閑話八十八 今川龍王丸 熱田の学び舎
熱田の学校に通い出します。
天文十八年十二月 今川龍王丸
尾張に残ったおれは、古渡の今川屋敷に一月ほど滞在する事になった。
古渡の今川屋敷には朝比奈藤三郎が滞在しており、吉姫に近侍しながら駿河から来た者に便宜を図ったり、尾張の情勢を駿府に報告したりする拠点としているとの事だ。
その古渡の今川屋敷より、まずおれは熱田にあるという童向けの学び舎に通う事になった。
その学び舎では六歳位から十二歳位までの童が、算術や読み書きなどの手習いをしていると聞いた。
おれはこの学び舎では年齢が最年長になると思うし、駿府でも今川の嫡男として恥ずかしくない程度には手習いを修めており、今更そのような童向けの学び舎に通う必要などないのではないかとも思ったのだが、藤三郎がここでしか学ぶことが出来ない学問を教えているので是非に、と強く言うので通ってみる事にしたのだ。
藤三郎自身は通った訳では無いが、吉姫が何日かに一度学び舎で教えている関係で、同行した際に教えている内容を学ぶことが出来たのだと話していた。
しかも藤三郎によると父上が、いずれこの熱田で教えている内容を駿河でも取り入れたい、と話しているとも。
そこまで聞けば、おれも学んで帰らぬという話はない。
実際に熱田の学び舎に来て見れば、確かに通っている童の年齢は十歳以下の童が多い。だが、おれと同い年位の者も何人も居り、幼い童の中に年上の俺が一人だけ、という訳でも無かったのは有難かった。
いざ手習い、となったのだが、確かにここで教えている内容は、これまでおれが見たことも聞いたことも無いものばかりだった。
算術の仕方もこれ迄と異なり、加算減算の他にも掛け算、割り算と言う物があり、加算減算は駿府での手習いで学んでいたが、掛け算というのは先ず九九を暗記し、それを応用して計算を行うという算術であった。
九九を暗記するのには一苦労があったが、暗記してしまえばこれ迄は加算減算を駆使して計算しておった様な事でも、簡単に計算ができる様になる事があり、必要性が理解できた。
色々驚かされた算術だが、中でも特に〝分数〟というものには最初は面食らったが、理解してみればこの考え方は数を把握するうえで大いに役に立つな。
算術を学んだ後はそれを実際に活用する、〝複式簿記〟という物を学んだ。
これは、帳簿の付け方の一つなのだが、尾張では商家を中心に大々的に使われ出しており、今や武家の家中でも使い始めているという。
尾張で広く使われ出したという事は、駿河でも取り入れる事になるのだろうな。
藤三郎に聞いてみると、駿河でも既に御用商人の友野殿は一族の者をこの熱田の学び舎に入れて広く取り入れる準備をしているとの事だが、流石駿河一の商人は敏い事よ。
さらに熱田の学び舎で驚いたのは、童に教えておるのが、元服前のおれと三つほどしか変わらぬ者達だという事よ。しかもその人数が多い。
熱田の学び舎を作ったのは吉姫だと聞いたが、吉姫が教えておるのは月に四度ほどらしい。
では吉姫が居らぬ日に教えておるのは誰かと言うと、尾張で最も有名な学び舎である快川和尚の寺から来ているという俺より二つ三つほど年長の僧侶や寺で学んだという年長の武家の子らで、大人は世話役の者が居る位でしかもその者等が教えることは無い。
手習いというと、普通はそれなりに学識を積んだ僧侶などを招くことが多いが、この熱田の学び舎は教えておる内容が今迄に無かった物なので、先に学んだ年長者が後から入って来る童に教えておる、という事らしい。
併せて武家に限らず商人の子でも身を守れる位になった方が良いという事で、希望者は同じ熱田にある剣術道場に通うことが出来る。この道場も吉姫が作ったのだそうだ。
道場主は奥山孫次郎という三河出身の兵法家で、藤三郎の見立てでもかなりの腕だという。
おれも駿府では剣術指南から剣術を学んでいるが、腕が立つ道場主と聞けばせっかくの機会、活かさぬ手は無いだろう。
そう考えて俺も通い出したのだが、果たして果たして。早速稽古をつけて貰ったが、まるで歯が立たぬ。
決して慢心しておったつもりは無いが、まだまだとても一人前とはいえぬと思い知らされたわ。
この奥山殿に短期と言えど師事出来ただけでも尾張に滞在した価値が有ろうと言う物だ。
熱田の学び舎で教えておる内容は、半月ほどで一先ず一通りを学ぶことが出来た。
元々駿府での手習いでおれにそれなりに下地があったこともあったのだろうが、熱田の学び舎は教え方がよく考えられて居って、通う童の年齢や身に付いている学びの程度にも因るのだろう。
学んでいる程度に応じて教え方を変えているのだ。
最初は大きな講堂で基礎から学ぶのであるが、手習いの経験もなく初めて通いだした童と既に手習いを終えた様な元服前の者とでは明らかに身に付いた学びの程度が異なる。
それに対応するために、学びの程度に応じて同じくらいの程度の者が集められ、この学び舎では教える者を〝教授〟と呼ぶのだが、それぞれに教授がついて程度に見合った内容を学ぶことが出来るのだ。
これが出来るのはやはり教授の人数が多いからであろうな。
最も驚かされたのは、熱田の学び舎も剣術道場も無料で誰でも通うことが出来るのだ。
流石に通っておる童は武家の子と商家の子が殆どであったが、中には農村の乙名の子なども居るらしい。
この学び舎で皆伝となれば、読み書きは勿論のこと算術に長けた者となるだろう。
そう言う者達が、武衛殿の領国に続々と巣立っているのだ。
それが何をもたらすのかくらいは、元服前のおれにだって理解できる。
これは駿河に戻れば直ぐに父上に話さねばならぬな。
おれは熱田の学び舎より皆伝を受けると、次に快川和尚の寺に通う事になった。
快川和尚の寺でも、六歳くらいからの童が熱田の学び舎と同じ様に学んでおるそうだが、それとは別に元服前の、丁度おれ位の歳から上の者が教えを受ているそうだ。
その中に吉姫が七日から十日に一度程度やっておるらしい講義が有り、それは年齢身分出自どころか男女も関係なく誰でも聞くことが出来る物だという。
そこで聞ける内容は多岐に渡り、しかも随分と風変わりな話も聞けるというが、どんな話なのだろうな。
既に何度もその吉姫の話を聞いた藤三郎によると、ある時は軍略に関して、またある時は日ノ本の外の国の話など、一体何処で学んできたのかと思うような事を教えておるそうな。
例えば、尾張の守護代である備後守殿の常雇いの軍勢、あれは吉姫の提案から始まったのだという。
なんとも信じがたい話であるが、藤三郎が嘘を言っておるとも思えぬし…。
実際にその講義をこの目で見、この耳で聞くのを楽しみとしよう。
二週間ほどで熱田の学校は卒業、次は寺に通います。