第百六十六話 坊丸誕生
帰蝶姫が出産しました。
『嫡男誕生』
天文十八年六月、妊娠していた帰蝶さんが無事元気な男の子を出産しました。つまり、弟の勘十郎の嫡男誕生です。
父は初孫の誕生に大変喜び、本当であればすぐにでも孫の顔を見に那古野へ行きたかった様ですが、出産して一月~二月は母子ともにデリケートな時期。
帰蝶さんが回復するまでは控えておいた方が良いと話したところ、ならば清洲に孫の顔を見せに来てくれるまでは我慢するとの事。
父が行かないとなると、母も初孫誕生と言う事で本当であれば自らの出産の経験や、子が産まれてからの自分の経験などから帰蝶さんにアドバイスしに行きたかった様ですが、こちらも控えた様です。
私にとっても初甥っ子誕生で嬉しい出来事なので、父と母と私で出産の祝いを色々と用意して那古野の帰蝶さんの元へと届けてもらいました。
それから二月後、まだ体調は万全とはいかないようですが、帰蝶さんが赤ちゃんを連れて清洲まで来てくれました。
勿論、性能の良いあまり揺れない箱馬車があってこそで、昔であればまだ出歩くのは難しかったと思います。
初めてみる赤ちゃんは織田の美形の血筋を引いたからか、或いは美人の帰蝶さんに似たのか、綺麗な顔立ちをしていました。
最近つかまり立ち歩きをする様になった妹も可愛かったですが、やはり赤ちゃんの可愛さには癒されます。
弟が付けた名前は『坊丸』。御坊、御坊丸などともよばれているそうです。
弟は今回一緒に清洲には来ませんでしたが、やはり子供が生まれたのは嬉しかったのか、沈みがちだった弟が久しぶりに笑顔を見せたと帰蝶さんが話してくれました。
帰蝶さんと話すのは随分と久しぶりですが、母になったからか物腰が以前会ったときに比べると随分と柔らかく感じました。父や母との受け答えもしっかりしたもので、那古野の近況や弟の話も織り交ぜつつ話をするところなど、話し方の上手い人だと思いました。
何と言っても父に弟の近況を聞かれる前に、坊丸の話に織り交ぜる形で弟の近況を先んじて話すところなど、横で話を聞いていて感心しきりです。
しかも、弟の悪口に聞こえるような事は一切話さずに上手く弟を立て、逆に父が伝え聞く帰蝶さんの活躍に感謝の意を伝えても、それをそのまま受け取る事をせず、弟の手柄になる様に話すところなどは、気配りがすごいというか良妻賢母というか。
私と大して歳は変わらないのですが、私がどこかにお嫁に行ったとして、帰蝶さんと同じことが出来るとはとても思えません。
帰蝶さんのお父上である斎藤利政殿の薫陶が良かったのか、或いは生母である小見の方が優れた方なのか、それはわかりませんが、本人の持って生まれた資質だけではここ迄には育たないのではないのでしょうか。
『坊丸』
帰蝶さんが清洲に一泊して那古野に戻った次の日、少しやつれた顔の父が部屋を訪ねてきました。
「吉よ、勘十郎の事だが…」
「はい…」
「美作が亡き後、大変な落ち込み様であったというのは儂も知っておる。
しかし儂は、子が生まれて父となった勘十郎が、嫡男たる自覚を持ち素行が改まるのを待っておったのだ。だが、帰蝶殿は夫である勘十郎を立ててああ話してはくれたが、帰蝶殿が中心となり那古野を差配している実態は一向に変わらぬ…。
城主の妻と言うものは、城主になり替わり城を差配することもある立場ではある。
しかし、それは城主たる夫が戦などに出て居らぬとか、或いは不運にも没したとか、言わば非常の場合の話であり、平時で城主が健在であるのに、いくら妻が優れているとはいえ城主が妻に差配を任せきりというのは、己の役目を果たさず怠慢であるとしか言えぬ。
実は吉には話して居らなんだが、儂は勘十郎に幾度も手紙を送り、己の役目を果たすように時には諭し、時には叱責したりと、叱咤激励してきたが、勘十郎は一度も返事を寄こさぬ有様。
更には、何度か清洲に呼んでも見たが、一度も顔を出さぬ。
本来であれば、城主を解任し儂の手元に戻すべき所だ。
しかし、今の儂は守護代という立場がある。
そんな儂が嫡男を城主から解任すれば儂の面目は丸潰れ、儂を守護代に引き上げて下さった守護様の面目をも潰してしまうだろう…。
儂が子育てを誤ったのだ、儂の面目が潰れるのは致し方ない事。
しかし、守護様の顔に泥を塗り、折角纏まり平穏になっておる尾張を乱す事など。
あってはならぬ事だ」
父は弟を静観しているのかと思っていましたが、しっかりと勘十郎の状況を把握し、何とか改善する様に手紙を送ったりと手を尽くしては居たのですね…。
しかし、当主の召喚に応じないなどとは、本来であれば城を攻められても文句の言えない事です。
ですが今の尾張は平和で、それなのに父が自分の子に任せてある城を攻めるなど、これはもう父信秀の面目丸潰れでしょう…。
「そうですね…」
父は頷くと話を続けます。
「このままでは勘十郎の廃嫡を考えなければならん。
だが、そんな事をすれば何の落ち度もなくこれだけ尽くしてくれておる帰蝶殿を美濃に戻さねばならぬ。
そうなれば織田の嫡男に娘を嫁がせた利政殿とて心中穏やかではあるまいよ。
帰蝶殿は嫡男の妻であると同時に人質という意味合いもある故な。
盟を交わした相手の国主にこちらの都合で娘を送り返すなど、これは相手の顔を潰すものだ。
故に、嫡流の次男である喜六郎を嫡男にする事も、これまた難しい…」
喜六郎はまだ幼少ですし、帰蝶さんや斎藤家の事を考えると、喜六郎を嫡男にするという事はそれこそ勘十郎が討ち死にするとか病死したとかでなければ難しいのでしょう。
私が父に頷いて見せると、父は話を続けます。
「それでだ…。
儂が考えたのは、此度産まれた坊丸を嫡男にし名目上の那古野城の城主にする。
そして、佐渡守を城代とし、帰蝶殿は坊丸の生母なのでそのまま織田家嫡男の母として那古野に留まって貰う。
勘十郎は廃嫡の上で寺へ入れる」
なるほど…、考えましたね。
それであれば確かに帰蝶さんはそのまま実質的な女城主として那古野でこれまで通り。
斎藤家の顔を潰す事も無いでしょう。
ですが、勘十郎を出家させるのですか…。
元はと言えば、勘十郎が歪んだのは本人のせいというより、親のせいである部分が大きい様な気がするのです。
でも、もうこの歳になってしまっては中々矯正は難しいかもしれないですが…。
しかし廃嫡してしまえば、勘十郎は壊れてしまうのではないでしょうか。
元は素直でとても優しい子だったとも聞きますし…。
本当に、もう父の言うとおりにするしかないのでしょうか…。
「そうですか…。
私はそもそも弟には嫌われて居ますし…。
…。
致し方ないのでしょうか…」
父上は悲しい表情を浮かべると頷きました。
「儂とて、我が子を寺になど入れたくはない。
しかし当主の呼び出しに応じないというのは、公にして居らぬから問題にはなっておらぬが、本来であれば決して許されぬ事。
こんなことが公になれば、儂に従っておる者が黙っておるまい。
それこそ寺になどと言う甘い話はとても無理で、もう押し込めるしか無いのだ…」
私はただ溜息をつき頷くことしか出来ませんでした。
伊勢の事が終わったばかりでもあり、直ぐにという事では無い様ですが、そう遠くない時期に勘十郎は廃嫡されてしまうのかもしれません…。
勘十郎はこのままいくと廃嫡か押し込みのどちらかになりそうです。