閑話九十 武田信繁 尾張での二度目の冬
尾張で二度目の冬を迎えた信繁の閑話です。
天文十八年十二月 武田信繁
尾張に移り住んで早二度目の冬を迎え、辺りはすっかり雪化粧だ。
とはいえ、甲斐に比べれば薄化粧と言っても良い程度で、日常生活にそれ程の影響はない。
こちらでの暮らしも落ち着いた故、甲斐から側室のさちと長男の三郎を呼び寄せた。
儂が尾張に来る時に身重だったので甲斐に残した正室のふみの事を案じておったが、今年の夏ごろ無事に嫡男を産み、今は母子ともに元気にしておると報せが有った。来年には二人も尾張へと呼び寄せねばな。
やはり、尾張は甲斐よりも子を育てるには環境が良い。
与えられた清洲の屋敷にて妻や子らと暮らしておると、ずっと以前より尾張で暮らしてる様な、そんな錯覚すら覚えるのだから不思議な物だ。
この一年、甲斐から移り住んだ者らの相談に乗ったり手伝いをする傍ら、可能な限り吉姫が出かける際にはお供をさせてもらってきたが、本当にあの姫には驚かされる事ばかりだ。
寺での講義を聞けば蒙が啓かれる思いであるし、古渡の工房に行けば、ここは本当に同じ日ノ本の国の工房なのかと疑念を抱く程に隔絶している。
例えば最近古渡の工房で作られ、使われ出したという轟音を立てながら自ら動く牽引車だ。
あのような絡繰り、この日ノ本の何処を探しても存在しないであろう。
聞けば、牛より遥かに力強く馬数頭分の力を発揮するという。
吉姫がそもそも驚きの存在であるのに、吉姫の周りには同じ様な存在が幾人も居る。その牽引車を拵えた川田殿が居り、守護様に絡繰屋と言う屋号を与えられるほどの技を持つ鍛冶も居る。
更には熱田で診療所をやっている玄庵殿、彼の御仁には我が子が熱を出したときに診せた事があるが、その診断や対処の仕方は我等の知る医者とは明らかに異なる。
元々は放浪の僧侶だったそうだが、尾張に来るやその医学水準の高さから多くの弟子が集まり教えを受けている。また武衛様や備後守殿など名だたる方達の健康を預かる立場ともなっているのだ。
異例としか言えぬ取り立てぶりには、まこと驚かされる。
他にもこの日ノ本でも屈指の普請の技を持つだろう鈴木党と、彼らの研鑽した技を取り入れて訓練された大普請衆ともいえる常備軍の存在等々。
吉姫は多くを語らないが、それらの殆どに吉姫が関わっているという噂だ。
だからと言って、もし我が武田家に吉姫の様な異能の姫が生まれたとしても、恐らくはその才を殆ど活かせぬまま短い生涯を終えただろう。
十三歳で諏訪に輿入れし、十六で短い生涯を閉じた妹の事を考えればな…。
今儂は、甲斐とは継続的に手紙を交わしており、甲斐の状況把握につとめている。
その手紙によると、この一年で甲斐は大きく変わったという。
街道の整備から始まった武衛家の甲斐統治は、とても武田家には真似ができないだろう大がかりな物であった。
尾張の進んだ治水技術を活用した大規模な治水事業により甲斐の河川は姿を変え、川には橋が架かり羅馬混凝土という漆喰を用いて農業用水路の整備を進めている。
そればかりか、水田の廃止や作付けする作物を変更させるなど、百姓に飢え死にせよと言っている様な大事を、尾張から大量の穀物を運び込み分け与える事で推し進めている。或いは、ある村では田畑を捨てて村ごと尾張へと移り住むことを認めるなど、そのやり方は我等では想像もつかぬ方法であった。
複数の領国を持つ大身で無ければとても出来る事ではない。
無論、それらは意味も無くそう言う事をしている訳では無く、以前吉姫に貰った本に、泥かぶれを無くす為にすべき事、として書かれて居た事を実行しているのだ。
その結果、多くの甲斐の民が村ごと尾張へと移り住み、逆に尾張から豊かな農民が甲斐へと移り住んでいった。
なんでも、甲斐で葡萄を大々的に栽培するという話だが、それで酒を造るのだとか。
それは兎も角、それらの大事業を尾張から与力として甲斐に移り住んできた国人らが着々と進めておる。
そして、それらの普請仕事には甲斐の民が携わって居るのだが、普通であれば普請仕事は賦役として村々から人を出させて行われる。
だが尾張の普請仕事には賦役は無く、働きに応じて金が払われるのだ。
金が出る事を公示して人を集めれば、村々から賦役で無理に人手を集めずとも簡単に人が集まる。
その結果、甲斐には百姓に至るまで金が流れるようになり、彼らを相手に商売する為に近隣の国から行商人が多く訪れる。
行商人が訪れればただ物を買うばかりでなく、物を売る事も出来る。
お陰で僅か一年余りで甲斐は随分と豊かになったのだ。
無論、豊かな尾張の後ろ盾があってこその豊かさではあるのだが…。
儂は、甲斐の領民らを皆笑顔にしたいと願っておった。
それが、武田が何かするまでも無く、備後守殿の力で実現してしまったのだ。
この冬は甲斐の民が飢えることは無い。
普請仕事で稼いだ金で暖かい着物を買い、冬を越す為の準備をこれまでになくしっかりと整えることが出来たと聞く。
それは喜ばしく、もう儂が甲斐の民を心配する必要が無くなったという事だ。
既に甲斐の民は、尾張から来た国人らに心服し斯波家の治世を歓迎しておる。
我等甲斐武田家は存続を許され、斯波家に臣従はして居るが甲斐国主として以前と同じく甲府の躑躅ヶ崎館に在るが、今や影響力は無いに等しい。
儂は、あと二年ほどで甲斐に戻る予定ではあるのだが、その頃甲斐は一体どうなって居るのか。
恐らく、その頃には甲斐はすっかり斯波家の領国になっているのではないのか…。
時勢を感じずにはおれぬ。
明日にはまた吉姫の領地視察に同行する予定だ。
もう何度も吉姫に同行してあの村を訪れたが、あの豊かな村を見るにつけ、甲斐の村々もいずれこの様な豊かな村になるのだろうか、と思いを馳せていた。
だが、何れ甲斐の村々があの村の様に豊かになったとしても、それは武田家が成したことでは無く武衛家が成したこと…。
そう考えると、何とも歯痒く、おのれの無力さが嘆かわしいのだ。
経済大国の尾張パワーで甲斐は大改造されて行きます。
武田氏の甲斐から斯波氏の甲斐へ、ビフォーアフターでは無いですが別の国になりそうです。