第百七十三話 義元公来訪
戦も終わり、落ち着いたところで義元公が来訪しました。
『義元公来訪』
天文十八年十一月、今年もあと一月余りを残すのみ。いよいよ冬の到来です。
最近は綿入りの着物や羽織が作られるようになり、以前に比べると格段に過ごしやすくなったと思います。
この時代、まだ綿花は大陸からの輸入に頼り高級品です。戦国時代後期から次第に綿花栽培が日本中に広がり、安土桃山時代の終わり頃には日本全国で綿花が作られ国内で消費されるようになるのですが、現時点で日本で大規模に生産されているのはこの尾張と三河の二ヶ国くらいだと思います。
でも、遠江でも来年から栽培が始まりますし、駿河でも黒ボク土が何とかなるなら是非栽培を始めたいという話が出ていると藤三郎さんが話していましたね。
そんな駿河の義元公が十一月になって尾張を訪れました。
本当はもっと早い時期に来たかったようですが伊勢での戦があった事などもあり、延び延びになっていたのです。
船で尾張に到着された義元公一行は清洲の守護館に守護様を訪問され、その後守護様や父らと共に馬車で尾張国内を視察されたようです。
馬車は既に駿河でも使われている様ですが、一年ぶりに訪れた尾張の更なる発展ぶりに義元公は大層驚かれたとか。そんな話が伝わってきました。
私はというとそんな話を清洲の屋敷で聞かせてもらいながら、お土産のお裾分けに頂いたお菓子を千代女さんや弟たちと頂いて居ました。
弟の喜六はまだ小学生の低学年くらいの歳ですが少女に見えるほどの美形で、流石後世に迄美形と伝わるだけあるなと眼福する次第なのです。
お土産に頂いたのは羊羹なのですが、この時代の羊羹は小豆を葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹です。
こういう和菓子は本来京の都が総本山だと聞きますが、今や戦乱で荒廃した京の都以上に京文化が息づくと言われる駿府の町ならではのお土産とも言えますね。
甘味を日頃から食べ慣れている清洲であっても矢張り甘味は喜ばれますから、義元公ならではの気遣いなのでしょうか。
千代女さんは、実家にいた頃は甘味など殆ど食べる機会が無かったと言っていましたね。
『領地視察』
父から〝明日吉の化粧地を義元公に見せたいから案内せよ〟との書状が届きましたので、早速準備を整えると一先ず古渡に入ります。
古渡で〝明日義元公一行が村を訪問するので準備を頼む〟との書状を書くと領地の乙名さんへと届けて貰い、佐吉さんには明日の同行を頼みました。
そして、翌日領地へと向かいます。
領地に到着するとよそ行きの着物を着た乙名さんが出迎えてくれます。
「姫様、久しぶりにございます。
守護代様からも知らせを受けておりました。
既に準備は整っておりますので、ささこちらへ」
「大儀でした。本日はよろしく頼みましたよ」
「はい」
乙名さんに案内されて畑へとやってきます。
そこには既に私達一行の為の席が用意してあり、畑の向こう側には先発の兵士らが来ていて守護様らの為の陣幕が張られ席が用意されて居ました。
畑の側にはトラクターか置かれてあり、父はどうやらこの村で使われているトラクターを見せたい様です。
古渡でも見せることが出来るのですが、実際に働いているトラクターを見せた方が迫力がありますからね。
しかし、見せる事は良いのですがトラクターを他所で使うのはまだ時期尚早です。
父にはその話を伝えていますから、恐らく〝将来的にはこういうものもある〟という話をされたいのかもしれません。
やはり、未来像を見せるというのは結束を高める上でも大事な事ですからね。
昼頃になり、守護様たち一行が到着します。
守護様と父上の他清洲に出仕している重臣の方々、それに義元公と随行の今川家の方々。今川家の随行者には私と同じくらいの歳の若い武士が居ますね。
私がその若い武士に興味を持った事に気付いたのか、隣に座る藤三郎さんが私に耳打ちしてきます。
「あのお方は、龍王丸様にございます」
マジですか!そんなの聞いてませんよ。
雪斎和尚や義元公当人から是非嫁に、と求められている御本人です。
思わず驚きの表情を浮かべそうになりますが、ここはぐっと我慢。
平静を装って淑女らしく、静かに頷いて見せます。
人目もありますしね。
前にこの話が出た時は〝身分が…〟と言ってやんわり断りましたが、今や父は守護代ですし武衛様は身分を気にするなら猶子にすると言っていますから、もう身分で断ることは出来ません。
確か史実だと龍王丸様が元服するのは二年後だったと思います。
私より四歳年下ですが、年下女性と結婚する事が多いこの時代でも四歳くらいの年齢差であれば無い話ではありません。
いずれにせよ、父は今川家との関係を重視している様ですから、私が輿入れしなくても織田家から誰か輿入れする事になる筈です。
史実だと早川氏とのおしどり夫婦なのですが、この世界だと今のところその線は無さそう。
そんな龍王丸様こと氏真様の容姿は、後世に残っている肖像画が晩年の姿を没後に描かれたという事もあるので好々爺といった姿を想像していましたが、実物は不思議な物で、そっくりという訳では無いのですが、前世で見たドラマで氏真様を演じていた尾上某さんに顔立ちが似ている気がしますね。
皆が席に着いたところで父が私を呼んだので、皆様にご挨拶です。
「吉にございます。
本日は日柄も良く、皆さまにはご機嫌麗しく」
守護様が微笑み声を掛けてきます。
「よいよい、義元殿とも既知の間柄、そう堅苦しくせずとも好い」
隣に座る義元公も微笑んで頷いて見せます。
「吉殿、これなるは我が息の龍王丸」
紹介されて龍王丸様の方を見ると、何故か私の事をジッと見つめていて、ハッと気が付いた風で恥ずかしそうに慌てて名乗ります。
「龍王丸だ」
この歳だと四歳年下の男の子はなんだか幼く見えて可愛く感じられて微笑ましいですね。
しかし、ふと気が付いたのですが、当主と嫡男が二人そろって他国に来て大丈夫なのでしょうか。
それだけ信用しているぞ、という強いアピールになるのは間違いないでしょうが。
「では、吉よ早速ですまんが始めてくれ」
「はい」
簡単ですが挨拶も済んだところで、早速始めるように父が言ってきます。
私は一堂にお辞儀をすると、皆の元に戻ります。
「それでは乙名さんお願いします」
「はい。承りました」
乙名さんがトラクターの運転に習熟した村人に声を掛けると、彼が早速動かし始めます。
とはいえ、守護様のところまでは距離が離れているので以前の様に始動したエンジン音に驚くことはありません。
快調なエンジン音を響かせると段差を乗り越え畑へと入っていきます。
畑の様な柔らかい地面にも対応した鉄製の大型の車輪を採用したトラクターは多少の地形などものともしません。
畑の方は既に収穫が終わっていて、この後大豆を植える前なので、多少トラクターを走らせたところで問題は無い様です。
トラクターを走らせて見せた後、このトラクターにけん引させるロータリーを取り付け、畑を耕して見せました。
ちなみに、トラクターでなくとも牛であれば、この大きさのロータリーは無理ですがもう少し小型のロータリーを引かせることは可能です。
守護様は、既にこの様子を見た事がありますから満足げに床几に座ったままですが、義元公と龍王丸様は呆気に取られて棒立ちの様子です。
しかし、それは無理も無いでしょうね。私もこの時代に内燃機関のトラクターが走るなど、数年前には想像もしていませんでしたから。
ひとしきりデモンストレーションが終わると、トラクターを畑から出して間近で見て頂くことになりました。
トラクターに関する質問は佐吉さんが答えていますが、この時代の人だと余程聡明な人でもそう言う物だと思うしかない。そんな感じのやり取りでしたね。
領地の視察は無事に終わり、今晩義元公一行は、普段藤三郎さんら今川家から来ている人が住んでいる古渡の今川屋敷で一泊する事になりました。
その際、義元公が私と話をしたいという事でしたので、古渡の屋敷でお話しする事になりました。
守護様は先にお帰りになられたので、会見は父と私、それに義元公と龍王丸様が参加者になります。龍王丸様は義元公が立ち会わせたいとの希望で、父が了承した感じです。
父に関しても実質的には立会人の立場で、この場では義元公と私が話をします。
とはいえこの時代、私のような小娘が義元公の様な貴人と話をするなどと、非常識この上ない事なのは間違いないでしょうね。
「備後守殿、吉殿、わざわざ場を設けてもらい忝い」
「なんの義元公、なかなかお会いする機会も無いところ、折角尾張に来られたのだ。
それに盟を結んだ間柄、吉との話がお役に立つならば、お役に立ててくだされ」
「はは、そう言って貰えるとありがたい。
吉殿、早速であるが、以前の農地改革の話を覚えておいでか」
「はい、それは勿論。
黒ボクの話ですね」
義元公は大きく頷きます。
「左様。
あれから吉殿から頂いた書を農学者に託し、また手紙で色々と教えて貰ったが大いに役立った。
礼を言う」
そう言うと、義元公が頭を下げます。
義元公ほどの身分のある方が目下に頭を下げるなど普通では無いことです。
「い、いえ。私はただお役に立てればと。
お役に立ったようで何よりにございます」
「ふふ、変わらず奥ゆかしいな。
去年の秋に、人を使って大規模にたい肥作りを始めてみた。
あの時吉殿が提案しておった養鶏を、先に全ての農村で大々的に始めていた故、大規模に試すことが出来たのだ。
それに吉殿の言う通り卵食も勧めたところ、農民たちの健康状態も劇的に良くなり、今年は病気に罹る者も例年より少なく、一石二鳥を超える成果となった。
そして出来たたい肥で、今年の春より試しに幾通りもの配合で畑を作らせ試してみたのだが、秋に成果を見たところ、明らかに従来の黒ボク土で耕作した場合とは異なる収穫高を得た畑が幾つか有った。
来年は、その中でも最も優れた成果を得た配合で大々的に耕作する故、もっとはっきりとした成果が確認できるであろう。
まだ何年か試さねばならぬが、一先ず黒ボク土の問題は、吉殿が話した通りに解決の糸口がつかめたように思うのだ。
これは我らからすれば画期的な事であり、無事に解決の暁には我が領の石高は飛躍的に向上しよう。
戦で負け遠江を失った我らではあるが、黒ボクの問題がまだ解決して居らぬ今の時点でも既に遠江を領しておった頃の貫高を軽く超えておるのだ。
しかも、備後守殿が伊勢大湊を勢力下に収めた事で、今後さらに商いが伸びるというではないか。
これは、関東への玄関口である清水湊を領する我が駿河が益々恩恵に与れるという事。
何とも皮肉な話であるな。
これぞ備後守殿が話した、戦をせずとも国を富ませる事で貫高を何倍にもすることが出来る、という事が実証されたようなものよ」
父が我が意を得たりと笑います。
「ははは。
義元公、儂は嘘は言っておらなんだでござろう」
「如何にも。
これも不思議な巡り合わせよ。
だが、この縁は大事に致そう。
安定こそ繁栄の原資であることは間違いない。
不安要素がまるでないと言えば嘘になるが…」
「北条でござるな」
「左様。
今は盟がある故、余程の事が無ければ駿河を攻めるという事は無かろうと見ておるが、隙を見せられぬ相手」
「しかし、関東での戦を収める為には北条は後顧の憂いは無くしたいと思われるが」
義元公は頷きます。
「如何にも。先の関東での大戦で北条は勝利したが全てを収めたわけではない。
破れたりとはいえ、関東管領たる上杉憲政殿の権威は未だ影響力が強く、再び号令を掛けて大兵力を動員して巻き返しを図らぬとも限らぬ。
故に北条は、上杉殿の本拠の平井金山城まで攻め上がり根絶やしを図るであろう。
戦のさなかに北条の本拠を攻められてはかなわぬであろうからな」
「ふむ…。
その辺りは義元公の見立て通りでござろうな。
されば、如何される。
もし、北条が望むだろう後顧の憂いを無くすために有利な条件で盟を結ぶのであれば、仲介の労は惜しみませぬぞ。
氏康殿とは定期的に文のやり取りをして居り、まったく知らぬ仲という訳でもござらぬ故。
しかし、逆に今川家、ひいては我らが盟の後の憂いを無くす為に攻めるならば、今でござろうな。
それに関東では、今年地震で大きな被害が出たと聞きましたぞ」
「駿河は幸いにそれほどの被害はなかったが確かに地面が激しく揺れ、北条の領内では大きな被害が出ておる様だ」
そう言ったところで、義元公が私の方をちらりと見ます。
以前、雪斎和尚に話したことが義元公にも伝わっている筈ですから、それででしょう。
ちなみに、父は私の意見を入れて話をしている様です。
攻めるならば今か、或いは上杉に兵を出したその時。
但し、かの三国同盟が存在しない今、上杉には向かわず逆に駿河を攻めて電光石火で落として既成事実化した上で織田との和議を求める、という可能性も無きにしも非ずです。
実態は兎も角、今川家は織田との戦いで大敗して領国を減らし弱兵の謗りを受ける有様ですから、北条方から侮りを受けている可能性もあります。
私達の軍勢の行軍速度はこの時代の常識を遙かに凌駕していますが、北条方は〝尾張から兵を動員して駿河に後詰に来るのは一月後〟なんて甘い見積もりを立ててしまうかもしれません。
あの武田晴信殿の様に…。
とはいえ、氏康殿は傑物、更にはかの幻庵殿という知恵袋も居ますから、武田の様な愚かな選択はしない可能性はあります。
父もまた義元公の視線に気が付いたのか私にちらりと視線を向けたところで、言葉を続けます。
「いずれにせよ、今が有利とはいえ大義名分無しで兵を出すのは武衛様が許さぬでしょう。
しかし、関東管領を攻めたとなれば別でござる。
それ迄、我らは我らに出来る事をし、出方を見るのも手ではござらぬか?」
義元公はふむと暫し考えると返事します。
「では、そう致そう。
今となっては余も戦は望んで居らぬ。
決して臆するところは無いが、敢えて戦をして大事な領民を損じる事は本意でない。
まずは出方を見て、そして北条と盟を結ぶのもまたやぶさかではない」
「わかり申した。
もし北条が駿河に兵を出したなら、それは我らに兵を出したことと同じ。
二度と兵を出せぬ様にしてやりましょう」
そう言って父は怖い顔で笑います。
実際、それで武田家は家こそ残りましたが大名家ではなくなりましたからね。
それを見て義元公は笑みを浮かべます。
「敵であれば油断出来ぬ相手も、味方にすれば何とも頼もしい。
いずれ我が今川も何らかの形でお返し出来ると良いが」
「はっはっは。
盟を結んだ以上はお互い様にござれば、何かあれば義元公に助けを乞う事もあるやもしれませぬ。
我らは尾張の田舎者でござる故」
義元公は一瞬意味が解らず目を細めます、しかし意味が分ると笑います。
「ははは。
そちらの方であればお任せあれ」
「是非に」
これで一先ず話は終わりです。
ところで、ふと私は視線に気が付いたのですが、何故か龍王丸様が私の方をジッと見つめていますね…。
私より綺麗なお姉さんなら沢山いると思うのですが…。
そんなやり取りを見たのかどうかはわかりませんが、唐突に義元公が雰囲気を変えて切り出します。
「ところで、此度龍王丸を連れて参ったのだが、如何であろう。
我が息は、吉殿の相手に釣り合うであろうか」
それを聞き、父は苦笑いします。
私は何となくそんな気はしていたのですが、どう答えていいのか返答に困ってしまいます。しかし、無言のままでは失礼です。
私は父に救援を求めるように視線を向けますが、父は苦笑いの表情のまま頷きました。
自分で答えろって事でしょうか…。
しかし、顔を見ただけで話もしていませんし、そもそも小学生くらいの男の子と話をしたところで、しっかりしているかどうか位しかわからないような気も…。
龍王丸様の顔は、イケメン大好きの私から見て眼福という程ではありませんが、しかし十分顔立ちは整っていますし、もう少し歳を重ねればイケメンに育ちそうな気がしますよ。
でも、どうかと問われても答えようが…。
「まだお会いしたばかりで、どの様な方かわかりませんので、お答えは出来ません」
すると義元公は、その答えが織り込み済みだったのか笑います。
「ははは。
確かに、吉殿の話すとおりであるな。
備後守殿どうであろう、龍王丸を藤三郎の下に一月ほど預ける故、こちらの学校に通わせては貰えぬか。
無論、手を煩わせるような事はせぬつもりだ」
まさかその手で来るとは…。
別に縁を結ぶという意味でなら私でなくともいいと思うのですが…。
「学校にござるか。
それは別に構いませぬが、嫡男が一月も領国を離れて大丈夫にござるか?」
「嫡男であっても遊学に出したりは普通にする。
警護の武士や世話役も用意するし、問題あるまい」
「ふむ。
それであれば…。
確かに将来を考えれば一度尾張をよく見ておいて頂くのも悪い話ではござりませぬな」
「うむ。
では、備後守殿、吉殿、龍王丸を頼みましたぞ」
「承った」
「…はい」
こうして、龍王丸様は一月程藤三郎さんの住んでいる今川屋敷で暮らす事になりました。
折角ですから、後に暗愚とも称された龍王丸様がどの程度の人物なのか、見てみるのも良いかもしれませんね。
龍王丸が一月ほど尾張に滞在です。