第百七十四話 龍王丸様
尾張に短期留学することになった龍王丸の話の続きです。
『龍王丸様』
天文十八年十二月、今年もまた年の瀬がやってきました。
前世だと年末年始の冬季休業に向けて忙しい時期でしたが、今生では特にそういう事も無く普段通り過ごしています。
そんな私が継続的に手掛けている事として、熱田の子供向けの学校と快川和尚の寺での講義がありますが、その熱田の学校に龍王丸様が通い出しました。
とは言っても一月くらいの滞在の予定らしいですし、龍王丸様は既に十二歳で駿河でも手習いを受けていますから、体験入学的な意味合いが強いと思います。
でも、熱田の学校で教えている内容はこの時代では教えていない事も多いですから、案外勉強になっているのかもしれませんね。
現在熱田の学校は、私が週に一度教え、後は丹羽万千代君と寺から来てもらっている和尚のお弟子さんが教えています。
万千代君は寺で勉強していた子の中では特に優秀で、しかも人に教えるのがとても上手なのが素晴らしいですね。
とはいえ、万千代君に先生を頼めるのは元服迄ですから、その後は既に寺でも〝麒麟児〟と呼ばれている日吉丸君に元服迄の間頼むことになるでしょう。
さて龍王丸様ですが、史実の氏真は無能説が一般的ですが、有能だったという説もあります。
私は彼は有能だったのでは、と予想していたのですが、実際龍王丸様に直接授業で教えた感じだと、かなり優秀だと思います。
東海道一の弓取りと言われていた義元公と多くの宿老が急死しなければ、今川家のあそこ迄の没落は無かったかもしれません。
何しろ史実の今川義元は、正に予定外の死だった為、家督を継いだばかりの若い氏真には碌に引継ぎはされて居ないだろうし、本来義元の死後彼を支える筈の宿老たちも多くが討ち死にしているという状況で、周辺の強国に攻め込まれて国は失いましたが、多くの大名がその家名を保てなかった中でしっかり明治維新まで家名を残しましたから。
足利幕府という権威が失われた時代、足利に連なる名家という権威があったとしても、無能であればとても無理だと思うのです。
今生の龍王丸様は、駿府でしっかり手習いを学んできた事もあり、熱田で教えている内容に最初は戸惑っていた様ですが、その必要性を理解すれば積極的に学ぶという良い性質を持っていました。
アラビア数字も直ぐに覚え、加算減算は既に使いこなしていたので九九の暗記も短期間に終え、掛算と割算も直ぐに使いこなせるようになりました。
また、尾張の商圏で普及しつつある複式簿記や貸借対照表、損益計算書等の読み方付け方等も、必要と感じたのか一通り説明したところすぐに覚えてしまいました。
これで今川家にも複式簿記が広まるかもしれませんね。
特に柔軟さを感じたのは、主に私や転生者が読みやすくなるようにとの都合から、この時代の一般的な筆記法である草書を楷書に改める事を学校でもやっているのですが、良く言われるのは〝楷書では草書の様に気持ちが伝わらない〟と言うのですね。
確かに、それは一理あります。草書は〝気持ちで書く書き方〟とも言えますから、その筆の乗り具合を見ればその時の気持ちがある程度伝わってきます。
ですが、それ故にくせ字も良く見られ、おおらかな時代ですから当て字や誤字なんて当たり前というアバウトさが酷く、違った意味になったり読めないことがあるのです。
その辺り、楷書できっちり書けば読めなかったり読み間違ったりという事は減ります。
龍王丸様も文章をしっかりとした美しい草書で書くのですが、楷書で書く事の意義を説くと直ぐに納得してくれて、少なくとも学校に通っている間は楷書で書くようにしてくれました。
そんな、勉学に優れた龍王丸様ですが、史実の氏真というと蹴鞠、ついたあだ名が〝ファンタジスタ〟でしたが、実際に見せて貰うと確かに蹴鞠は上手ですね。
この時代の貴人の嗜みという事だそうですが、機敏な動きやフットワークの良さを見ると、純粋に身体能力が高いのだと感じました。
史実の氏真は〝ファンタジスタ〟の異名を取ると同時に〝剣豪〟としても有名ですが、龍王丸様も剣術にも興味がある様です。
熱田の学校は午前中で授業が終わりますが、午後からは希望者に奥山殿の道場に通って貰っています。商家の子供でも剣術を修めていれば、将来自分の身位は守れるようになりますから。
駿府で既に剣術の修行はしているそうですが、道場の話を聞くと自分も是非にということになり、奥山殿の道場にも通うことになりました。
奥山殿に稽古をつけて貰っている龍王丸様を見学したのですが、武術の心得のあるお供の滝川殿と小次郎殿に龍王丸様の腕の程を聞いてみると、中々に筋が良いと高い評価です。
ちなみに、藤三郎殿は龍王丸様滞在中は龍王丸様のお供を仰せつかっているそうで、龍王丸様のお供の方々と今回は一緒にいます。
そう言えば、龍王丸様とは学校で多少話しをしているのですが、ちょっとぶっきらぼうな感じですね。
でも、他の方とは普通に話しているようなので、私に対してだけかもしれません。
龍王丸様を小学六年生くらいの男の子と考えれば、今高校生くらいの私はちょっと歳の離れたお姉さんという感じなのでしょうか。
前世で近所に住んでいた男の子を思い出しますね。
幼稚園の頃はよく遊んであげたのですが、彼が中学に入る頃にはちょっと疎遠になって、高校に入る頃になると普段は礼儀正しいのに、何故か私に対しては妙にぶっきらぼうだったのを思い出しました。
それはともかく、龍王丸様は結構優秀で将来有望そうに見えますね。
ところで龍王丸様は、熱田の学校のほうが一区切り付けば、次は快川和尚のお寺へ通うことになっています。
私の講義も聞く予定ですから、龍王丸様がどんな反応をするのか楽しみです。
本作では氏真は有能説を採用しています。