閑話八十四 北畠晴具 尾張へ
捕らわれの晴具視点の話です。
天文十八年七月 北畠晴具
桑名衆救援と称して北伊勢を侵食し、その調略の手を我らに臣従する楠氏に届かんとするまで伸ばした斯波氏に対し、これ以上の南下は認めぬという我らの意思を示す為に出兵したのだが、結果は散々であった。
我らが最初に織田の軍勢の武将と兵の構成を知った時、織田は甲斐信濃で従えた新たな国人共に銭雇いの傭兵を付けて見せかけの大軍に仕立てて兵を出したのだ、と高を括っておったのだが、其れが良くなかった。
しかし、世の常識としてあのような軍が存在するなどと誰が想像できるものか。
我らの想像を絶するほど織田の軍勢は精強であり、我らの常識を覆すほどの動きを見せた。子飼いの家臣団で構成される我が軍勢は幸いにして総崩れの事態にはならなんだが、農兵で構成された我らに従う伊勢の国人衆の軍勢は、散々に崩され総崩れの有様であった。
恐らく、神戸家をはじめ皆の軍勢は無事では済まなんだろう。多くの将兵が討ち取られたに違いない。
がら空きに見えた敵本陣への強襲も、兵が伏せてあるばかりか敵の強固な守りの為、其れを突き崩せず上手く行かなんだ。
全ての後詰を投入しても織田の軍勢の優勢を覆すことかなわず、我らの軍勢が崩れ出したところでそれを待ち構えておったかのように弓騎馬で構成された軍勢に奇襲された。
騎馬に本陣を急襲されるだけでも危機であるのに、あの変わった形の弓の威力と命中率は驚異的であった。
我が馬回りは次々と討ち取られ、そして儂も肩と腕に矢を受け落馬したところを生け捕りにされてしまい、縄目の恥辱を受ける羽目になったのだ。
我らが軍勢は戦の後霧山城へ引き揚げた様だが、その頃儂は船で尾張へと送られていた。
伊勢の内海を渡って尾張に向かったのだが、尾張の見慣れぬ形の船は船足が速く、一刻もせぬうちに遠くに津島湊が見えてきた。
船から見る津島の湊は伊勢の大湊とは比較にならぬほど大きい。
噂に聞く堺の湊が噂通りならこの様な感じなのであろうか…。
大型船が停泊する埠頭が幾つも並び、浜には蔵が立ち並ぶ。
その数を見るだけでこの湊の生み出す銭の大きさが想像できよう。
船が津島湊へ入港すると、一先ず何処かの屋敷へと連れていかれたが、そこで食事が出た。
その食事の膳には鶏肉や卵を焼いたものや根菜の煮物など、幾つもの品が乗っており、随分と豪華な食事が出された。
儂を気遣っての豪華な食事かと思ったが、儂に同行する尾張の武士達も皆同じ膳を食べており、もしやこれが尾張では普通の食事なのであろうか…。
食事を終えた後、馬車という馬で引く牛車の様な物に乗せられた。
黒塗りの馬車の乗り心地は悪くなく、走り出してもガタガタと揺れる事も無い。
窓から外を見れば結構な速さで走っており、牛車とは比較にもならぬな…。
道中馬車の車窓から尾張の様子を眺めていたが、先ず尾張は街道の整備が行き届いており、しかもこの馬車という乗り物が普通に行きかう事が出来るほど道の幅が広く造られている。
途中で目に入る村を見てみれば、武士や商人ばかりか農民など庶民に至るまで暮らしぶりが良いのが見て取れた。
真四角に整備され広い田畑が平野部には広がっており、これなら石高もかなり高かろう。
伊勢も豊かな土地であるが、これ程の広い田畑が広がっているのを見ると、尾張にはとても敵わぬだろうな。
そんな事を車中で考えていたが、馬車はそのまま休むことなく走り、半刻も掛からずに清洲へと到着した。
尾張に来て驚くことばかりであるな。
翌日、尾張守護代の織田信秀との対面と相成った。
儂が通された部屋へ暫し後に現れた信秀は、歳は四十頃と聞くが見るからに若々しく、とても四十には見えなんだ。
「織田備後守信秀にござる」
「北畠天祐である」
「傷の方は如何にござるか」
「織田の金瘡医の腕が良かったのか、痛みはするが悪くはなっておらぬ様だ」
信秀はそれを聞き笑みを浮かべる。
まあ、人質に死なれては都合が悪かろうからな。
「それは何よりにござる」
「それで…。
そなた、我らを如何するつもりじゃ」
「北畠殿、尾張を見てどう思われた」
「随分と発展しておる様に見えた。
津島の湊は、大きな湊と言われておった伊勢の大湊すら比較にならぬほど大きく、また道すがら見えた風景は道は広く整備され、田畑も大きく整備されておる。
そして、村々に暮らす人々は武士ばかりか、農民まで皆暮らし向きが良さそうに見えた…。
…が、未だ儂の問いには答えて貰っておらぬぞ」
信秀は儂に頷いて見せる。
「我らに敵対されぬのであれば、我らもこれ以上戦を続けるつもりはござらぬ」
「此度の戦は、そなたらが仕掛けてきた戦であろう。
我らから敵対などして居らぬぞ」
「これは異なことを言われる。
そもそも我らが兵を出したのは、北伊勢の国人共が桑名湊へと行った度重なる矢銭の要求や脅迫に桑名の商人衆が耐えかね、我らが守護様へと助けを求めて参った故。
それ故、説得して納得する者らは話し合いにて今後干渉せぬ事を確約させ、説得に応じぬ者に兵を出したのでござる。
我らには伊勢を領する野心は無く、ただ桑名湊そして近江への道を塞ぐ石を取り除きたかっただけにござる。
だがそれを北畠殿がどう思われたのかはわからぬが、出兵の準備を始められた故、直ぐに我らは誤解を解くべく説明の為の使者を送り申した。
しかし、使者は問答無用とばかりに追い返されましたぞ」
なんだと?!
そんな話は聞いておらぬぞ。
織田が兵を伊勢に出して来たと報告を受けた故、儂は兵の準備を指示したのだ。
使者が来たなどと、そんな報告は受けておらぬ…。
もしや儂の弓馬や茶の湯の修行の為に、普段の政務を任せておる具教めが勝手に追い返したのか?
事実はわからぬが、今となっては詮無き事か…。
「ならば…。
我らから今後敵対せぬと誓紙を出せば、織田は兵を引き敵対せぬと。
そういわれるのか?」
「如何にも。
確約いただけるならば我らは直ぐに兵を引きましょう。
今後、我らから攻める事はありますまい。
我らの望みは商圏の拡大と安定のみにござれば」
「商圏の拡大…?」
「我らが豊かなのは駿河から伊勢まで続く安定した商圏により商いが活発な為にござる。
商いが盛んになれば、物が、人が動きまする。
人と、物が動けば、銭を生み出す。
その銭が我らの豊かさの源にござれば。
豊かであればこそ、道を整え、田畑を整え、川を整えられる。
そして、更に豊かになる。
豊かなれば戦を起こす必要もなく、国が荒れる事も無い。
よって安定して税が集まりまする。
だから、態々戦を起こして国を獲り領地を増やさずとも、それの繰り返しで飛躍的に豊かになるのでござる。
その為に、領地では無く商圏の拡大と安定を進めておるのが我らにござる」
聞けば理に適っておるが…、信秀は商い商いと商人の様な考え方をするのだな。
武士ではとても思いつかぬ。
だが、豊かなればこそあれほどの軍勢を整えてみせられるのであろうよ…。
「なるほどのう…」
「北畠殿、此度誓紙を頂き和議を結んで終わりでも構いませぬが、それだけで終わりにせず、今迄の遺恨を水に流して盟を結びませぬか。
北畠殿が盟に応じて下されば、我らが商圏は伊勢、志摩にも広がりましょう。
さすればその道は紀伊から堺までも繋がり、領地を拡げずとも益々豊かになりましょう。
長野、関両家は既に我が守護様へ臣従を誓い、商圏に加わっておりまする。
今後は北伊勢も安定し、飛躍的に豊かになりましょう。
何故なら尾張より北伊勢、そして南近江まで我らが商圏は広がるのでござる。
その様な状況で、北伊勢が豊かにならぬわけがござらぬからな。
それがしが言っておる意味が、英君と噂される北畠殿なら理解いただけるかと思いまするが」
長野氏も関氏も斯波殿に臣従したのなら今後攻めることが出来ず、我らは大和へしか進出出来ぬ。
しかし、大和を攻めるのは簡単ではない…。
和議は結ぶが盟は結ばぬ場合、信秀の言うとおりになれば北伊勢は豊かになり我らは沈む。
そうなれば利に聡い志摩の海賊共もまた斯波殿へ靡くかもしれぬし、南伊勢の国人共の動向もわからぬ…。
我らの領地は豊かではあるが、戦が減ったからと大きく豊かになるかと言われれば否であろう。
それどころか信秀の言う商圏に、我らの民が流れ出てしまうかもしれぬ…。
今川氏がそうした様に我らも盟を結びその豊かさの恩恵を受けた方が得策か…。
「…わかった。
斯波殿と盟を結ぼう。
具体的な話は、和議を結び双方兵を引いた後で構わぬか」
「英断にござる。
勿論、盟はその後で構いませぬ。
では、誓紙を入れて頂ければ直ぐに南伊勢へとお送りいたす」
「忝い…」
こうして儂はその場で誓紙を書くと織田殿に手渡した。
その後、織田殿の勧めで熱田におる名医の下で暫く傷の治療を受けた後、帰国の途に就いた。
名医と言われる通り、その医者の指導通りに過ごせば傷は驚くほど短期間に治癒し、痕も残らなんだ。
館へと戻ると此度の顛末を家臣らに話して兵を解いた。
織田の軍勢も整然と引き揚げていった。
使者はやはり具教の命で追い返しておった。
聞けば、時間稼ぎなのは明白故追い返した、といっておった。
確かに…、織田に伊勢を制する野心があれば使者を使い時間稼ぎという策も考えられなくもない故な…。
いずれにせよ、一度具教にも尾張の現状を見せねばなるまい…。
結局、身動きが取れないまま相対的に沈むことを恐れて盟を結ぶことになりました。