閑話八十六 今川龍王丸 尾張訪問
龍王丸視点の尾張訪問の話です。
天文十八年十二月 今川龍王丸
「龍王丸、此度の尾張行きであるが其方も同行いたせ」
「はっ。
ですが父上、某までが国を空けてよろしいのですか?」
「雪斎に留守を任せる故問題ない。
其方を〝三国一の姫〟に会わせてやろう」
「三国一…」
尾張への訪問を予定して居た父に呼ばれてみれば、用は尾張行きへの同行だった。
姫というのは、父上が日頃良く話す尾張守護代の織田備後守殿の姫の事だろうか?
しかし〝三国一の姫〟とは…。三国一の器量良しの姫、というならばわかるが、〝三国一の姫〟とは一体…。
そう言えば以前、おれの妻に尾張の姫を迎えたいと父が話をしていたが、もしかしてその姫の事なのだろうか…。
雪斎和尚も随分備後守殿の姫をほめていたが、どんな姫なのだろうな…。
数日後の早朝、父や供の者達と共に清水湊で尾張へ向かう船に乗り込み、そして日が落ちる頃には尾張の熱田湊に到着していた。
初めての長旅であり船旅であったので供の者に船内で色々教えてもらったが、以前であれば駿河から尾張迄は陸路の旅で、しかもそれなりの日数が掛かっていたと言う。しかし今は早朝に船に乗れば、その日の内に尾張に着けるとの事。
それを聞けば、随分と尾張は近くなったものだ。
初めてみる熱田の湊は巨大で、尾張の豊かさを表している様だ。
駿河の清水の湊も近年随分と大きくなったと聞くが、ここはその比ではないな。
しかも尾張には津島と言う、さらに大きな湊があるというから何ともはやだ。
駿河も決して貧しい国ではない。
特に長年争ってきた斯波家と和議し、盟を結んでからは随分と豊かになったと感じる。
甲斐の武田家は実質的に斯波家の配下に収まり、もはや甲斐から攻められることは無くなった。北条家も関東の事があり、駿河に手を出す気配はない。
父が斯波家と和議を結んだ、と聞いた時は随分屈辱的に感じたものだが、その後の今川家に対する扱いはそれ程悪い物では無いと聞く。むしろ我等との関係を大事に考えているという、斯波家の言葉に嘘はないと感じるほどだ。
熱田湊には尾張に常駐している朝比奈藤三郎らが迎えに来ていた。
この度の尾張訪問の間、彼等が案内役を務めてくれるとの事だ。
熱田で一泊し、翌朝藤三郎の案内で馬車に乗り込むと先ず清洲の守護館へと向かった。道中藤三郎が最近の尾張事情を話してくれた。
尾張は街道整備が進んでおり、最近は移動に馬車を利用する事が多いのだそうだ。
駿河でも最近馬車が使われる様になってきたが、道が整備されている東海道で使われているだけで、そこまで一般的にはなっていない。
清洲の守護館にて武衛殿への表敬訪問を皮切りに、尾張訪問の日程が進んでいく。
その多くは視察で、武衛殿も同行され尾張領内をあちこち見て回った。
尾張では透明な瑠璃の器が作られて居たりと他国には無い産物が多く、今迄他国に出る事が無かったおれからすれば全てが目新しく感じられた。
視察で方々を見て回れたのもそうだが、父曰く、今回の訪問の歓待ぶりは中々の物で、清洲での宴席も前回より更に良かったと話しておった。
残念ながらおれはまだ元服しておらず宴に参加出来なかったので、その間武衛殿の嫡男である岩竜丸と一緒に遊んでおった。岩竜丸はおれより二つほど歳下で、歳が近いこともあり話しやすかった。
備後守殿の姫の事を岩竜丸に聞いてみたら、頭の良い器量良しの姫で、武衛殿とも何度も会見した事があると話してくれた。
守護代の姫とはいえ、守護と何度も会見する姫など、そんな話は聞いた事が無い…。
一体どんな姫なのやら。
尾張に滞在して数日後、明日の視察で其方に会わせたかった備後守殿の姫、吉姫と会えるぞ、と父に聞かされた。
翌日馬車に乗り込むと、今日の視察は海の方にある村だという。
その村は吉姫の化粧地だと聞かされたが、熱田からしっかりとした街道が通じていた。
街道沿いに見えて来たその村の家屋は、よく見られる土壁や漆喰を塗った壁ではなく、板張りの壁を持つ家屋が立ち並んでいた。
更には大きな風変わりな形をした建物があり、藤三郎に聞けばそれは吉姫が設計した鶏舎だという。
齢十六の姫と聞くが、あんな大きな建物を設計するなんて、一体吉姫とは…。
良く整備された村には寄らず、そのまま街道を進み今回視察する大きな畑に向かった。
到着すると視察の場所には既に陣幕が張られて席が用意されており、警護の武士達が待機する場所まで用意されてあった。
そして畑の向こう側には、此方も既に村人らが準備を整えており、声が掛かるのを待っていた。
案内役の藤三郎は村についてからは連絡役として先に吉姫の所へ行っており、我等とは別行動だ。
遠目に見る村人たちは体格がしっかりして血色も良いように見えた。また身に着けている衣服もみすぼらしい衣服を着ている村人は一人もおらず、この村は随分裕福なのかもしれぬ。
備後守殿に呼ばれ、藤三郎ら数人の武士と共に吉姫らしき武家の女性がやってくるのが見えた。
未だ遠目なのでどんな容姿なのかまでは分らないが、女にしては随分と長身だな。
そして吉姫が我等の陣幕にやって来た。
初めて間近にみる吉姫は大人びており、とても十六には見えないな。
しかもその容姿は岩竜丸が言っていた通り、器量良しのかなりの美貌…。
この姫をおれの妻に、と父が考えていると思うとどうにもモヤモヤとした気分になり、おれとした事が思わずその顔に見入ってしまった。
「吉にございます。
本日は日柄も良く、皆さまにはご機嫌麗しく」
そういうと吉姫は優し気に微笑んだ。
武衛殿が扇子を開き吉姫に向かって扇ぎながら声を掛ける。
「よいよい、義元殿とも既知の間柄、そう堅苦しくせずとも好い」
おれはまるで魅了されたかのように、吉姫に見入ってしまっていた。
そこに唐突に父がおれを紹介する声が聞こえた。
「吉殿、これなるは我が息の龍王丸」
吉姫はおれが紹介されるとおれの方に視線を向け、おれが見入っていた事に気づいたのかその目がほんの少し見開かれ、驚きの表情を浮かべるのが見えた。
おれはその表情をみてハッと我に返ったが、気恥ずかしくてたまらぬ。
「龍王丸だ」
何とか名を名乗るが、意図せずぶっきらぼうになってしまった。
姫に変に思われていないと良いが…。
吉姫は一瞬思案顔を浮かべたが、直ぐに微笑みを浮かべて会釈を返す。
おれはそれを見てまた見とれてしまう。
そんなおれの様子を気にも留めず、備後守殿が吉姫に声を掛ける。
「では、吉よ早速ですまんが始めてくれ」
「はい」
吉姫は返事をすると、一礼をして村人の方へと戻って行った。
そして村の乙名に声を掛けると、村人たちが慌ただしく動き出す。
すると何やら村人の側の天幕の中から聞きなれぬ音が響きだした。
武衛殿は何が起こっているのかが解っているのか、口元に薄い笑みを浮かべて眺めているだけ。
しかし、父や駿河からの同行者はおれも含めその音のする天幕に視線が釘付けになる。
ややあって、馬よりは低いが馬より大きな胴体を持つ何かよくわからぬものが、ゆっくりと天幕から出てくる。
「あれなるは新しく作り上げたトラクターと称する乗り物。
ああ見て馬数頭分の力を発揮し大地を耕しますぞ」
備後守殿が、あれが何かを紹介する。
最初それを聞いた時、あの中には何人人が入っているのだろう、などとくだらぬ事を考えてしまったが、あれはからくり仕掛けで上に乗っている村人が動かしているのだろう。
そしてそのトラクターに耕運機なる物を繋げて引かせると、たった一人の農民が短時間でこの大きな畑を耕し終えて見せた。
なんとも、こんなからくり仕掛けがあれば、どれ程の新しい田畑を耕して石高を上げる事が出来るだろうか。
このトラクターなる物はまだ尾張で作られたばかりのものだそうだが、何年も前から尾張では吉姫が考えた色々な農具が使われて居て、それのおかげで収穫高を大きく伸ばしているそうな。
何とも…。
確かに父が言うように、この姫は〝三国一の姫〟で間違いない。
いや、三国どころかこの世の全ての国で一の姫、ではないのか…?
だがしかし、おれにはこの姫を妻に迎える姿というのがどうにも想像できなかった…。
トラクターの視察の後武衛殿らとは別れ、今日は古渡の今川屋敷にて一泊する事になった。
そして、今夜古渡にて吉姫と会見するから其方も同席せよ、と父に命じられた。
今回は前半部分の話です。