第百七十話 尾張丸の船出
完成した内燃機関は色々な物に搭載されて行きます。
『収穫の秋』
天文十八年十月、今年も収穫期という忙しい時期を終え、収穫した作物を使っての仕事が始まります。
石鹸やアロマオイルは梓さんが加わった事で更に効率よく質の高い製品が作られるようになりました。梃の原理を使った圧搾機は役目を終え、今では螺子を使った圧搾機を使うようになったので、ずっと少ない人数で並行で作業を行うことが出来る様になりました。
特に私の村では尾張では一番早く新しい機械が入ることもあり、村当たりの収益はこの豊かな尾張でも頭一つ抜けているかもしれませんね。
今では私が出向いて指導しなくとも、村の人が独自に知恵を絞って石鹸やアロマオイルづくりを進めているので、屋敷に届けられた試作品をチェックするだけになっています。
これならば、もし私がどこかへ輿入れして村に顔を出す事が出来なくなっても、この先もずっとやって行けるのではないでしょうか。
全国的な作柄はわかりませんが、私の村の作柄は今年も良い様です。
化粧地として貰った村ですが、貰った当初に比べると貫高は数倍になっている筈で、米の生産量の増加の他にも各種産物の売却益やライセンス料などの増加も有り、今年も結構な収入増になりそうですね。
『トラクター』
焼玉エンジンが完成した事で、佐吉さんがトラクターを作りました。
平成の御代にあった様な洗練された代物では無いですが、金属製の車輪を持ったレトロなトラクターで、相良の油で独特のエンジン音を響かせて元気に動きます。
一先ず私の村で使ってみますが、メンテナンスなど考えると数台の運用が限界かもしれませんね。流石にトラクターのメンテナンスが出来るのは佐吉さんだけなのですから。
四頭立ての大型の専用馬車にトラクターを載せて村まで運びましたが、エンジン音を響かせた途端、村の人は腰を抜かす人が続出するほど驚いてしまい、ちょっと悪い事をしてしまいましたね。
でも、慣れてしまうと運転自体は簡単なので村の人にも扱えそうですし、一緒に持参したこのトラクターで使うための牽引式の荷台や耕運機を引いて力強く走る姿を見て、これがあれば土おこしが更にはかどりそうだと言っていました。
一応、今日はお披露目なので、実際に使う時は佐吉さん立ち合いで行う事になります。
『タグボート』
船舶用の焼き玉エンジンの製作も進んでいた様で、まずは既存の和船を造船所で改造し試しに取り付けてみました。
推進方式はオーソドックスにスクリュー式で、真鍮製のスクリューは佐吉さんの手作りの品です。
日本初の、いや世界初の動力船の試運転は無事成功し、レトロなポンポン船は蟹江湊の湾内を快調に走り回り、結果は良好です。
そして、次は本命であるタグボートの開発です。
タグボートは既存の船とは明らかに異なる形になるので、今年の春前には図面を起こし模型も拵えて建造に入っていたので、船体だけですが既に仕上がっていました。
これに、専用に拵えた大型の焼き玉エンジンを搭載し完成させます。
船体は木製で、未来に存在するタグボートに比べれば随分可愛い大きさですが、尾張丸位迄の船であれば問題なく押せる実力を備えている筈です。
こちらの方も無事進水を済ませ、試運転でも問題なく動くことが確認されたので、湊の名前をとり蟹江丸と名付けられました。
ここ一年くらいで相良で産する石油の使用量が大幅に増えて来たので、そろそろ本格的な操業を考える必要があるかもしれませんね。
『尾張丸の船出』
天文十八年十一月、早いもので過ごしやすい秋は過ぎ、もう肌寒くなってきました。
運用試験と習熟訓練を続けていた尾張丸ですが、いよいよ探索の船出となりました。
目的地は小笠原諸島。
北緯24度45分29秒、東経141度17分14秒にある硫黄島とそして小笠原諸島の探索です。
特に硫黄島は硫黄が産出しており資源確保の意味もありますし、何より小笠原諸島自体が入植可能な地で、平成の御代にも数千人が暮らしていた豊かな島だという事もあります。
この島を発見し、千人規模の入植者を送り込み、日ノ本を訪れるスペインなど諸外国に我が国の主権が及んで居る事を周知させるのです。
また、小笠原諸島に中継基地を作れば更にその向こうにあるハワイにも到達可能ですし、更にその向こうの北米西岸にまで到達できるでしょう。
流石にそこまで実現可能かはわかりませんが、北米の本来の住人達は顔は私達日本人とよく似ており、文化や精神も通じるところがあります。
つまりは、遠い親戚の様な物です。
ここに白人が入植してきて彼らを駆逐し白人国家を形成する前に、日本の植民地を作り原住民を同化させて組織化すれば、白人国家の形成を阻止する事が出来るかもしれません。
流石にそこまでは無理でも北米西岸を日ノ本の領土とすればこの狭い日本で領土争いなどする必要も無いでしょう。
その為にも、先ずは小笠原諸島の入植を成功させる必要がありますね。
それには尾張と小笠原諸島の間に尾張丸とその姉妹船の二隻で定期航路を開設し、小笠原諸島に入植する人たちを孤立させないようにしなければなりません。
上手く入植できればサトウキビなど南の島の産物も手に入るようになりますね。
十一月初頭の吉日、父は勿論、守護様も立ち合い、熱田神社から神主が訪れて航海の成功を祈って神事が行われました。
多くの人たちに見送られ、尾張丸はタグボートで湊の外に出されて、船出して行きました。今回の航海は一月の予定で、二週間を経ても島が発見できなかった場合は一先ず帰還する事になっています。
尾張丸には既に立派な羅針盤が取り付けられ、航海術を習得した佐治水軍衆の棟梁である佐治為景殿が船長に任命され、水軍衆三十名が船員として乗り組みます。
為景殿はまだ二十代と若く、棟梁の気概もあるのか航海術の習得にも人一倍熱心で、六分儀の使い方もすっかり習得したそうで頼もしいですね。
そんな尾張丸には他に、父の弟である孫十郎叔父上を調査団長に武士や学者、医者など約三百名程が乗り込み、鈴木党からも二十人ほどが土木と鍛冶、銃器に通じた専門家として乗り込んでいます。
尾張丸には二ヶ月分の物資食料の他、念のために梓さんが拵えた簡易浄水器やストーブ、洋上で調理可能な固形燃料を使うコンロなど調理設備も搭載されて居ますから万全ですね。
この船には鉄砲の他、刀や槍、弓等の武器は持ち込まれて居ますが、大砲などは搭載されて居ないため、スペインなどの武装船と出くわすとちょっと不安です。
兎に角、無事の帰還を祈りましょう。
いよいよ織田家は海洋進出を果たしました。