りはいずれ…と考えていたのだ。
研究室という居場所を失い、これまで築いて来た物全てを失った私は、当てもなく街をさ迷い歩きながらこれまでの人生を回顧していた。
もしあの時、母に勧められた見合いを受けて結婚して地元に戻っていたなら、違った人生があったのではないだろうか。
父は死なず、母も元気で家族で薬局を続けている。そんな人生があったのではないだろうかと。今更のように後悔の念が溢れてくる。
抜け殻の様になって歩いていたのが悪かったのだろう、私は無意識に車道を横切ろうとして走って来たトラックに衝突され、全身に強い衝撃を受けると同時に意識を失ったのだった。
次に目を覚ました時、目に入った天井は病院の白い天井ではなく、古風な板葺きの天井だった。辺りを見回すと、そこは襖と障子で仕切られた純和風の部屋で、今時珍しいこんな古風の家に何故私は寝ているのだろうか、と混乱した。
目覚めた時、長い夢から目を覚ました様な気分だったけれど、まだ夢の中を見ている様なそんなぼおっとした気分だった。
しかし、程なく何故自分がここで寝ているのかを思い出した。
それと同時にパズルのピースが綺麗にハマる様に記憶が統合された。
どうやら、私は生まれ変わったらしい。
それも、未来ではなく遠い昔の時代に。
三十半ばまで人生を生きた大人が、遠い昔の四歳の子供に記憶を持ったまま生まれ変わったのだった。
私は教科書で習う程度の歴史知識しか無かったが、真面目に勉強していたのが幸いしたのか、周りの大人たちの会話などから、今は恐らく室町時代末期、そして多分ここは愛知県北部の一宮市の辺りだと思われる事がわかった。
というのも、今居るこの葉栗郡の河田村は木曽川に面していて、私の実家の本家があったのがかつて葉栗郡川田村と呼ばれていた土地で、その元々の名前が河田村だった。
葉栗郡は安土桃山時代の終わり頃に木曾川の大洪水に見舞われ、川の流れが大きく変わる程の被害を受けたそうで、その結果川向うになった土地を河田、川のこちら側に残った部分を川田と夫々呼び名を変えたと聞いた。
本家はその河田村を領する豪族、つまりは地侍の家系だったと聞いたことがあったのだ。
私は河田村の乙名を務める家の娘として育てられ、前世よりは遥かに生活水準は落ちるが、其れでもこの時代の普通の農家よりはずっといい生活を送る事が出来たのは幸運だったのだろう。
外で見る普通の農家の暮らしぶりはとても良い様には見えなかった。
この時代、前世の常識はまるで通用せず、しかも万事が不衛生でまともな医療も無い。栄養状態は総じて良くなく、病気にでも罹れば高い確率で命を落とす事になる。
そして住宅事情も良くない。冬になれば隙間風だらけで絨毯どころか畳も無い一般的な民家では、厚手の着物を掛布団に寒さに震えながら寝ることになる。
すると高齢者や子供など体力が無い者、或いは体調を崩したものが夜のうちに凍えて冷たくなってしまい、朝を迎えられない事など日常的にある。
そんな有様では生命力が強いとはいえない子供は十歳を迎えるまでに死ぬ事が多く、私は幸いにして一般的な農家よりは恵まれた環境で暮らせたお陰で生き延びることが出来たが、同世代の幼馴染で見掛けなくなった子が出るたびに、七五三の本来の意味を思い知ることになったのだ。
今生で乙名として村の為に働く親の背中を見て育った私は、私も村の為に何かできれば、と考えるようになった。
私が前世で知り得た知見が何かの役に立つのではないかと、そう思ったのだ。
とはいえ、幼少の子供の言葉にまともに耳を貸す者が居ないのは前世であっても同じ事、私は一先ず与えられた環境でこの時代を学ぶことにした。
この時代、誰もが等しく学問を学べるという訳では無く、学校も無い。何しろ子供も立派な労働力、物心がついた頃から家でなにがしかの役目を与えられるのが普通だ。
勿論、大人の様にフルタイムで働かされる訳では無いが、農繁期ともなると遊んでいる暇などない程忙しくなる。
そういう状況でも、例えば豪族や乙名を務める様な地侍や富農、商家など家に余裕があって、しかも家業の上でも勉強をする必要性がある場合、親は寺などで開かれている寺小屋的な物に、読み書きと簡単な算術を学ぶ為に手習いとして子供を通わせるのだ。
乙名の娘である私も例にもれず、六歳になると近くの寺へ手習いに通うことになったのだけれど、この時代の文書は基本的に崩し文字で書かれていて、かろうじてひら仮名は読めたが、それでも多分こうじゃないかと推測するレベル。漢字に至っては、形からこの漢字では無いかと当たりを付けるしかないのだが、その漢字が音は同じでも異なる漢字で書かれている事が当たり前にあるのだ。
そして、勉強の仕方その物が根本的に異なる。
前世での知識があるから、前世の復習をやるような物だろうと思っていた私の読みは大きく外れた。前世での知識などまるで役に立たなかったのだ。
結局は、他の子供達と机を並べて同じことを学ぶことになった。
結果としては、そのお陰でこの時代でも読み書きが何とか出来るようになり、この時代の書物を読むことが出来るようになった。
一方算術などは、幸い前世での経験が役に立ったが、それでも前世とはやり方がまるで異なっており、結局はこの時代のやり方もマスターする必要があり、一から学ばなければいけない事には変わりは無かった。
この時代はまだ印刷技術が無いのか、私が見た限り全ての本は手書きで書かれていて、本は非常に貴重な物だった。
乙名の家である私の家にも、父の秘蔵の本が大事にしまわれている、という事を聞いたことがある程度で、見かけた事すら無い。
生まれ変わって初めて手に取った書物は、手習い先の寺で手渡された教科書だった。
その後一通りの手習いを終えた後、寺で希望すれば蔵書を読ませてもらう事が出来たけれど、残念ながら私が読みたいと思っていた実用書的な物は無く、殆どが手習いで素読した論語の様な書物ばかりだった。
しかし寺への行き帰りに、私はこの土地に自生する草花などを見て、どの季節にどんな草花が生えるのかを覚えることが出来た。
偶々夏のある日、寺からの帰り道に道端に綺麗に紅葉した草が目についた事がきっかけだった。その草は、前世の知識で日本でも古くから利用されて来たアカザだと気が付いたのだ。
その時、そうかこの分野なら前世の知見を活かす事が出来ると、私は役に立てることがあるかもしれないと内心喜び、その日から一年を通してマメに道端や山野に生える草花を見るようになったのだった。
後から思えばこれが良くなかったのかもしれない。
前世での常識を引き摺る私は、この時代の普通という物を理解していなかった。いや、甘く見ていたのかもしれない。
私は乙名の家の子として家の蔵に自由に出入りできたから、そこに仕舞いこまれていた道具を少々拝借して、薬草を採取しては薬作りを始めたのだ。
勿論、前世の様な創薬するための環境などまるでなく、出来る事など限られているのだけれど、それでも古くから古典的な製法で作る薬ならば作ることが出来たのだ。
前世に比べるとこの時代は気温が低く、濃尾平野でも冬は当たり前に積雪したりするものの、其れでも温暖であり、肥沃な濃尾平野の殆どが未開発のこの時代にあっては豊かな緑に覆われていた事もあり、アケビの他、オオバコやカワミドリなど、多くの薬効作用のある草花を見つけることが出来た。
そして、私は幸いなことに特に大きな怪我や病気をする事も無く十歳の歳を迎えた。
十歳ともなればまだ子供の範疇ではあるけれど、あからさまに子供扱いされる事も減ってくる。農家であれば農繁期には当たり前に大人に交じって家業を手伝うし、農閑期の内職の手伝いなども任される。
同世代の幼馴染たちがそうやって社会で役割を得ていく中、私には将来に向けての色々な準備があった。
学校で歴史を習った時に少し触った程度だったが、豊臣秀吉の刀狩り以前は農民と武士の境目は曖昧で、勿論大名と呼ばれるような国人領主ともなれば別だが、地方の豪族、つまりは地侍は武士として自らの土地を守り、いざ戦ともなれば領民を集めて兵を出したりしていたらしい。
つまり、この時代は農民であっても戦で戦う可能性があるのだ。
私の家は乙名の家でこの土地を領する豪族である川田氏の一族、つまり半農半士の地侍の家であるので、これ迄にも父が普段は見せない様な表情で刀を差し槍を片手に村の男達を引き連れて戦に行った事が幾度かあった。
その地侍の家の娘がいずれ嫁いでいく場合、相手が村の若い衆という事はあり得ず、相手は同じくらいの家格の家という事になる。場合によれば一度上の家格の家に猶子に入って、高位の武家に嫁ぐなどという事もあるそうだ。
そうでなくとも、侍女として大身の武家の家に働きに出る可能性もあるらしく、最低限どこに行っても恥をかかないだけの作法や教養などを学ぶ必要がある。
そういった大人になる為の準備をしながら、私は半ば趣味の様な物ではあるのだけど薬作りもやっていたのだ。
そんなある日、ここの所お腹の調子が悪く下痢気味でなかなか治らないと話している村人が居た。
原因はわからないが、症状を聞く限り感染症や食中毒の類では無さそうだけれど、下痢が続いているという事は免疫力が低下している可能性があり、もしも夏風邪などひけば命にかかわることもある。
この時代、医師に掛かれるのはそれなりの地位と資産のある家の人で、とても豊かとはいえない庶民では、それこそ民間療法に頼るか、或いは自らの治癒力を信じてじっと我慢して養生する位しか選択肢が無い。
そして薬の多くは、そのレシピは門外不出であり、とても貴重な物なので簡単に手に入る物では無い。勿論民間療法的に、この草を煎じて飲めば良い、みたいな知識を持つ古老が居る場合もあるが、後の時代の様に医学的に薬効が証明された物でも無ければ、分量や用法を間違えればたちまち毒に転じる様な物もあるし、気軽に試せるわけでもないようだ。
つまりは我慢して日常を暮らし、動けなくなれば養生して回復を待つしかない。
大抵の場合、我慢していれば直る事が多いが、寝込んでしまう迄行くとそのまま亡くなってしまうという事まで有りえる。
この時代の人は、不衛生であまり良い栄養状態では無いとはいえ、男であれ女であれ前世の現代人とは比較にならないくらい強靭でタフだ。しかし、一度体調を大きく崩してしまうとあっけなく死んでしまうという事が有りえるのがこの時代なのだ。
そういう事情もあり、寝込む迄は行っていなかったその人は私が関与しなくともいずれ体調を戻し快復した可能性が高く、今思えば結局私は、折角作った薬を使ってみたかったのかもしれない。
私の知見がこの時代の役に立つのかどうか、試したかったのだ。
私はその人に下痢止めと健胃整腸、そして強壮作用があり安全性も高いゲンノショウコを天日干しにして作った薬をあげた。
その人は私が乙名の娘である事は知って居たので、私ではなく乙名である父が自分を気遣ってくれたと思ったのか、薬を受け取ってくれた。
そして数日後、私が話した通りに服用したところ無事に快癒して下痢もおさまり、それどころかお腹の具合が前よりも良くなったと喜んでいた。
私の薬は、私の知見は役に立ったのだ。
その時は、ただ嬉しかった。生まれ変わったこの時代で、はじめて何かを成したと思ったから。
だけど、これがいけなかった。
無事快癒したその人に話を聞いた別の何かで困っている人々が、薬を貰えるよう口添え願えないか、と私の許を訪れるようになったのだ。
その時の私は迂闊にも調子に乗っていたのだと思う。
私は医師では無かったが、薬剤師の資格を取るために薬学部で学ぶ上で、ある程度の医学知識を学んではいた。だから、この時代の人達に比べれば遥かに医学知識がある事は間違いなかった。
本当の医師で無ければ治せないような大病でも無ければ、大抵は症状に合わせた対症療法で間に合ったから、医師まがいの事が出来てしまったのだ。
相談を受け、症状を聞いて、それに応じて薬を処方する。
多くは胃腸の不調や、きつい農作業の職業病とも言える腰痛などで、薬を飲んだことも無いこの時代の人達には私が処方した薬草から作った薬は良く効いた。
民間療法などではなく、後の時代に証明された薬効に基づき正しく製薬した薬を処方しているのだから当然と言えば当然なのだけど。
終わりは唐突に訪れた。
夏の間、戦に出て不在だった父が村の男達と共に戻って来た。
その父に、私の薬に助けられ喜んでいた村人達は感謝を伝えたのだ。
村人達は父が留守の間、父が蓄えていた薬を父が私に使い方を教えて村人達に処方してくれたと思っていたから、父が戻ってきたら謝意を伝えに訪れるのは自然の事だった。
父は私が薬に関する知識がある事など勿論知らない。
そして、我が家には薬に関する本など無いし、寺で手習いを教えている和尚には薬に関する知識が多少あったが、それを手習いに来ている様な子供たちに話したことも教えた事も無い。
つまり、本来私には薬に関する知識が、それも的確な知識がある筈も無かったのだ。
この時代、人は信心深く、そして迷信深い。知る筈もない事を知る人間は恐れられ、特にそれが子供の場合は〝狐憑き〟だと言われていた。
例えどれだけ人々に益をもたらしていようと、長ずれば狐の化け物となり災いをもたらす、と信じられていたのだ。
当然ながら、そんな子供は親が責任をもって対処した。つまり、良くて押し込み、或いは寺へ、或いは家から勿論村から追い出された。そして悪くすれば殺された。
狐憑きを出した家というのは、その素地があったのだと白い目で見られるようになるから、そのままにしておくという事はあり得なかった。
私の場合は、蔵を私が住めるように改装し、そこに押し込められた。
私は狐憑きなどではなく正気で正常だと父に訴えたが、父は悲しい目を私に向けるだけで決して蔵から出してもらえることは無かった。
私が作り置きしていた薬も全て焼き捨てられ、それからはこの狭い蔵で無為に外を眺めて過ごすのが私の日常となった。
父は、少なくともほとぼりが冷め私の事が話題に上らなくなるまでは、この蔵から出すわけにはいかない。そしていずれほとぼりが冷めた頃に、寺に行って貰うことになると。
苦しい表情を浮かべながらそう宣言した。
父の本心はわからないが、私をここに閉じ込めておくことで、もしかすると私を狐憑きだと恐怖の目で見た村人たちから守っているのかもしれなかった。
少なくとも、私はここに居る限り誰かに何かされる事は無いから。
私はこの境遇を受け入れた。
最初のうちは退屈で仕方なかったが、その内慣れた。
外を見れば日々の天候や季節の移り変わりが伝わってくるし、耳をすませば山野の野鳥の鳴き声や屋敷や村人たちの日々の暮らしの音が聞こえて来る。
そして、考える時間は幾らでもあったので、色々と考えた。
何故こんな事になったのだろう、何故私は前世の記憶を持ったままこんな時代に生まれ変わってしまったのだろうと。
また、狐憑きだとこの時代の人達に排除され蔵に押し込められた事で、これ迄は意識の外で感じる程度だった孤独、寂しさを感じるようになった。
結局、私にとっての本当の親は前世の親であり、この時代の両親は私に注いでくれた愛情に偽りは無いという事はわかっているけれど、どこか他所の家に居るという感覚が、何時もどこかにあったのだ。
私と同じ境遇の人は居るのだろうか、そういう人が居たとして、やはり同じように狐憑きだと排除されてしまったのか、或いは私が愚かだっただけで上手くこの時代に溶け込んで暮らしているのだろうか。
など、考え出せばキリが無かった。
しかし、寂しさ、心細さは消える事が無いけれど、前世では大人として成熟した思考も持っていた私は気持ちの整理も付き、その内にわが身の不幸を嘆くことも止めて、ただ静かに日々を送るようになった。
結局はネガティブなマインドばかりを膨らませたところで気が滅入るだけで、何も解決はしないという事は前世での経験でよくわかっていたから。
そうして、静かに日々を過ごしているうちにあっという間に年月が過ぎていた。
およそ二年程経ったある日、普段は蔵の中には入ってこない父が、蔵の中迄入って来た。
私はとうとう寺へ行く日が来たのかと思った。
人の噂も七十五日というが、もうあれから六百日以上経っているのだ。
日々を忙しく暮らす村人たちは、私の事なんて忘れてしまっただろう。
ところが、父の口から出た言葉は想像もしていない言葉だった。
曰く、この尾張の守護代である織田備後守様の大姫様の所に働きに行くことになった、と。
以前、いずれ何処かに侍女に行くことになる事もあるとは聞いていたけれど、まさか狐憑きで押し込められた身なのに、まだ侍女に行く話があるとは正直信じられなかった。
しかしその話は現実で、私は蔵から出る事は出来なかったが、日にちを置かずに私が姫様の下に上がる準備が急いで進められた。
何しろこの成長期に二年も蔵の中に居たのだ。
着物は勿論の事、持って居るべきものなどまるで揃ってなかったのだから。
そして、十日が過ぎた頃、私の迎えが来た。
てっきり歩いて行くと思っていたら、織田家の紋が描かれた馬車が迎えだった。
私が授業で習った歴史の知識にも、この時代を扱った時代劇にも、室町時代にこんな馬車があったなどという話は聞いたことも無かった。
しかし、真実は小説よりも奇なりとも言うし、もしかすると後の時代に伝わらなかっただけなのか、或いは私が物を知らな過ぎただけなのかも知れないので、目の前にある物を否定する気にはなれなかった。
馬車に乗り込むと、父と母だけが見送りに来た。
河田村では、私は人知れず居なくなるパターンなのかもしれない。
父母とは多く言葉を交わす事も無く、ただ、息災にそして達者で、と言葉を掛けられただけだったが、二人の目からは涙が流れていた。今の私にはそれで充分だった。
私の不注意から押し込みにはあったが、最後まで今生の親に愛されていた。それがわかっただけで充分だったのだ。
ただ、再び会う事があるのかどうかはわからない。
迎えに来たのは加藤殿という武士で、他にも加藤殿の部下らしい人たちが数人居た。
加藤殿は、緊張する私の気持ちを解そうと声を掛けてくれたりと、色々と気遣って貰ったけれど、時折眼光鋭く馬車の外に視線を飛ばしていて、何かに対して警戒しているのだろうか。
そんな印象を受けた。
馬車の旅はあっという間で、整備された街道を進むと程なく熱田神社の近くにある古渡という城へと到着した。
そこで初めて私は守護代家の姫様と対面することになったのだ。
通された部屋で平伏して待っていると、誰かが静々と入ってきて私に優し気な声を掛けてくれた。
「足労、大儀でした。
お顔を上げてください」
私はこんな身分の高い方にお会いするのは勿論生まれ変わってから初めての事なので、恐る恐る顔を上げるとそこに姫様が居られた。
初めてみた姫様は女の私から見ても美しい人で、思わず魅入ってしまいそうになる。そんな魅力に溢れた方だった。
しかし、人の顔を無遠慮に見入ってしまうのは勿論失礼になるとハッと気が付き、慌てて平伏した。
すると、重ねて言葉を掛けてくれた。
「ここは、少し寒いですね。
奥の部屋を暖めていますから、そちらの部屋に行きましょう」
緊張しすぎて気が付かなかったけれど、言われてみれば確かにこの部屋は寒々としていた。
姫様に連れられて部屋を移すと、そこで私は信じられない物を見ることになった。
入って直ぐにわかる程、その部屋は暖められていた。
その部屋は今生では初めて見た洋間で、そこには木で作られたテーブルがあって、椅子があって、まるで別の世界に来たのかと錯覚するほどの空間だった。
思わず驚いてしまったけれど、しかし前世で見た時代劇に出て来た商家にはこんな感じの洋間があった事を直ぐに思い出し、流石守護代様の家だとむしろ感心した。
姫様に椅子を勧められたので、久しぶりに椅子に座る。
そして、落ち着いたところで姫様が自ら名乗ってくれた。
「私はこの尾張の守護代を務める、織田備後守信秀の娘で吉と言います。
あなたのお名前は?」
姫様は優し気な話口調で、実際優しそうに見える。
しかし、直接その口から守護代様の娘だと名乗られると否が応でも緊張感が増してくる。
何とか勇気をだして自己紹介する。
「私は…。
私は、美濃との国境にある河田村に住む乙名の娘、なつと申します」
私の自己紹介に姫様は微笑む。
「なつさんと言うのですね、おなつさんと呼べばいいですか?」
おなつと呼ばれた事は無かったし、名前の前におを付けるのは違和感があるからなつと呼んでもらうように頼んだ。
「なつとお呼びください…」
姫様は頷くと、文箱を取り出し、そこから二つ折りの紙を取り出しました。
そして、それを私に渡してきます。
受け取りはしたものの、どういう意味で渡して来たのか理解できず、私は困惑してしまった。
「開いて御覧なさい」
意味が分からないまま、言われるがままに開いてみる。
すると、そこには今生では見る筈がないと思っていた文字列が書かれていた。
つまり。
英語で"ようこそ、歓迎します"と…。
私はどういう意図なのだろうと、当惑してしまった。
姫様は更に言葉を重ねる。
「何と書かれてありましたか?」
これは、答えるべきなのだろうか。それとも…。
そもそも何故国境の豪族の一族に過ぎない私が守護代様の姫様に呼ばれることになったのだろうか…。
これは、どう答えるのが正解なのか…。
しかし、開いて直ぐに私が浮かべた表情は恐らく何が書いてあるかさっぱりわからない物を初めて見た様な表情では無かった気がする。
私は思わずその意図をはかるかのように姫様の顔を見つめてしまっていた。
そんな私に答えを求めたのか頷いて見せた。
私は緊張のあまりどうにかなってしまいそうな気持ちを何とか宥めると、その問いの答えを絞り出した。
「ようこそ、歓迎します…」
この時代には、既に西洋からヨーロッパ人が入って来ていた事は、私も学校で習って知って居た。ひょっとして、この守護代様の姫様はもう外国語が使えるのだろうか…。
だとしたら、流石というべきか、それとも凄いというべきか。
私は恐る恐る姫様の反応を見ると、にっこりとほほ笑んだ。
「今日は色々と疲れたでしょう。
宿所に案内させますから、今日はもうお休みなさい。
また明日、ゆっくり話をしましょう」
「わ、わかりました…」
それから、姫様は一緒に来た侍女と共に部屋から出ていき、そのまま待っているとこの屋敷の人らしい女性が私を迎えに来てくれ、私が今日泊まる部屋へと案内してくれた。
部屋は既に寝る準備と、桶にお湯が張ってあり手ぬぐいが掛けられていた。
そして驚くべきか、寝具は今生では初めて見る掛布団のある布団だった。
流石、守護代様の家ともなると配慮が行き届いていると感心しながら、髪や身体を清めて布団へと入った。
久しぶりの布団は暖かく寝心地良く、よく眠れそうだったが、先ほどの姫様との対面を思い出すと緊張してなかなか寝付くことが出来なかったが、精神的に疲れていたのか気が付けば意識を手放していた。
実のところこの時点ではなつは英語がイレギュラーな存在かどうかわかってなかったのでした。
緊張しすぎて自分が答えれたこと自体がイレギュラーだという事にも気づいてません。