第百六十八話 盟約の儀
伊勢から北畠晴具一行が到着します。
『盟約の儀』
天文十八年九月、北畠晴具様は嫡男の具教様と共に船で尾張を訪れ、清洲の守護様の御所で盟約の儀が執り行われました。
そしてその夜の晩餐に先日の料理が供応されたのですが、中々好評だったようです。
翌日から、父自らの案内で晴具様と具教様は馬車で尾張の視察を行われ、瀬戸のガラス工房でガラス製品の展示や、今年は広く作付けされた綿花畑など、御二方に様々な産物の紹介が行われたそうです。
また今回の晴具様一行の尾張訪問に際し、父が予め晴具様に根回ししていたのかどうかは解りませんが、南伊勢の産物の数々が土産として持参され、その際に持ち込まれた立派な伊勢エビが晴具様が連れて来た伊勢の料理人によって調理され、守護様を始め尾張衆に振舞われたりもしたそうです。
私は伝え聞いただけで見たわけでは無いのですが、その場に参加していた平手殿が教えてくれました。
平手殿は供応などの作法に関しては織田家中で一番詳しいので、今回みたいなケースでは大いに頼りにされます。
北畠晴具様一行は古渡も訪れたので、父は城代の平手殿と佐吉さんを説明役に様々な製品の展示を行いました。
私はというと、今回は父の指示で表には出ず一行を遠巻きに見ていたのですが、晴具様も具教様もどことなく気品が感じられる整った顔立ちで、親子は良く似ていました。
具教様は六角定頼様の娘さんを奥さんに迎えられていますから、今回は私に声が掛かる事は無さそうですね。
晴具様と具教様は、尾張では街道が整備され馬車が頻繁に行きかっているのに驚いたようですが、古渡にて蒸気機関車が動いているのを見てさらに驚いたようです。
しかし、蒸気機関車は初号機に比べると随分と改良されたのですが、まだ街道を走らせられるレベルでは無いですね。やはり鉄道を敷かないと運用は難しいかもしれません。
古渡では蒸気機関等の展示の他、鈴木殿率いる鉄砲隊の閲兵が行われました。
これは父が特に見せたかったようで、織田の鉄砲隊の実力を見せるとともに、今回の伊勢攻めに鉄砲隊を出さなかった意味というのを晴具様に察して欲しかったようです。
北畠家でも鉄砲隊こそ無いものの鉄砲は持っているようで、それに鉄砲傷が矢傷や刀傷と異なり厄介なものだという事も勿論知って居るとの事。
晴具様は、何故父が自分達に織田の鉄砲隊を見せたのか、その理由に考え至った様で、今回争った事は水に流して遺恨を残さず良い関係を築きたい、と父に話したそうです。
今回の戦、伊勢の国人と農兵にはそれなりの手負い討ち死にが出た様ですが、鉄砲隊が出ていればもっと討ち死にした人が出たでしょうからね…。
その後、熱田を経て蟹江の造船所を見学し、専用ふ頭に係留しているカティサーク改め尾張丸の威容に腰を抜かすほどに驚いたそうです。
ちなみに、堺の商人さんの手配で中国から招いた航海士に、尾張水軍衆の若手が師事して現在六分儀の使い方など航海術を学んでいるところで、尾張丸はまだ近海のみの航海で試験運用中です。
現在蟹江造船所では二隻目の尾張丸を建造中で、ガントリークレーンが動いているのも見せた様ですが、もしかするとそのうち志摩辺りにも造船所が出来るのかもしれませんね。
晴具様一行は今回の尾張訪問に大変満足したようで、今後付き合いが深まるのが楽しみだと言い残して伊勢に帰ったそうです。
そして北畠家から、人質では無いのですが、僧籍だった晴具様の三男の方が還俗して尾張にやって来るそうで、意味合い的には武田信繁様の様な感じなのでしょうか。
『往診』
六角定頼様は史実だと天文二十一年に亡くなったと記録が残っています。
今年は六月に史実通り細川晴元様が三好長慶殿に敗北して失脚。足利義晴様と共に近江へと逃れています。
畿内は長慶殿が抑え、そして近江を窺っていますが、最後の防御壁として三好勢の動きを牽制しているのがその定頼様という訳です。
次の将軍の義輝様は長慶殿と一度は和睦し御所に戻りますが、定頼様が亡くなったその年にはもう晴元様と長慶殿が揉めだして長慶殿は義輝様と決別、長慶殿と争い破れた義輝様と晴元様は再び近江の朽木へと逃亡します。
義輝様は私より二つ年下でまだ若く、智謀に長け戦上手な傑物である長慶殿とまともにやりあえる訳もなかったわけです。
結果としてあまり変わらない可能性もありますが、あと五年か十年定頼様が健在であれば義輝様が経験を積み人心を掌握し地ならしをする事も出来たのではないでしょうか。
結局、このお方は若くして将軍になったが長慶殿とうまくやれず、しかし志は高く将軍親政を目指したことで、史実で言う織田信長の上洛、この世界の歴史で言う今川義元公の上洛迄の長きに渡る畿内での争いが、都をすっかり荒れ果てさせたのです。
やはり、畿内が安定し駿河までの安定した商圏を確立できてこそ、最大の成長が見込めるわけですから、定頼様にはもっと長生きして頂きたいです。
なにより、同じ転生者としてお会いしたいという気持ちもありますし。
だから玄庵殿に、既に父には定期的な往診と健康指導をして貰っていますが、父ほどは無理としても定頼様への定期的な往診と健康指導を頼みました。
玄庵殿は定頼様が同じ転生者だと聞き、往診と健康指導を快諾。
既に観音寺への街道整備が進んでいますから、馬車を使えば歩いて向かうよりは遥に早く、そして楽に出向けると思います。
その旨を、滝川殿こと義頼殿に話し手紙を届けて貰いました。
勿論、義頼殿は玄庵殿の腕は良く知っています。
程なく、定頼様から受け入れる旨の返事がきました。
定頼様自身も最近の自分の健康状態が気になっていたとの事で、また同じ転生者に会いたいとも記されていました。
こうして、本格的に冬になる前に戻って来られる様にと九月の中頃、玄庵殿は往診道具と付き添いの看護師そして護衛の人達と共に、近江は観音寺へと旅立ちました。
玄庵殿の無事の帰還と、土産話が楽しみですね。
1552年に亡くなった定頼の延命の為、玄庵殿が旅立ちます。